世界を席巻した【GP500】 の最速ライダーとモンスターバイクを振り返る。

世界を席巻した【GP500】 の最速ライダーとモンスターバイクを振り返る。

バイクの世界選手権「GP」の世界で活躍した「Made in Japan」【ホンダ】、【ヤマハ】【スズキ】!その中でも、最高峰と呼ばれた「GP500」の名レーサーとカッコイイ名車を振り返る!


GP500とは?

GP500とは、「ロードレース世界選手権」(現在はMotoGP)の500CCクラスの事である。

2001年までの53年間、選手権の最高峰を担ってきたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量500cc以下のマシンで争われた。1966年から1972年にかけて、ジャコモ・アゴスティーニがMVアグスタを駆りクラス7連覇を達成している。また、1978年から1980年はケニー・ロバーツがヤマハで3連覇、1990年から1992年はウェイン・レイニーがヤマハで3連覇、1994年から1998年にはミック・ドゥーハンがホンダで5連覇を遂げた。 排気量は500ccながら130kgの車体に200馬力近い2ストロークエンジンを積むマシンはモンスターと呼ばれる一方、2ストロークゆえにタイムを縮めるにはごく狭いパワーバンドを維持しながら走行するテクニックが必要だったため素人では到底乗りこなせないピーキーなマシンだった。パワーが飛躍的に向上した1988年当時のホンダNSR500を初ライドした王者エディ・ローソンが「このバイクは俺を殺す気か!?」と言ったのは有名な話である。 現在のMotoGPマシンよりもタイヤ、車体が劣っているのもあり、パワースライドのバランスを取るために繊細なテクニック等が必要とされ、90年代中頃のマイルドなエンジンになるまでは、ダートトラックでテクニックを磨く事が多いアメリカンライダーとオージーライダーが躍動していた。また、各サーキットも現在と比較すると路面の状態がさほど良い状態ではなく、彼らにとって大きなアドバンテージとなっていた。

(引用:wikipedia)

GP500

GP500とえいば、「Made in Japan」、最速御三家といえば!

GP500で世界を魅了した「Made in Japan」のモンスターバイク!

1974年まで、ヨーロッパの「MVアグスタ」が王者に君臨していたが、1975年「ヤマハ」の優勝を皮切りに「ヤマハ」「スズキ」「ホンダ」の【Made in Japan】が世界を席巻する!

HONDA NSR500

2ストローク500ccV型4気筒エンジンを搭載したロードレーサーである。
500ccという排気量から、初代NSRは140ps、最終的には200psを超えると言われるまでのパワーを発揮した。年々のパワーアップ競争で常にライバルのヤマハやスズキをリードしていたと言われるが、ライダーのコントロール能力を超えるほどのハイパワーは諸刃の剣となる。その課題解決策として1992年に投入されたビッグバン・エンジンは、その後のGPマシン開発の方向性に大きな影響を与えたエポック・メイキングな技術であった。

(引用:wikipedia)

HONDA NSR500

HONDA NSR500

HONDA NSR500V

ホンダ・NSR500V (エヌエスアールごひゃくブイ) はホンダ・レーシング(HRC)が開発、市販した競技専用のオートバイで、2ストローク500ccV型2気筒エンジンを搭載したロードレーサーである。
NSR500Vはプライベーターが参戦しやすいマシンを目指して開発され、1996年のロードレース世界選手権500ccクラスにデビューした。V4マシンのNSR500と同じクランクケースリードバルブ式の水冷2ストロークVツインエンジンが搭載された。このエンジンは当時の他のホンダGPレーサーマシンと同じくVバンク角は100度、シングルクランクシャフトを採用する。車両重量は103kg、航空用ガソリン(通称「アブガス」)を入れた場合に135bhpを発生する。新車価格は、1997年モデルの場合で本体のみの定価が800万円、セットアップキット付きが920万円(いずれも税別)、エンジン・アセンブリーは320万円であった。

(引用:wikipedia)

HONDA NSR500V

HONDA NSR500V

YAMAHA YZR500

ヤマハ・YZR500(ワイゼットアールごひゃく)は、ヤマハ発動機がオートバイロードレース世界選手権と全日本ロードレース選手権500ccクラスに開発・投入した、競技専用2輪車両(オートバイ)の車種名称。YZRとは、“Y”ヤマハの“Z”究極の“R”ロードレーサーの意味である。
YZR500の1983年モデルである0W70は、始動性が悪かった。当時のスタート時のエンジン始動は押しがけであったが、ダッチTT(オランダGP)において、ケニー・ロバーツは押しがけ17歩目にして、やっとYZR500に乗ることができた。
YZR500の始動性の悪さについて、当時は、NS500の3気筒に比べてV形4気筒のエンジンレイアウトを持つYZRの特性によるもの、と言われていた。一説に0W70がロータリーディスクバルブを採用していたのが原因だという。
1980年代後半からのホンダ・NSRとスズキ・RGV-Γとの熾烈な争いでは、エンジンパワーに優れ最高速重視のNSR、軽快な車体で強力なブレーキングを得意とするRGV-Γに対してYZRは優れたハンドリングによる高いコーナーリング性能を武器としていた。
ヤマハでは前年のYZRのスペックを反映した競技専門車TZをプライベートライダー向けに1980年から1983年に発売しており、YZR500の市販車とも言えるTZ500が存在する(価格は1983年型で280万円)。

(引用:wikipedia)

YAMAHA YZR500

YAMAHA YZR500

SUZUKI RGV-Γ

スズキ・RGV-Γ500(アールジーブイ・ガンマごひゃく)は、スズキがロードレース世界選手権(WGP)・GP500クラス参戦用に開発した競技専用のオートバイ。
軽量な車体と軽快な運動性を武器としたGPマシンである。
1982年をもって、ワークスとしての活動を休止していたスズキは1988年より本格復帰を計画。早速テスト車が製作され1987年からの参戦を開始する。過去のスズキ車はスクエア型4気筒にロータリーディスクバルブのツインクランクエンジンを使用していたが、全くの新設計車両として2軸クランク・横置きV型4気筒とした。ライダーはケニー・アイアンズ。シーズン途中よりケビン・シュワンツがスポット参戦し開発のテンポは上がったもののパワー不足や開発初期にありがちなマイナートラブルを頻発し、シーズン途中で参戦を切り上げる。目的は翌1988年に向けての開発を急ぐためであった。

(引用:wikipedia)

SUZUKI RGV-Γ

SUZUKI RGV-Γ

世界を席巻したGP500 の最速ライダー達!

ウェイン・レイニー(Wayne Wesley Rainey)

アメリカ合衆国カリフォルニア州ダウニー出身の元モーターサイクル・レーシングライダーで、元チーム監督。
1980年代末から1990年代初めにかけて最も成功したライダーの1人とされる。1990年~1992年のロードレース世界選手権(WGP)500ccチャンピオン。

(引用:wikipedia)

ウェイン・レイニー(Wayne Wesley Rainey 1960年10月23日)

1992年は、前述の怪我が癒えぬまま参加した開幕前のテストにおいて、クラッシュにより骨折。怪我を負ったままシーズンが開幕し、ホンダ・NSR500を駆るドゥーハンが、開幕4連勝を飾り好調を示す一方で苦戦。2年間無かった転倒リタイヤを2度も喫したほか、第7戦ドイツGPでは予選中の転倒による痛みに耐えかね、決勝を途中棄権している。その影響で第8戦オランダGPも欠場したが、同GP予選でドゥーハンが転倒により右足を骨折、一時は切断の噂も出たほどの重傷を負い、長期離脱を余儀なくされた。
この後、レイニーはそれまでランキング2位だったシュワンツを逆転し、じわじわドゥーハンに詰め寄ると、ドゥーハンの復帰戦となった第12戦ブラジルGPでシーズン3勝目を挙げ、2ポイント差にまで迫った。最終戦南アフリカGPでは予選でドゥーハンの先行を許すも、決勝は前(3位)でフィニッシュし、4ポイント差でチャンピオンを決めた。三年連続のタイトル獲得は、ケニー・ロバーツ以来だった。

(引用:wikipedia)

1992年 日本GP(YZR500)

ウェイン・レイニー(YZR500)

ウェイン・レイニー(YZR500)

ウェイン・レイニー(YZR500)

ワイン・ガードナー(Wayne Michael Gardner)

オーストラリア、ニューサウスウェールズ州ウロンゴン出身の元オートバイ・ロードレーサー。ロードレース世界選手権500ccクラスの1987年チャンピオン。エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツとともに「四強」と称される。
パワースライドを駆使した豪快なライディングとロスマンズ・ブルーのマシンカラーから「ブルー・サンダー」の異名を取った。また、鈴鹿8時間耐久ロードレースで歴代2位の4勝を挙げ、「8耐男」とも呼ばれた。

(引用:wikipedia)

ワイン・ミシェル・ガードナー(Wayne Michael Gardner 1959年10月11日)

ワイン・ミシェル・ガードナー(NS500)

ワイン・ミシェル・ガードナー(NSR500)

1992年、開幕戦日本GPでまたも右足を骨折。欠場後、鈴鹿8耐で最後の4勝目を記録すると、第11戦イギリスGPのレース前にシーズン後の引退を宣言。そのレースで1990年オーストラリアGP以来の勝利を飾り、引退への花道とした。

(引用:wikipedia)

1992年 日本GP(NSR500)

片山敬済

兵庫県生まれのモーターサイクル・ロードレースライダー。1977年に日本出身者として初めてのロードレース世界選手権(WGP)チャンピオン獲得。WGP参戦当時の愛称は「プリンス」。または名前から「zooming cuts(ズーミングカッツ)」。

(引用:wikipedia)

片山 敬済(かたやま たかずみ 1951年4月16日)

1982年はホンダが新たに投入した他メーカーのマシンよりも軽量コンパクトな2ストロークV型3気筒エンジン搭載のNS500に乗る。片山はNR500からNS500に乗り換えてみて、自身のライディング技術が落ちていることを実感した。「ヒラリング」の技術が落ちていたのだ。以前片山はホンダCB250RSの宣伝をしているときに「ヒライヒラリの感覚」と語っていたのだが、その感覚がNR500の3年間で鈍麻していたのだ。それでも第10戦スウェーデンGP(アンデルストープ・サーキット)では見事優勝し、1975年の金谷秀夫以来、日本人2人目の500ccクラス優勝を飾る。

(引用:wikipedia)

片山 敬済(NS500)

1983年、片山は専属トレーナーを伴ってWGPを転戦することにした。そして今シーズンは昨シーズン終盤からの好調を維持し、GP史上に残る激しいトップ争いを行っていたフレディ・スペンサーとケニー・ロバーツとの間に割って入る活躍を見せる。ダッチTT(オランダGP)のレース終盤では、先頭を走っていたケニーは勝利を確信してスピードを落としていたが、その背後から片山が迫っていた。しかし、ケニーはそのことに気付かず、チェッカーフラグが振られたときにはケニーと片山の差はわずか0.19秒であった。ケニーが優勝し、片山は2位となる。レース後、ケニーは次のように語っている。
「ぼくは、タカズミとは3秒以上差があると思っていたよ。本当さ。君は、ぼくとタカズミの差が1.8秒に見えたかい?  だからゆっくり行ったんだ」(ケニー・ロバーツ)
片山もレース終了後に、彼を囲む各国の報道陣に次のように語った。
「今年、最高のレースだったよ」(片山敬済)

(引用:wikipedia)

1983年 オランダGP(NS500)

1977年、250CCのバイクを改造して350CCで優勝!凄まじい!!

片山敬済(TZ350)

エディ・レイ・ローソン(Eddie Ray Lawson)

アメリカ人のロードレーサーである。WGP500ccクラスにおいて、1984年、1986年、1988年、1989年の4度に渡りタイトルを獲得し、異なる3メーカーでの31勝を挙げた。その機械のように正確なマシンコントロールと着実なレース運びから、「ステディ・エディ」の異名を取った。
同じくアメリカンライダーのフレディ・スペンサーとはAMA時代から激しいライバル関係であった。

(引用:wikipedia)

エディ・レイ・ローソン(Eddie Ray Lawson 1958年3月11日)

1983年、キング・ケニーのチームメイトとしてマールボロ・ヤマハ・チームと契約し、GP500ccクラス参戦を開始した。翌1984年にはライバルと言われたスペンサーのタイトル防衛を阻止し、早くも初のチャンピオンの座に就いた。1986年と1988年にも圧倒的な強さを見せてチャンピオンを獲得。
ヤマハで3度チャンピオンになったローソンだが、1989年にロスマンズ・カネモト・ホンダ・チームに電撃移籍。ヤマハのウェイン・レイニーやホンダのトップワークスチームのワイン・ガードナーを破り、ホンダ移籍の初年度にチャンピオンとなった。シーズン前のテストで右手を負傷しアクセルやブレーキの操作に支障を来すというハンデを抱えながら、シーズン中に13個ものフレーム変更とテストをこなしシーズン序盤にポイントを稼いでいたレイニーをじわじわと追い詰め、終盤で逆転するというステディぶりを見せた。

(引用:wikipedia)

エディ・レイ・ローソン(YZR500)

1984年(YZR500)

1989年 日本GP エディ・レイ・ローソン(NSR500)

ケビン・シュワンツ(Kevin James Schwantz)

アメリカ、テキサス州ヒューストン出身の元オートバイ・ロードレースライダー。1993年ロードレース世界選手権500ccチャンピオン。1988年から1995年までの8シーズンでGP通算25勝を記録した。ニックネームはフライング・テキサン。

(引用:wikipedia)

ケビン・シュワンツ(Kevin James Schwantz 1964年6月19日)

1993年、シュワンツは手堅いレース運びを身につけポイント争いをリードしたが、イギリスGPのもらい事故で負った怪我のため、終盤戦レイニーに逆転を許す。しかし、第12戦イタリアGP決勝中、そのレイニーが転倒により選手生命を絶たれてしまう重傷を負い、引退。シュワンツは順調にポイントを重ね、ポイントでレイニーを再逆転、念願のタイトルを獲得する。だがレイニーをサーキット上で打ち負かし、勝利することを目標としてきたシュワンツは「彼の怪我が治るならチャンピオンなんかいらない。」と発言し、初のタイトルを獲得した喜びよりもライバルを失った落胆の気持ちを表した。

(引用:wikipedia)

1993年 日本GP ケビン・シュワンツ(スズキ・RGV-Γ500)

34番のゼッケンはWGP初の永久欠番!(最大排気量クラスのみ)

ケビン・シュワンツ(スズキ・RGV-Γ500)

ペプシバージョン!

ケビン・シュワンツ(スズキ・RGV-Γ500)

マイケル・ドゥーハン(Michael "Mick" Doohan)

オーストラリア・クイーンズランド州・ブリスベン出身のオートバイレーサー。1992年以後のエントリーネームはミック・ドゥーハン。1994年から1998年までロードレース世界選手権500cc5年連続チャンピオンを獲得した絶対王者。兄スコットもオートバイレーサーである。姓は「ドーハン」と表記(呼称)される場合もある。

(引用:wikipedia)

マイケル・ドゥーハン(Michael "Mick" Doohan 1965年6月4日)

マイケル・ドゥーハン(NSR500)

1987年にTT-F1世界選手権日本ラウンドにプライベートチームから出場、3位入賞し注目を集める。1988年スーパーバイク世界選手権日本大会第2レースで優勝。ちなみに日本ではこの年まで「マイケル・ドーハン」と呼ばれることが多かった。1989年、同郷の先輩ワイン・ガードナーのチームメイトとしてロスマンズ・ホンダチームに加入し、ロードレース世界選手権500ccクラスに本格参戦を始める。1990年に500cc初優勝、1991年にはヤマハのウェイン・レイニーとチャンピオン争いを繰り広げる(最終的にランキング2位)など徐々に頭角を現し、ホンダの新エースとしてチャンピオン候補と目されるようになる。

(引用:wikipedia)

1990年 日本GP マイケル・ドゥーハン(NSR500)

右コーナーと左コーナーで大きくハングオフの姿勢が違うことで有名。

マイケル・ドゥーハン(NSR500)

阿部典史(ノリック)

東京都世田谷区出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。ニックネームはノリックで、エントリーネームを「Norick Abe(ノリック・アベ)」としていた。
父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。

(引用:wikipedia)

阿部 典史(あべ のりふみ 1975年9月7日 - 2007年10月7日)

1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPでケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。 後にバレンティーノ・ロッシは、自分からサインを求めたのは後にも先にもノリックだけと語っている。

(引用:wikipedia)

1994年 日本GP 阿部典史(NSR500)

ミスタードーナッツの「ミスター飲茶」メチャ目立ってる!

阿部典史(NSR500)

1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。

(引用:wikipedia)

1996年 日本GP 阿部典史(YZR500)

まさかの事故死。。。32歳の若さで急逝

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