『風の谷のナウシカ』と『AKIRA』
本作『風の谷のナウシカ(以下『ナウシカ』)』は、誰もが知っている国民的アニメとして、1984年に(まだその頃、ジブリという企業はなかったが)漫画を描いた宮崎駿監督自身によってアニメ化されたことで有名である。
そういう意味で「天才が、自分で描いた漫画を、自ら監督してアニメにする」という意味では、1988年に公開された、大友克洋原作・監督の『AKIRA』と同じ構造であり、しかしそこには意外な相似性もあって面白い。

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『ナウシカ』も『AKIRA』も、原作漫画は多段構造の、複雑な世界観構成で成り立っている漫画である。未来SF、それも、当時流行していた「人類の終末以降」という、『ノストラダムスの大予言』以降『ネクロマンサー』『マッドマックス2』(原題: Mad Max2:The Road Warrior1981年)への流れの隆盛期というわけではないが、当時のSF界隈はその辺りをうろうろしていた。
『ナウシカ』『AKIRA』もその流れにあり、物語上の大きな括りとしては「人類の再生」が挙げられるが、メタ的には「原作は、複雑に入り組んだ構造を、アニメ化するにあたって、当の原作者の陣頭指揮の元、徹底した換骨奪胎が行われ、テーマ性をも犠牲にして“見せ場主義”が貫かれ、結果、アニメ版だけ観ている人には、ものすごくシンプルな勧善懲悪作品だと誤解されるような映像版を、あえて作って成功した」というのも挙げられるだろう。
この時期、特に思春期向けアニメは「試されている時代」であり、富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』(1979年)でピークに達した思春期向けアニメブームが、そのまま世代や時代とシンクロして、一つの定着したコンテンツになっていくのか。それとも一過性の現象で終わるのか、それとも、ごく一部の好事家達だけを市場にした、閉じたビジネスへ落ち込んでいくのか。結果、時代の選択は非情にも三番目であったが、まだそこへ落ち込む前に、先にサブカルチャーとしては、先鋭化を極めていた漫画というプラットフォームで、充分に深遠な設定と世界観を描き出していた『ナウシカ』『AKIRA』が、広く老若男女を劇場に呼び込まなければいけない、二時間しか尺がない「アニメ映画」というメディア変換の岐路で、同じ選択をしたことの意義と意味は、もっと深く追及されても良いだろう。
とりわけ、原作物語の複雑さや設定の深遠さを切り捨て、主に原画や作画、映像ならではの「動きの演出」に特化することで、作劇テーマをエンターテイメントのコンテンツテーマに置換しつつ、それぞれの「『ナウシカ』らしさ」「『AKIRA』ならでは」を、表現していたことは、それぞれの個論としての評価以外においても、当時の劇場用映画アニメの限界論としても評価されていいかもしれない。決して原作漫画が放とうとしたテーマが、映画的に難しすぎるという問題ではないということは、この時期既に多種多様なハリウッドのSF映画群がそれを証明している。
『風の谷のナウシカ』と『戦闘メカ ザブングル』
『ナウシカ』原作版は、これも読んでいる方は多いだろうから詳細は省くが、アニメ版とは意図的に価値観がずらされていて、主にナウシカやそこに生きる人々が、「火の七日間」を境に、実は読み手の我々側ではなかった、遺伝子操作による人工ミュータントだったという設定が明かされる。
つまり、「近未来。地球は一度最終戦争に陥ってしまい、結果的に人類は絶滅寸前になり、地上は生きることも難しい世界に変わり果ててしまった。そこで“地上で生きるために”生み出された人工人類。ミュータントが主人公。この主人公はミュータントといえど、それまでの未来SFに搭乗した“冷たい”存在とは違い、むしろ人間性の発露。人間の、本来の“生きるバイタリティ”をそのままに復元した形で、躍動感と喜怒哀楽、生命感に溢れた人物像として活躍していく。その主人公の周りにも、ミュータント的なる存在達は多く描かれ、むしろそこで描かれる“敵”こそが、人を滅ぼすきっかけとなった旧人類の執着とエゴの残した遺産のような存在でもあり、主人公は様々な冒険を経て、世界を滅ぼすに至った旧体制的な思考に取りつかれてしまった亡霊のような旧人類の残党(我々現代人の末路)を相手に、勇気と活力と体力と生命力で“本当の人間とは、そもそもどのように生きるべきであったのか”を体現しながら、旧人類が滅ぼした世界で生きれるがゆえのミュータントでありながら、ミュータントの存在そのものが、本質的な人間論、人類賛歌となり替わっていく。つまり、作品全体が、現状(当時)の人類社会の在り方を否定して、ネクストワールドに生まれるだろう人類こそが、本質的な“人間”なのだろう、そうあるべきだというメッセージを中核にして描かれている」ということになる。
はたして“これ”がどの程度、80年代のSFシーンにおいて「ありきたりな着想」だったのかは分からない。
「最終戦争の後の、荒廃した未来の世界観」から始まるで言えば、『猿の惑星』(原題: PLANET OF THE APES 1968年)も『マッドマックス』(原題: Mad Max1979年)も『北斗の拳』も一括りで、決して軽々とまとめてしまっては散漫な論になってしまうだろうからだ。
しかし、その一方で、筆者のこれまでの書評やコラムを読んでくださって来た皆様には「またか」と言われるかもしれないが、今、上で書いた大枠が、すっぽりそのまま当てはまる作品が他にもあるのである。
それは、既に紹介した『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督による『戦闘メカ ザブングル(以下『ザブングル』)』(1982年)というアニメである。

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このアニメは、あくまでコメディドタバタロボットアニメの体裁を取り繕いながらも、根底に流れている設定は悲惨だ。「“惑星ゾラ”と呼ばれている“地球”」というオープニングナレーションから始まり、ロケーションと背景はどうみても西部劇なのだが、そこにウォーカーマシンと呼ばれる、土木作業機械のようなロボットや、戦艦のような地上用移動母艦が登場し、主人公が乗るウォーカーマシン・ザブングルに至っては、さしずめ青く塗ったガンダムのように、ヒーロー兵器っぽい。
そこでは、富野監督の「いつもの」エピソードが存在しているのだが。
当初、このアニメの企画をした日本サンライズ(当時)は、『エクスプロイター』という、宇宙戦争ロボットアニメの設定骨子を考えていた。そこでの要素のいくつかは、後の同社制作アニメ『銀河漂流バイファム』(1983年)に活かされるのだが、当初の総監督が都合で退き、劇場版『伝説巨神イデオン』(1980年)の製作で忙しい富野監督に無理矢理総監督のバトンが委ねられ、様々な会社事情やスタジオの熟練度、今現在自分に任されている仕事量とのバランスを考えた富野監督が、ホテルにこもりきりで三日で全ての設定をひっくり返して考えたのが、『ザブングル』の世界観と設定だった。
「惑星、ゾラと呼ばれてる地球。大地は全て荒廃し、惑星全土が西部開拓時代のアメリカのような星の上で、インテリジェンスは低いが、体力と生命力には溢れている人々、シビリアンと、それを管理する、ドームの中の支配者・イノセントによって、二階層で構築されている社会の中で、守らねばならない掟はたった一つ。殺人でも強盗でも、三日逃げ切れば罪を問われないという『三日の掟』。しかし、そこに一人の少年が登場する。三日以上前に両親を殺された恨みを晴らせずに、まだ仇を追い続けている主人公・ジロン。ジロンは両親の仇を追いかけながら、ザブングルを手に入れ、周囲を巻き込み振り回し、やがては世界構造の中枢、イノセントの存在の鍵にまでたどり着く。ゾラは元々地球であり、核戦争によって放射能に汚染された結果、人が大地に住めなくなり、ドームの中に引きこもるしかなくなり、しかしなんとか、そんな世界でも生き延びれる新人類を作ろうと、実験の結果生み出されたのが、ジロン達シビリアンであった」という展開。
今回は、「なんどめだなうしか」とツッコミが入りそうなのでコピペの繰り返しはしないが、ここまでお読みいただいた時点で、『ナウシカ』と『ザブングル』が、ほぼ同じ構造の「人類再生・人間バイタリティ賛歌」を描いていることが分かる。
では、この場合どちらからが、どちらかを真似したのかと言われると答えづらいのではあるが、では全くの無関係で、『ナウシカ』と『ザブングル』が相似形になったのかと言われると、決してそうでもない辺りがめんどくさいのだ(笑)
確かに、富野監督は宮崎監督作品を意識して『ザブングル』を生み出した。
しかし、『戦闘メカ ザブングル』の放映は1982年であり、『風の谷のナウシカ』が連載され始めた年である。
いくら富野監督といえど、連載が始まったばかりの漫画の、10年先のオチや裏設定まで先読みが出来ていたわけではなく(漫画版『ナウシカ』が完結するのは1994年)、だからといって、宮崎監督からこっそり、予め裏設定を窺い知っていたとかの、裏があるわけではない(というか、お二人の関係性や性格を少しでも知っているアニメファンや業界関係者であれば「それだけは絶対にない」と言い切れる(笑))。
では。
絶対的に、『ナウシカ』と『ザブングル』の一致が奇跡的に偶然だったかと問われれば、決してそんなことはないのである。
『戦闘メカ ザブングル』と『未来少年コナン』
実は、富野監督は『ザブングル』という作品を総括したインタビューで、こんなことを述べていた。
富野監督は、アニメ監督としてはかなり自虐的な物言いをする人なので、一概に本人の言だからと鵜吞みにはできないが、さて、では、その、話に出てきた『未来少年コナン』(1979年)という作品は、はたしてどんな代物であったのだろうか。

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『未来少年コナン(以下・『コナン』)』は、まさに富野監督が『機動戦士ガンダム』を撮っていた1979年に、日本アニメーションで制作され、NHKで放映されていたアニメ作品であり、この作品で大塚康生氏はデザイン作業と作画を、宮崎駿氏は、デザイン、脚本、演出と、八面六臂の活躍で、今でもアニメファンの間では、伝説の名作と語り継がれている作品である。
原作は、Alexander Hill Key氏が1970年に執筆した『残された人びと』(原題: The Incredible Tide)という、東西冷戦の最終戦争が起きた20年後が舞台のSF小説。
アニメでは大きくイメージを変えられているが、その根底にあるのは、やはり東西冷戦が常に喚起し続けた「人類の歴史の行き止まり感」と「その先」観であり、ここで登場する主人公のコナン少年もまた、テレパシーを使える時点で、超能力者でもあると同時に、彼や幼いヒロインのラナなどが、意図的に作られた「人工次世代」だということが、全編のオチに繋がっていく。
しかし、むしろそういったミュータント的超能力と同等か、それ以上に少年・コナンの、肉体力、生命力、躍動感、パワフルさ、スタミナ等が所せましと大塚氏によって描かれ、それが冒険活劇にも繋がり、作品は魅力を発揮していくのではあるが。
物語構造自体は、一番最初の段で、『ナウシカ』の解説として書いた大枠が、『ザブングル』と同じく、そのままここでも「なんどめだなうしか」になっている(だから『ザブングル』は『コナン』をコピーした作品と言われているのだ)。
逆を言えば、そもそもの「アニメの主人公」というのは、元からしてこの程度には頑丈で、崖から落ちた程度では死ななくて、驚異的な身体能力を見せるのが普通であったのだが、大塚・宮崎コンビはあえてそこで「驚異的なスタミナを持つ少年主人公」に、社会派SFメッセージ的な色付けを加えたのだ。
それこそが「人間はそもそもの、動物としての身体能力を目覚めさせるところに戻らないと、約束された“崩壊の日”の、先を生き残ることも出来ない。最後に生き残る決め手になるのは“生命力”なのだ。そして、“それ”を描ける最適なメディアこそが、白い紙に線と色で画を描く“アニメ”なのだ」という、強い主張だった。
それは、富野監督も、前述の『ザブングル』に関するインタビューで、続けてこう語っている。
つまり、先ほど『風の谷のナウシカ』のガイドラインとして書いてみせた枠筋は、実は『コナン』にその発祥を観ることが出来、実は宮崎駿氏が、アニメではなく漫画で描いた『ナウシカ』は、実像はかなり『コナン』に近かったのである。だからこそ、そもそも『コナン』ありきの『ザブングル』とは、似てくるのは当たり前なのである(余談だが、富野監督は『ザブングル』に関して「目指していたのは、実は活劇ではなかった」とも応え、「最低限の鍵が“たとえコナンのコピーとののしられてもかまうものか!”とやった活劇の部分で、実はそれが一番正しかった」とも述べている)。
かように、「閉塞していく未来を救うのは、原始的な人間という生物の持つ肉体的ポテンシャルなんだ」という信心は、ある種『北斗の拳』的なマッチョイムズと混同されやすいかもしれないが、もう少しそこには、ヤンキー的思考ではなく、インテリジェンスの悲痛な願望的な裏付けと共に、この時期トレンドなテーマであったことは事実であろう。
『風の谷のナウシカ』アニメ版がフェイクとして掲げた理想郷嗜好
アニメ界では、左傾的文化人の筆頭に挙げられる宮崎駿・大塚康生コンビだが、そのコンビと共に、同じく左傾派脚本家として70年代テレビ文化のトップを走っていた佐々木守氏が(時期はズレるが、それこそ富野監督も絵コンテで参加した)作品に『アルプスの少女ハイジ(以下・『ハイジ』)』(1974年)がある。
佐々木守氏は、後年『ハイジ』から『ナウシカ』にかけて、こう言及した。
おそらく、佐々木氏がここで言及している『ナウシカ』は、アニメ版のみのものと思われる。
むしろ、現実での闘争(二度の安保闘争等)で敗北した左派文化人が、現実と拮抗できる手札を失った先で、作劇空間の中だけで仮想の理想郷を描いてみせ、“そこ”から見返した時に現実社会がどれだけ酷いありさまに陥っているかを作劇で突きつけ、しかし物語ではその理想郷が現実を何もレスキューしないままに断絶を起こして終了してしまうという手法は顕著で、他ならぬ、ここで『ナウシカ』の風の谷理想郷主義を批判した佐々木氏自らが、昼帯ドラマの『三日月情話』(1976年)や、劇場用映画の『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990年)等で“常世の国”として用いた、典型的な手法であったりもした。
それは、若松孝二監督と組んだ『聖母観音大菩薩』(1977年)でも、大島渚監督と組んだ『夏の妹』(1972年)でも見られた「佐々木式作劇」であった。
宮崎氏がペンを走らせ続けた漫画版『ナウシカ』は、理想郷主義を捨て去り、更にその先で、スタミナ論と躍動感を得たナウシカ達自身が、しょせん人工物に過ぎず、地球という生命体の前に非力を痛感する流れがあるのだが、そこで劇中設定として産み落とされた数々のガジェットが「環境再生」のための布石であったことが明らかにされるが、“それ”はやはり、人間が今現在警鐘を唱えている「環境問題」が、決して“地球という惑星のため”ではなく“そこ”に寄生しなければ生きられない人類のエゴのためだという主張と同等に、しょせんは環境再生というお題目もエゴなのだよと受け止めることも可能である。
漫画版『ナウシカ』のラスボスである「墓の主」は、分かりやすく「危うい理想郷主義」を唱えてみせて、物語自体は地球という生命体の選択に、人類全ての自らの身を預けるという終わり方をする。
これをして、宮崎氏が「人体のスタミナ論」を捨て去ったと解釈するのは危うい。
なぜなら、「墓の主」を打ち倒し、空虚な理想郷主義をも打ち砕いたのもナウシカ自身のスタミナであり、“その先の地球上”を生きて行けるのかどうかを、全巻に渡るナウシカの身体能力的活躍が、決して絶望を約束させていないからだ。その“自然と人間の共生”は、宮崎駿氏の中では、事実上の「アニメ版『ナウシカ』続編」の『もののけ姫』(1997年)へと繋がっていく。
『ナウシカ』は、80年代に多くのSFが提起した「人体スタミナ信仰」からスタートして、それをもう一度着地点にしながら、90年代に盛んに盛り上がった「環境問題」の本質を貫いて終了した。
その終了直後に制作されたアニメ『もののけ姫』では、アニメ版『ナウシカ』の登場人物達が全て、微妙に立ち位置や役割を異ならせながらも、日本の中世に転生して、漫画版『ナウシカ』のラストメッセージを提唱していった(アニメ版の『ナウシカ』と『もののけ姫』との関連性に関しては、「『ナウシカ』ではアスベルでしかなかった視点存在」が、主役のスポットライトを浴びたからこそ、アシタカは「何もしない主人公に見えた」という一点だけでも、松田洋治氏の起用を逆算で考えれば、異論の入る余地はないはずだ」。
「そこでの渾身のメッセージ」が“何”に対して放たれたのかを、当時のアニメシーンの時系列体感で考えた時には「エヴァの病巣」が、明確に浮き彫りになるのである。
『新世紀エヴァンゲリオン(以下・『エヴァ』)』(1995年)が「やらかして」しまった。人間の「病んでる部分の似非リアリズム」と「生命力悲観主義」「内面性至上主義」「バイタリティのネガティブさえのファッション的傾倒」は、アニメーションという「何もない白い紙の上に、命を生みだす」という、語源のAnimismすらをも空虚に空洞化させる悪行は「“そこ”にテーマがあるかのように思わせぶる」手法と共に、時代の気分や目新しさだけを手掛かりに、既存の凛とした作品へのオマージュと借り物とパッチワークだけで、「何か斬新な時代の到来」を、でっち上げてしまった代理店手法のような現象を生んでしまった。
「悪貨は良貨を駆逐する」は世の常だが、80年代で次々送り出されてきた、ハッタリだけのでたらめな商品群でカタログが埋め尽くされていた頃から変わらない、「ゼネプロ商品」に騙された多くの「かわいそうな人たち」がエヴァに群がり、まるで「そこ」に何かがあるように語り合い続けたが、20年が経過して、ようやく正気に戻った「エヴァファン」は、『エヴァ』が深遠なメッセージと表現開拓ではなく、気分とファッションだけであることを理解したようである。
『エヴァ』が描いた空虚で稚戯じみた世界観と作劇(以下)の手札は時代とともに廃れ、宮崎氏が『ナウシカ』『もののけ姫』で遺したものは、今もファミリー層や一般映画ファン層にも受け入れられ続けている(有名な話だが、アニメ版『ナウシカ』で巨神兵が暴れたシーンを作画したのは、『エヴァ』の庵野秀明氏だ)。
時代はいつでも、最終的には「手ごたえが実体としてある、本物」を残していくのだろう。
メーヴェに乗って、手を伸ばし続けたナウシカのように。