パトリック・エムボマ!'97ガンバ大阪で得点王を獲得!
パトリック・エムボマ。
1970年11月15日生まれ。カメルーン出身の元同国代表サッカー選手。
パリ・サンジェルマン(フランス)、ガンバ大阪、ACパルマ(イタリア)、東京ヴェルディ1969などを経て、ヴィッセル神戸で現役を終える。
唇を閉じて「ンボマ」と発音するのが正しいが、フランス時代に誤って「M'boma」と綴られたため「エムボマ」と呼ばれるようになったとされる。

パトリック・エムボマ
1997年のJリーグ開幕戦、ベルマーレ平塚戦で決めたリフティングからのボレーシュートは今でも語り草となっている。ガンバ大阪では「浪花の黒豹」と呼ばれ親しまれた。
1997年シーズンは、25ゴールでJリーグ得点王に輝き、ベストイレブンも獲得。
好物はうどんと寿司。
ちなみにガンバ大阪でプレイしていた事から「関西うどん」が好物とされていたが、後に東西のうどんの違いについては認識していない事が分かった。

ガンバ大阪時代
≪ガンバ大阪でのスーパープレイ≫
「浪速の黒豹」 パトリック・エムボマの来歴
カメルーン、ドゥアラ生まれ。
2歳の時に家族と共にフランスに移住したためフランスとの2重国籍。
そのため、EU圏内では外国人選手扱いにならなかった。代表ではカメルーン代表を選択した。
パリのスタード・ドゥレストでキャリアをスタートさせ、その後名門パリ・サンジェルマンFCに移籍した。1993~94年シーズンはLBシャトールー(3部リーグ)に貸し出され、29試合出場17得点と活躍した。
しかし、復帰したパリ・サンジェルマンでは出場機会に恵まれず、1995~96年シーズンにはFCメス(1部リーグ)に貸し出された。

「神様 仏様 エムボマ様」!!
1997年にJリーグのガンバ大阪に移籍した後は圧倒的な身体能力を発揮し、28試合出場25得点の大活躍で得点王を獲得。応援スタンドには「神様 仏様 エムボマ様」の垂れ幕が踊った。
当時、エムボマの躍動を抑えられるディフェンダーは日本には存在せず、元日本代表の中田英寿は「あんなやつがサッカーやっているなんて反則だよ (それほど衝撃的だった)」とコメント。
元日本代表の秋田豊は「(フランスワールドカップで対戦した元アルゼンチン代表)ガブリエル・バティストゥータよりもエムボマのほうが凄かった」とコメントしている。

中田英寿とはパルマ在籍も一部重なっている。
1998~99年シーズンの途中でガンバ大阪を退団し、セリエAのカリアリに移籍した。
その後はパルマ、イングランド・プレミアリーグのサンダーランドでもプレイ。
個人能力の高さの片鱗はみせたが、ヨーロッパでは戦術になじめず、セリエA、イングランド・プレミアリーグでは本領を発揮したとは言い難かった。

パルマ時代
カメルーン代表としてオリンピック・金メダルに貢献!
カメルーン代表では1998年と2002年のFIFAワールドカップ出場したエムボマ。
2000年と2002年のアフリカネイションズカップは優勝した。
また、2000年のシドニーオリンピックにはオーバーエイジ枠で出場し、金メダル獲得に貢献した。その年のアフリカ最優秀選手に選ばれた。代表の兄貴分として、サミュエル・エトオをはじめ、多くの選手に慕われた。
1998年のW杯フランス大会にはチーム事情によりボランチとしての出場が主だった。その為、フォワードに戻ったグループリーグ第3戦での得意のヘッドによる1得点に留まった。
2002年のW杯日韓大会ではゴールを決めるも、両足踵を痛めていた事もあり、3試合1得点と、本来の動きを取り戻せないままだった。チームも1次リーグ敗退し、W杯では鮮烈なインパクトは与えられなかった。

カメルーン代表時代のエムボマ
2003年に再びJリーグへ戻ったエムボマ!
2003年からはJリーグの東京ヴェルディ1969でプレー。
ガンバ大阪時代のヴェルディの印象は「ビッグクラブ」だったそう。
また、公募により愛称が「ボマちゃん」となり、で親しまれた。スピードや体力の衰えは感じられたものの、持ち前のテクニック、強力なミドルシュートは健在で、経験を生かしたプレーで、多くのディフェンダーを圧倒した。
しかし、当時の監督オズワルド・アルディレスと関係がこじれ、ヴェルディを退団。
その後、ヴィッセル神戸に移籍するものの、最後まで本来の輝きを取り戻せなかった。
2005年は度重なる故障のため4試合出場0得点と精彩を欠き、5月16日に現役を引退した。
東京ヴェルディ1969時代
引退後は、カメルーン代表のアドバイザーを経て、実業家として会社を経営したりと忙しい日々を送っているエムボマ。
2008年にはフランスのアンジェに鈴木規郎が短期留学した際にはコーディネイターを務めた。
FIFA公認代理人としての顔も持つ。
2010年、2022 FIFAワールドカップを日本で開催するための招致アンバサダーに就任した。
日本と縁深いエムボマ。
2002年日韓W杯時に、カメルーン代表がキャンプ地の中津江村への到着が大幅に遅れたいわゆる「カメルーン騒動」で、久しぶりにエムボマを思い出した方も多かったのではないだろうか。
親日家としても知られ、東京ヴェルディ1969入りする前も、ガンバ大阪時代に日本人が優しく接してくれた経験を忘れていないと発言している。
また、三男の名前を「健志」と名付けている。