藤子不二雄
漫画家ユニット「藤子不二雄」
1951年にコンビを結成。足塚不二雄などの名義を経て、1954年からコンビを解消する1987年まで使用。
コンビ結成時から長らく2人で話を考え2人で絵を描いてきたが、互いの作風に変化が出てきたのちは別々に作品を執筆し、それぞれが共通の「藤子不二雄」名義で発表した。
コンビ解消後は別々にペンネームを名乗り(藤本→「藤子・F・不二雄」、安孫子→「藤子不二雄Ⓐ」)、コンビ解消前の作品の多くがそれぞれの名義に改められた。
藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐ
スタジオ・ゼロと「オバQ」
オバケのQ太郎
二人の路線の乖離
1968年に『ビッグコミック』で安孫子は「黒イせぇるすまん」を発表。それまでもブラックな漫画をしばしば発表していたが、大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。
その他に安孫子の趣味であるゴルフを生かして『プロゴルファー猿』といった大作も生まれた。
一方、藤本は基本的には児童漫画に専念。1970年に連載が開始された『ドラえもん』が小学生の間で徐々に人気が上がっていく。
コンビ解消までは、二人が合作を取り止め、それぞれの作品に専念するようになったことは、積極的には公言していなかった。
そのため、実際には自分の執筆では無い作品について取材を受けたり、コメントをすることもあった。しかし、両者の作風の違いは徐々に読者にも知られるようになり、安孫子は「黒い藤子」、藤本は「白い藤子」とあだ名されるようになった。
安孫子はブラックユーモアを好んだことに加え、藤本より線が太く、絵の感じが黒っぽいことによる。
ドラえもん人気爆発と藤子不二雄旋風
『ドラえもん』人気と比例して藤子不二雄の人気も高まることに
藤子不二雄A「まんが道」登場人物とモデルになった先生方のお写真を並べさせていただきました - Middle Edge(ミドルエッジ)
「藤子不二雄ランド」創刊
藤子・F・不二雄の作品
藤子不二雄Aの作品
忍者ハットリくん
プロゴルファー猿
笑ゥせぇるすまん