初めに

倒壊する高速道路
1995年1月17日の早朝。突然、部屋の本棚が倒れ、激しい揺れで私は目が覚めました。必死に布団をかぶり、揺れが収まるのを待った、あの日の出来事は、今も忘れられない。だが、私は、後に「兵庫県南部地震」と呼ばれる未曾有の災害を「経験した」と言ってよいのだろうか…という複雑な思いが今もある。同じ兵庫県南部に住みながら、彼らとは違い、あの事があってからもそれまでと変わらず、私達は母校で練習を続けられたのですから…。そんな私が、「第67回選抜高等学校野球大会」に出場した同級生達についての記事を書かせて頂きます。
異例の3校選出
「春のセンバツ大会」はその名の通り、甲子園でプレーできるのは全国から選ばれた32チームのみ。(記念大会を除く)そのうち、近畿地方に割り当てられた出場枠は「6」。2府4県で「6」というのは他の地域に比べてかなり恵まれているのではないかという批判はさておき、春のセンバツに出る為には近畿大会でベスト4ならほぼ確定。ベスト8で敗れた4校のうち2校が・・・といった所がとりあえずの目標となります。
94年の秋に開かれた近畿大会に出場した兵庫県勢は揃って勝ち上がり、神港学園が準優勝。育英はベスト4、報徳はベスト8という好成績を残します。上記のようにベスト8なら当落選上・・・というところですが、「さすがに同一県内から3校も選ばれないだろう」というのが見方が体勢を占めていました。そして、代表校の選考を数週後に控えた1月17日にあの震災が起こるのです。

亀裂が入ったグラウンド
兵庫県から何校選ばれるのかという事より、もはや選抜大会を開催できるのか否か、と、いうか「野球どころではない」というのが当時の状況でした。私が通っていた高校は「兵庫県南部」にあったものの、震災の被害はほとんどなく、直後から練習は続けられたのですが・・・やはり皆どこかで練習に身が入らない感じでした。そんな「野球どころではない」状況において、選抜大会の開催が決定した時は、「思いっきり野球をしてもいいんだよ」と許されたような気がして、なぜかほっとした気分になったものです。(震災の直接被害が少なく、選抜対象とはかけ離れたところにいた私達がそう思うのは変かもしれませんが)
阪神大震災が発生した直後に開催される選抜大会において、甲子園の地元・兵庫県から報徳学園、育英高校、神港学園の3校が選出された「意味」は明らかでした。ですが、その「重み」がどれほどのものだったのか…それはチームの関係者・選手達しかわかりません。そうして兵庫県代表の3校は戦いの場・甲子園へと向かうのです。

健闘を祈って
1995年センバツ・育英高校
3校のうち最初に登場したのは育英高校。当時の育英高校は後に阪神、ヤクルトで活躍する藤本敦士選手が主将を務め、伝統の堅守とスキのない試合運びをするチームでした。
開催初日の第二試合で、育英高校は関東の強豪・創価高校を6対2で撃破。2回戦へと駒を進め、群馬の前橋工業と対戦します。8回終了時点で2対3と劣勢だった育英高校は粘りを見せ、土壇場で同点に追いつくのですが…。
この試合、育英高校は決勝点になった失策を含めて6つの失策を記録。これは震災後満足な練習ができなかったことと無縁ではないはず・・・ですが動画のように言い訳することなく、選手達は甲子園を去るのでした。
1995年センバツ・神港学園
秋の近畿大会準優勝と3校の中では最も実力があるといわれていたのが、後に横浜、巨人、阪神で活躍する鶴岡一成選手が主将を務める神港学園でした。その評判どおり、神港学園は緒戦で、名門・仙台育英高校を4-3。2回戦を大府高校戦も4-3と、2戦続けて接戦を競り勝ち、準々決勝へと進出します。
そこで対戦したのが、大会NO.1左腕と呼ばれた藤井秀悟投手(後ヤクルト-日ハム-巨人-DNA)を擁する今治西高校でした。この試合も息詰まる接戦となります。土壇場で逆転サヨナラ負けというドラマティックな形で敗退する事になりましたが、健闘した神港学園の選手達には大きな声援がおくられました。
1995年センバツ・報徳学園
3校の中で一番最後に登場したのが報徳学園。全国制覇の経験もあり、兵庫県下一の野球の名門校とはいえ、前の2校が揃って緒戦を突破。更に選出された経緯もあいまって、報徳学園の選手達には、試合前から大きなプレッシャーがかかっていました。北海高校との試合も苦しい展開になるのですが…。
この試合をテレビで見ていた私は、「逆転の報徳」はやはりすごいなぁ・・・などと同級生のプレーに感心しきりでした。報徳学園は続く2回戦で関西高校に敗退したものの、選出された3校が揃って緒戦を突破。被災地に住む方に勇気と感動を与えたのです・・・と、いうのがよく言われる「感動的な物語」です。もちろん、それは間違いない事ですが、そう単純なことでもないとも思うのです。
最後に
この年、オリックスの選手達は「がんばろう神戸」というキャッチフレーズをユニフォームに縫いつけ、ペナントを戦いましたが、彼らはまだ高校生。そして選手の多くは被災者でした。いわば「がんばろう」と言われる側だったはずです。この3校の奮闘記は今も語り継がれる「感動的な物語」ではあるのですが・・・当時から周囲は感動的な物語にしようとするほどに彼らの背負う荷はどんどん重くなっていったのではないだろうかという思いがあるのです。
(甲子園に出た事もない私が彼らの心情を推し量ることはおこがましいかもしれませんが…)

選手宣誓
「甲子園に出る」という事は地域の方の期待を背負うという面は確かにあります。ですが、私は「地域の皆さんの為に…」などと選手宣誓で堂々と発言する高校球児を見る度に思うのです。「子供はそんな気を使わなくていいから、自分とチームの仲間の為だけにプレーしたらいい。こっちは勝手に感動するから・・・」と。