山下達郎
現在の座右の銘は?
アメリカンポップス・ロックに影響を受けており、自分自身のヴォーカルを多重録音する「1人アカペラ」という手法を用いることでも知られています。音楽作りに対する独自の姿勢から「音の職人」とも呼ばれています。レコーディングではボーカル・バックコーラスのほか、編曲からギター、コンピューターの打ち込み、シンセサイザー、パーカッションまで1人で手掛け、なんとすべての演奏を1人で行っている楽曲もあります。
山下達郎の歩み
1953年2月4日、池袋駅西口で居酒屋を経営していた両親のもとに生まれ、一人っ子として育ちました。宇宙と読書が大好きな、まじめに塾通いする典型的優等生タイプの小学生で、児童会役員にも選出されたこともあります。6年生の時にマーチングバンドで小太鼓を担当したことをきっかけに、楽器への興味が芽生えたそうです。
最も多感な年頃に音楽の波が押し寄せる
20世紀後半に活躍したデジタル記録媒体(カセットテープ、フロッピーディスクなど)の歴史を振り返る。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
浴びるように音楽を聴いていた子どもだった
そんな時代の中、山下達郎は小・中・高と一番多感な年頃を過ごしたのです。自然と音楽が最も大事なものとなっていきました。当時レコードを聴くためには、家に帰ってその場にいないといけませんでした。一人でじっくり音楽と向き合い集中すると、宇宙の果てまで連れて行ってもらえるような深い感動があったそうです。
1968年4月、都立の進学校入学の褒美として、以前から欲しかったドラムセットを買ってもらいました。子どもの頃から興味のあった宇宙物理学者・天文学者を変わらず目指しますが、本人は音楽に傾倒していきます。
孤立・乱暴な教師、そして学問を挫折した高校生時代
また、進学校特有の管理的体制への違和感、受験一辺倒な考え方のクラスメートからの孤立感に悩みます。そして教員からは長髪を理由に恫喝を受けたこともありました。そんな中、翌1969年には成績は下降し、留年も危ぶまれるほどでしたが、なんとか進級を果たしまいた。しかし、この時点で目指していた学問の道、宇宙物理学者・天文学者になる進路は挫折してしまいました。