藤圭子の生い立ち


10歳から「三条純子」名で歌手活動をはじめる。
旭川市立神居中学校に入学した藤圭子は成績優秀で卒業するも、生活のために高校進学を諦めて歌手を志す。
17歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会に出場。歌を聴いたレコード会社の関係者の目に留まり、上京する。東京では当初日暮里の六畳一間のアパートに家族5人で住んでいた。
そのうち初代林家三平宅に下宿生活が決まる。
18歳の時歌手デビュー


藤圭子 デビュー当時
1970年10月23日に藤圭子のデビュー1周年記念コンサートが東京・渋谷公会堂で行われた。
この公演『藤圭子演歌を歌う』は、ファンの間で「伝説のコンサート」と言われ、藤圭子の歌手活動の中で最高のコンサートという。
藤圭子と前川清の結婚~離婚



清と圭子
離婚後二人の交流はなかった。
藤圭子が亡くなり、前川清は命日である22日に追悼ライブをおこなった。
紅白歌合戦に出場
藤圭子は、1970年から1976年までで(1973年と1974年を除く)5回、紅白歌合戦に出場している。
紅白落選とポリープの手術
1973年、藤圭子は紅白歌合戦落選した。その後に声帯ポリープを理由に歌手活動を休止した。
1974年、喉のポリープの手術を受ける。手術派成功した。
しかし今までのドスがきいた藤 圭子の声は、澄んでしまいきれいな高い声になった。
そのことで歌に幅がなくなり、かつての藤圭子のように歌えなくなってしまったという。
この頃から藤圭子は引退を考えていた。
1977年に紅白歌合戦を落選すると藤圭子は荒れたという。
そして前年1976年の出場が藤圭子の最後の紅白となる。
その後事務所は移籍し師匠である「石坂まさを」の元を離れることになる。
離婚後に出演した「夜のヒットスタジオ」OPメドレー
藤圭子の引退~渡米
紅白歌合戦落選から2年経過した1979年10月17日に、藤圭子は、父の暴力で悩む母を離婚させたことを機に突然歌手引退を発表する。
1979年、28歳の藤圭子は、突然の引退後に渡米する。

夫・宇多田照實が設立した『有限会社ユースリー・ミュージック』の取締役になる。
1995年には家族3人でユニット『U3』を結成した。
娘の宇多田ヒカルが日本でデビュー

娘・宇多田ヒカルの日本でのヒットで100億円

多額の現金とともに世界中のカジノを旅行する

2006年10月22日にフジテレビ系列で放送された情報番組『スタ☆メン』内のインタビューで藤圭子は「この5年間ほとんど日本に帰らず、パリ、モナコ、アムステルダム、ゴールドコースト、バハマなどのカジノを中心に世界中を旅している。ファーストクラスのチケット代、(各国の高級)ホテル宿泊代などで、5年間で5億円は使った」と話している。
2009年1月27日にニューヨークの連邦地裁で返還を命じる決定が出たとして、没収された現金42万ドルは藤圭子に全額返還された。
デビューから45年、歌手の藤圭子(享年62)の最期


1970年に毎日新聞に掲載された五木寛之のエッセイ
2013年8月22日 藤圭子さんのこと - 碓井広義ブログ