五木ひろし
妻の和由布子
1960年代は不遇の時代だった
五木ひろしは、1963年3月、中学を卒業した翌日、長姉を頼り単身京都へ移り、関西音楽学院に入学します。一年後の1964年5月、作曲家の上原げんとを紹介され、プロ歌手を目指し上京。上原の内弟子となり、松方弘樹らと共に歌を学びます。五木ひろしは1965年に“松山まさる”としてデビューし、その後に一条英一、三谷謙と芸名を変えるも全くヒットには恵まれていませんでした。
松山まさる
上京して4ヶ月後の1964年9月、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝し、コロムビアの専属歌手になります。1965年6月、“松山まさる”を芸名として、コロムビアから「新宿駅から/信濃路の果て」でデビュー。しかし頼みの綱だった上原が同年8月、軽井沢へ向かう車中で心臓発作のため急死、五木はまだ17歳でした。シングルを計6枚発売するもヒットに至らず。この時期は都はるみや北島謙三らスター歌手の前座や、キャバレー回りが主で仕事は大半地方巡業でした。
一条英一
1967年4月、“一条英一”に改名し、ポリドール・レーベルから「俺を泣かせる夜の雨/流れ星」で再デビューします。シングルを計3枚発売するもヒットに至らず、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の「御三家」には大きく水をあけられ、三田明など10代の歌手にもどんどん追い抜かれてしまいました。1968年、プロダクションの倒産とともに契約を解除。
仕事は0になり貯金も尽き、食べる物にも困った彼は、机の引き出しの奥から出てきたフジテレビの食堂の食券を握り締め、東中野のアパートから河田町のフジテレビまで歩いて行ったこともあるそうです。
三谷謙
そんな時、同じアパートに住んでいたホステスから弾き語りを勧められ、銀座の高級クラブ『クニ』で歌い始め1969年、ここで作曲家の遠藤実を紹介されます。そこでミノルフォンと契約。12月、“三谷謙”に再び改名して、「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再デビューを果たすもまたもやヒットに至らず。
デビューしてから約5年間の間に2度も芸名を変更するなど不遇の時代を過ごします。
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歌手生命のすべてを賭けてよみうりテレビ『全日本歌謡選手権』に挑戦し、10週を勝ち抜く。その結果、自身4つ目の芸名である“五木ひろし”で再デビュー、という経緯があります。そのため、五木は本曲について「自分の原点であり、全てのスタートを切った曲」であると強い思い入れを持っています。
発売から3ヶ月目にオリコンチャートトップ10に初登場し、7週間後には最高位である1位を記録しました。2016年現在で五木にとってこの曲が唯一のオリコン1位獲得作です。
五木は本曲で第13回日本レコード大賞歌唱賞の他、第2回日本歌謡大賞放送音楽賞等、多数を受賞。また1971年の第22回NHK紅白歌合戦初出場を果たす。紅白歌合戦では1971年と2014年の第65回紅白歌合戦の2回、本曲を歌唱しました。
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