アジア圏で歌手として活躍し「アジアの歌姫」と呼ばれた、テレサ・テン。

10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。14歳の時に歌手としてデビューする。


演歌歌謡曲路線に転向したデビュー2曲目の「空港」が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得した。
1974年3月から1997年10月まで約20年間の日本における歌手活動で、ポリドール・レコードから12枚、トーラスレコードから18枚の合計30枚のシングルをリリースしている。

トーラスレコード(後に所属することになる)社長の舟木稔のはからいで1年間アメリカで過ごし、1980年に台湾に帰国した。この帰国の条件が台湾政府への協力だった。
テレサ・テンは中華民国軍の広告塔として台湾を拠点に活動を再開、「愛國藝人」と呼ばれた。
テレサ・テンの日本再デビューと大ヒット
1984年、テレサ・テンの再来日が許可される。ポリドールからトーラスレコードにレコード会社を移籍し「つぐない」をリリース、日本で再デビューを果たす。
1985年2月に発売された「愛人」は、有線放送のリクエストチャート1位を14週連続記録した。テレサ・テン15枚めのシングルである。
テレサ・テンは同年大晦日恒例の『第36回NHK紅白歌合戦』に初出場した。

1985年の『第36回NHK紅白歌合戦』
1986年2月に発売された、テレサ・テン16枚めのシングル「 時の流れに身をまかせ」で、第19回日本有線大賞と第19回全日本有線放送大賞(年間)、それぞれ史上初となる3年連続のグランプリを受賞した。
五木ひろしはテレサ・テンとの合成デュエット。かつて交際していたジャッキー・チェンもまたテレサ・テンとの合成デュエットをリリースしている。
マルシア、小林幸子、森進一、八代亜紀、加藤登紀子、夏川りみ、つるの剛士、徳永英明、チョーヨンピル他によりカバーされている。
1987年6月に発売された「別れの予感」は、テレサ・テン18枚めのシングル
テレサ・テンの「別れの予感」は、香港の歌手、ビビアン・チョウや日本の歌手の中森明菜、岩崎宏美、由紀さおり、門倉有希、夏川りみ、ニック・ニューサがカバーしている。
天安門事件で変わったテレサ・テンの運命
10年後に中国返還を控えた1987年にテレサ・テンは台湾から香港に移住していた。
天安門事件によって、多くの人の運命が変わった。テレサ・テンもそのひとりだ。

1989年6月4日に天安門広場“血の日曜日”事件が起こった。
大陸でコンサートを開くことがテレサ・テンの夢だった。自分の歌を愛してくれる普通の人々のために無料でコンサートを開く計画が進んでいた。その会場は天安門広場だったのかもしれない。
そしてテレサ・テンは香港が中国に返還され、人民解放軍がやってくることを恐れていた。

その時、フランスは革命から200周年を迎えていた。当時のフランス政府は、中国からの政治亡命者を受け入れていた。中国の民主化を推進するために「民主中国陣線」が結成された。
1992年6月パリ、エッフェル塔の下にあるトロカデロ広場にて天安門事件3周年集会に参加、他の参加者と共にテレサ・テンは涙ながらに「血染的風来」という曲を歌った。
42歳のテレサ・テンがタイで死去
1995年 5月8日タイ北部チェンマイに休暇で滞在中、気管支喘息の発作による呼吸困難で死去する。42歳。

チェンマイ
テレサテンの真実と4つの悲恋 - Middle Edge(ミドルエッジ)
テレサ・テンの歌が今も愛される理由
1980年代になると、テレサ・テンの違法コピーカセットテープがアジアや中華人民共和国で出回るようになり、爆発的な人気を博した。特に中国では、1930年代に流行した「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」(作詞:貝林 作曲劉雪庵)のカバーが民衆の心を掴んだ。

しかし中国共産党政府はテレサ・テンの影響力を危険視していた。そして、テレサ・テンの歌は中国で放送禁止になった。

テレサ・テンの心には父母の祖国である、中国への思いがあった。自身の結婚や幸せよりも歌うことに人生を捧げ、自分の歌を愛してくれる人々のために私財を投じることも厭わなかった。そして今も多くの人々にテレサ・テンの歌は愛されている。
