映画「男はつらいよ」のベストマドンナ:吉永小百合・浅丘ルリ子・若尾文子・榊原るみ・八千草薫 ほか

映画「男はつらいよ」のベストマドンナ:吉永小百合・浅丘ルリ子・若尾文子・榊原るみ・八千草薫 ほか

映画「男はつらいよ」に出演した前田吟さん(寅次郎の妹さくらの夫・諏訪博役)と佐藤蛾次郎さん(柴又題経寺の源吉役)がベストマドンナをセレクトしました。(週刊現代 2016年新春特別版 国民の映画『男はつらいよ』 「寅さん」渥美清を語ろう より)


吉永小百合 「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」(1974年8月3日公開)

『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(おとこはつらいよ とらじろうこいやつれ)は、1974年8月3日に公開された日本映画。マドンナ役に再び吉永小百合をむかえた男はつらいよシリーズ第13作目。同時上映は『超能力だよ全員集合!!』。

柴又慕情で、歌子の結婚に強く反対する父(宮口精二)を必死で説得して、恋する女性のために一肌脱いだ寅次郎だったが、その歌子と津和野で再会。懐かしい思い出話に花を咲かせた。

しかし、そこで歌子から思わぬ話を聞かされて寅次郎は愕然とする。苦労の末に結ばれた夫とは早々に死に別れ、未亡人として婚家で姑らとともにつつましく生活をしているというのだ。

歌子は図書館に勤めながらひっそりと暮らしを続けていたが、その姿に哀れみを感じた寅次郎は、歌子を元気付けるために、とらやに招待した。歌子は下宿し、久しぶりに楽しい時間を過ごすようになった。が、歌子は伊豆大島にある心身障害児の施設で働くことになった。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」)

「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」(1974年8月3日公開)のマドンナ・鈴木歌子役:吉永小百合

吉永 小百合(よしなが さゆり、1945年3月13日 - )は、日本の女優、歌手である。本名、岡田 小百合(おかだ さゆり)。東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。そのファンは、「サユリスト」と呼称される。

1960年代を代表する人気映画女優で10年間で70本以上の映画に出演した。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。早稲田大学第二文学部西洋史学専修卒業、学位は文学士(早稲田大学)。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。

「日活の看板女優」として、浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。

特に、『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』などは世間から熱い注目を集めた。ブロマイドがあまりの売れ行きに店頭から姿を消すなど、爆発的に売り上げを伸ばした。1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、年間売上実績で女性部門1位に光輝いた。

吉永主演映画の原作者でもある川端康成・石坂洋次郎といった作家にも寵愛され、川端は吉永に会いたいために山奥の伊豆の踊子のロケ現場を突然訪ね、石坂は吉永が演じることを想定して作品を綴り上げた。
(出典:Wikipedia「吉永小百合」)

吉永小百合 「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」(1974年8月3日公開)

吉永小百合さんは下町を思わせる映画「キューポラのある街」に主演していたこともあり、寅さんシリーズにも適役だった(前田吟)

前田吟「吉永小百合さんも忘れられないマドンナだよ。僕たちと同世代でもあるし、綺麗だった。寅さんに通ずる下町を描いた映画をそれまでにこなしてきたし、今も現役でやっているから。」

出典:週刊現代 2016年新春特別版 国民の映画『男はつらいよ』 「寅さん」渥美清を語ろう

吉永小百合 「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」(1974年8月3日公開)

吉永小百合 「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」(1974年8月3日公開)

吉永小百合 「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」(1974年8月3日公開)

浅丘ルリ子 「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)

『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(おとこはつらいよ とらじろうハイビスカスのはな)は、1980年8月2日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの第25作目。リリー三部作の完結篇。

博が街でリリーを見かける。リリーは寅次郎に逢いたいと博に告げる。とらやで、寅次郎の噂をしていると、偶然寅次郎から電話があり、リリーが逢いたがっていると伝えると、寅次郎は興味を見せない素振り。

しばらくして、寅次郎は柴又に帰ってくる。しかし間の悪いことに、とらや一行は水元公園にピクニックへ出掛ける所であった。慌てて、荷物を隠し体裁を取ろうとするさくら達。その事で機嫌を損ねた寅次郎は、さくら達と大喧嘩をする。

出て行こうとする寅次郎の下へ、手紙が届く。手紙の内容は、リリーが沖縄で病気で倒れたとの事で、寅次郎はあわてて沖縄に向かおうとする。皆で相談しあった結果、飛行機で行く事に決まるが、寅次郎は断固拒否する。博に説得されしぶしぶ了解するが、翌日飛行場で柱にしがみつき駄々をこねる。そこへ通りかかったスチュワーデスに連れられ搭乗し、なんとか沖縄へと飛び立つ。

寅次郎と再会したリリーは涙を流し喜ぶ。次第に、彼女の病気はよくなり、漁師町で一緒に生活を始める。しかし、その一方で地元の娘と浮かれる寅次郎。ある日、ちょっとしたことで二人は大喧嘩。翌日リリーは沖縄を去ってしまう。寅次郎は慌てて身支度を整え、手近な船に乗り、東京へ戻ろうとする。

島伝いに、時に行き倒れになりながらも、なんとか柴又にたどり着いた寅次郎。そこで、偶然リリーに再会し、おおいに喜び合うのであった。さくらは、リリーに寅次郎と結婚して欲しいと漏らし、寅次郎も「俺と所帯を持つか」と発言するが、リリーは冗談として聞き流す。そうして、柴又駅で二人は悲しく別れるのであった。好き合いながらも、お互いのプライドや体裁で一緒になれないリリーと寅次郎であった。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」)

「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)のマドンナ・リリー役:浅丘ルリ子

浅丘 ルリ子(あさおか ルリこ、1940年7月2日 - )は、日本の女優。本名、浅井 信子(あさい のぶこ)。愛称はルリルリ。
身長156cm、体重35kg。サイズ B79/W53/H75 血液型はA型。前夫は石坂浩二。

日本映画全盛期に一世を風靡した日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや 石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。
(出典:Wikipedia「浅丘ルリ子」)

浅丘ルリ子 「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)

浅丘ルリ子さんの妖艶さが漂う最終作のみならず、寅さんとの啖呵を切った掛け合いが非常に素晴らしい(佐藤蛾次郎)

佐藤蛾次郎「今までどんなマドンナとも結ばれなかった寅さんが、いよいよ結ばれたかもしれないと思わせる幸せな結末がいい。」

前田吟「寅さんとリリーさんは、両方の掛け合いが絶妙だった。」

出典:週刊現代 2016年新春特別版 国民の映画『男はつらいよ』 「寅さん」渥美清を語ろう

浅丘ルリ子 「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)

浅丘ルリ子 「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)

浅丘ルリ子 「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)

浅丘ルリ子 「男はつらいよ」第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月2日)

若尾文子 「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年1月15日)

【ストーリー/あらすじ】
長崎県、五島列島の福江島に出かけた車寅次郎(渥美 清)は、その途中で子連れの若い女・絹代(宮本信子)と道連れになる。絹代の哀れな境遇に同情した寅さんは、実家まで送り届けたが、父・千造(森繁久彌)の言葉は意外にも冷たかった。男になって錦を飾るまでもう二度と柴又へは帰るまいと決心するが、望郷の念にかられ足はいつしか懐かしの柴又に向かう。

その頃柴又の「とらや」では、おいちゃん(森川信)、おばちゃん(三崎千恵子)、さくら(倍賞千恵子)たちが寅さんの噂ばなしに花を咲かせていた。数日前、「とらや」におばちゃんの遠縁にあたる、美しき人妻・夕子(若尾文子)が、夫と別居して二階に間借りしていた。そこへ、ひょっこり帰って来た寅さんは、自分の部屋に下宿人がいることに腹を立て旅に出ようとするが、現れた夕子を一目見るなり、たちまちのぼせ上がり旅に出るのをやめてしまうのだった。

出典:テレビ東京「山田洋次監督50周年名作シネマ特別企画 男はつらいよ純情篇デジタルリマスター版」

「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年)のマドンナ・明石夕子 役:若尾文子

若尾 文子(わかお あやこ、本名:黒川 文子、1933年11月8日 - )は、日本の女優。亡夫は建築家の黒川紀章。

東京府東京市荒川区(現:東京都荒川区)に5人兄姉の末っ子に生れ育つ。第二次大戦中は父親の仕事の関係で宮城県仙台市に疎開していた。宮城県第二女子高等学校中退。文子は1951年に大映の第5期ニューフェイスとして映画界入り。

1952年、急病で倒れた久我美子の代役として、小石栄一監督の『死の街を脱れて』で銀幕デビュー。翌1953年に映画『十代の性典』がヒットし、マスコミから性典女優と酷評されるも知名度は急上昇した。それ以降も出演作を重ね人気女優としての地位を築く。同年の映画『祇園囃子』(1953年)では溝口健二監督に起用され、女優としての実力を発揮し、性典女優の蔑称(汚名)を返上し、熱演が高く評価された。

以降、日本映画を代表する正統派美人女優の一人となり、京マチ子、山本富士子と並ぶ大映の看板女優と謳われ、160本以上の映画に主演した。和服姿の艶やかな美貌から、未だに海外での人気が高い。 川島雄三により、本格派女優に鍛え上げられた。
(出典:Wikipedia「若尾文子」)

若尾文子 「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年)

「若尾文子さんは地味な寅さん映画に華やかさをもたらしてくれた」(前田吟)

前田吟「「純情篇」のマドンナは若尾文子さんだったけれど、あんなに頭が良くて上品で、着物も似合ういいオンナが、寅さんのような人と接点ができるのだろうかと最初は不思議だった。

でも物語が進むにつれて、寅さんが好きになるオンナを若尾さんが演じていることに驚いた。

俺たちはごく普通の地味な下町の人たちを演じているから、正月映画としては、華やかさがない。その中でやっぱり若尾さんは光っていて、「女優さんが出演するというのはこういうことなのか」と感じたよ。」

出典:週刊現代 2016年新春特別版 国民の映画『男はつらいよ』 「寅さん」渥美清を語ろう

若尾文子 「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年)のマドンナ

若尾文子 「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年)のマドンナ

若尾文子 「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年)のマドンナ

若尾文子 「男はつらいよ」第6作「純情篇」(1971年)のマドンナ

榊原るみ 「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)

『男はつらいよ 奮闘篇』(おとこはつらいよ ふんとうへん)は、1971年4月28日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの7作目。同時上映は『花も実もある為五郎』。

「近々嫁をもらう」という便りを元に、寅次郎の産みの親・お菊(ミヤコ蝶々)がとらやを訪ねてきた。そこへふらりと寅次郎本人が帰ってくるが、菊は「相変わらず独り身で迷惑ばかりかけている」とだらしない生活振りに怒り始め、嫌気が差した寅次郎はたった一晩いただけで柴又から旅立ってしまう。

そして静岡で啖呵売をし始めた寅次郎は、ひょんなことから津軽訛りの少女花子(榊原るみ)と沼津で知り合った。花子が普通の女の子よりやや頭が弱いことに気が付いた寅次郎は放っておけなくなり、とらやの住所をひらがなで書いたメモを渡し「“とらちゃんに聞いてきた”と言えばいい」と告げて二人は別れる。

 やがて桜の季節を迎えた柴又のとらやに、ひょいと花子が訪ねてくる。そこへ寅次郎も戻ってきたため再開を果たす二人。とらやの面々は花子の肉親を探そうと提案するが、寅次郎は俺が花子の面倒を見るといって聞かない。

そして寅次郎の大袈裟とも思える世話やきっぷりに唖然とする一同だが、当の花子は寅次郎にいつしか好意を抱くようになっていき、ついには「とらちゃんの嫁コになりたい」と打ち明ける。戸惑う寅だが、いつしか本気で世帯を持つことを考えるようになってしまい、挙句その話がお菊にまで伝わったことにさくら達は不安を隠せない。

 そんなある日、寅次郎が不在の折に、花子の教師をしていた福士先生(田中邦衛)がとらやを訪れ、花子を連れて津軽へ帰ってしまう。それを知った寅次郎は……
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 奮闘篇」)

「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)のマドンナ・太田花子役:榊原るみ

榊原 るみ(さかきばら るみ、1951年3月5日 - )は、日本の女優。東京都渋谷区広尾出身。東映マネージメント所属。

幼児のころから雑誌モデル・女優業を行っており、舞台、テレビなどで幅広く活躍した。1970年代前半の映画『男はつらいよ 奮闘篇』、テレビドラマ『帰ってきたウルトラマン』のヒロイン役や『気になる嫁さん』などへの出演で人気を博す。
父は芝浦工業大学名誉教授の榊原秋策。

娘の松下恵も女優として活動している。生まれてから1999年に19年間連れ添った前夫と離婚するまで、広尾の実家住まいだった。映画監督のすずきじゅんいちと1年半にわたる同棲生活を送った末、2001年1月16日に入籍再婚する。すずき監督の映画『ひとりね』では、引退覚悟でオナニーシーンに果敢に挑み、過去の清純派のイメージを脱却した。

夫のすずきと共にロサンゼルスに移住し、夫の仕事である映画プロデュースを手伝っていた。
2010年9月29日、ラスベガス近くで夫妻の乗った自動車が自損事故を起こし、助手席に乗っていた彼女も指の複雑骨折など重傷を負った。運転していたすずきは、脊髄の一部などを骨折。意識不明のままヘリコプターで病院に搬送されたが、命に別条はなく、榊原も1日で退院した。
上記の事故がきっかけで11年間のアメリカ生活に終止符を打ち、帰国。現在は、仕事に復帰している。
(出典:Wikipedia「榊原るみ」)

榊原るみ 「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)

榊原るみさんは当時の集団就職という世相を反映してか、漂う東北の匂いが良い(前田吟)

前田吟「榊原るみ(青森出身の少女・太田花子役)さんは当時の集団就職という世相を反映してか、漂う東北の匂いが良い」

出典:週刊現代 2016年新春特別版 国民の映画『男はつらいよ』 「寅さん」渥美清を語ろう

榊原るみ 「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)

榊原るみ 「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)

榊原るみ 「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)

榊原るみ 「男はつらいよ」第7作「奮闘篇」(1971年4月28日)

八千草薫 「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)

『男はつらいよ 寅次郎夢枕』(おとこはつらいよ とらじろうゆめまくら)は、1972年12月29日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの10作目。同時上映は『舞妓はんだよ全員集合!!』。
国鉄の「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンポスターにも使用された。

寅次郎が旅先から帰ってみると、幼馴染の千代(八千草薫)が美容院を開業していた。「お千代さん」と再会した寅次郎は、その美しさにたちまち友達以上の感情を抱くようになり、暇を見つけては千代との逢瀬を楽しんだ。

ところが、とらやに間借りしている大学教授(米倉斉加年)も密かに「お千代さん」に好意を抱いていたことが発覚。寅次郎とは初対面のとき、礼に則って的屋流 、話はどんどんややこしくなっていく。「私、寅ちゃんとなら一緒に暮らしてもいい」奮闘篇に続きプロポーズされるが…。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 寅次郎夢枕」)

「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)のマドンナ・志村千代役:八千草薫

八千草 薫(やちぐさ かおる、1931年(昭和6年)1月6日 - )は、日本の女優。所属事務所は柊企画。大阪府出身。プール女学院出身。愛称はヒトミ、ヒトミちゃん(本名に由来)。公称身長154センチ。

幼少時に父を亡くし、母一人・子一人で育つ。思春期がちょうど戦時中であり、自宅も空襲で焼け、「色のある」「夢のある世界」に飢えていたことから華やかな世界にあこがれた。

プール女学院在学中に宝塚音楽学校に合格し、1947年に宝塚歌劇団入団(同期には淀かほる、百ちとせらがいる)。宝塚入団時の成績は50人中19位。

入団当初は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を当たり役としたが、1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫(紫の上の少女時代)を内・外面とも見事に表現し、絶大な評判と人気を博した。以降は美貌・清純派の娘役として宝塚の一時代を風靡、同年から劇団内に新設された映画専科に所属した。1951年の『虞美人』、1952年の『ジャワの踊り子』にも出演している。

宝塚在団中から東宝映画などの外部出演をこなしており、当時のお嫁さんにしたい有名人の統計で、たびたび首位に輝いた。
1957年5月31日付で歌劇団を退団。最終出演公演の演目は花組公演『みにくい家鴨の子/王春讃歌』。

退団後はテレビドラマでのおっとりとした良妻賢母役が好評で、多くの作品に出演。一方、『岸辺のアルバム』での家族に隠れて不倫する主婦役では従来のイメージを覆し、テレビドラマ史に残る名作となった。

私生活では1957年に映画監督の谷口千吉と結婚。人気・好感度絶頂の八千草と、親子ほどの年の差があり、しかも三度目の結婚となった谷口の組み合わせは当時多方面で話題・波紋を呼んだ(夫婦に子はなかったが、おしどり夫婦として知られ、結婚50年目となった2007年に死別するまで連れ添った)。

「宝塚時代の経験が、仕事はもちろん、趣味の山歩きでも活きている」と述べており、自然環境保全審議会委員を務めたこともある。

穏やかな外見とは裏腹に、『赤い疑惑』では、主演の山口百恵のスケジュールの都合で細切れ断片的な収録を余儀なくされたことに納得できず、自ら途中降板するなど、仕事に妥協しない厳しい一面も持っている。
(出典:Wikipedia「八千草薫」)

八千草薫 「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)

八千草薫(寅さんの幼馴染・志村千代役)さんは寅さんと結婚するんじゃないか、と思わせる雰囲気に酔う(佐藤蛾次郎)

八千草薫 「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)

八千草薫 「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)

八千草薫 「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)

八千草薫 「男はつらいよ」第10作「寅次郎夢枕」(1972年12月29日)

岸惠子 「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)

『男はつらいよ 私の寅さん』(おとこはつらいよ わたしのとらさん)は、1973年12月26日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの12作目。同時上映は『大事件だよ全員集合!!』。

小学校時代の無二の親友で放送作家の柳文彦(前田武彦)と数十年ぶりに再会した寅次郎は、誘われるままに彼の妹の家を訪れた。そこで出会ったのが、文彦の妹で画家のりつ子(岸惠子)だった。

寅次郎とりつ子は初対面なのに、のっけから売り言葉に買い言葉で大ゲンカを始めてしまう。しかし、そのりつ子が病に倒れ、それを聞いた寅次郎が看病に駆けつけたことで、二人は和解。りつ子の病状回復と反比例するかのように、寅次郎はどんどん恋の病に蝕まれていくのであった。

冬は温暖な所へ、夏は涼しい所へ。寅次郎の旅の原型はこの作品から明確になった。

とらやの面々が九州に旅行するという珍しいシーンも収められている。
九州へ旅行するにあたって、おばちゃんが「私は箱根より西に行くのは初めてなんだよ」と言っているが、実際には第三作で湯の山温泉(三重県)に行っている。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 私の寅さん」)

「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)のマドンナ・柳りつ子役:岸恵子

岸 惠子(きし けいこ、1932年8月11日 - )は、女優・文筆家。岸恵子の表記もある。身長161cm。体重47kg。舞プロモーション所属。

神奈川県横浜市神奈川区生まれ。1945年5月の横浜大空襲で被災。高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業。

もともとは作家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち、田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ、断ったが後に「本物の女学生が欲しいと頼まれて1本だけの約束で、1951年に大学入学までという条件で松竹に入社し、映画『我が家は楽し』でデビューするがヒットしてそのまま女優になった。

1952年には『坊ちゃん重役』で鶴田浩二と佐田啓二の相手役を務める。5月、松竹の看板スターであった鶴田が、戦後のスタープロ第1号となる新生プロを設立して独立。第1作として、新東宝配給『弥太郎笠』の制作にあたり、鶴田の相手役のヒロインとして岸にオファーを出すが、松竹は拒否したため岸は辞表を出す。結局松竹が折れて、岸は映画に出演。

続いて、新生プロの『ハワイの夜』でも鶴田と共演しヒットとなる。この頃、鶴田との恋愛関係が報道されたが、松竹に強引に別れさせられた。

1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作がヒットする。以降、松竹の看板女優として絶大な人気を誇った。一方1954年には有馬稲子、久我美子とともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。

1956年、フランス・日本合作映画『忘れえぬ慕情』に出演。1957年、『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピと結婚。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。

以降、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた。この頃に、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトーらと親交を持つ。

また1963年には1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した。しかし1975年、イヴ・シャンピと離婚。娘の親権は岸が持った。
1996年、国連人口基金親善大使に任命された。
(出典:Wikipedia「岸惠子」)

岸惠子 「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)

岸惠子さんに最初会ったとき外国人かと思うほど独特な女優の風格を備えていた(佐藤蛾次郎)

岸惠子 「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)

岸惠子 「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)

岸惠子 「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)

岸惠子 「男はつらいよ」第12作「私の寅さん」(1973年12月26日)

太地 喜和子 「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)

『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(おとこはつらいよ とらじろうゆうやけこやけ)は、1976年7月24日に公開された日本映画。『男はつらいよ』シリーズの17作目。同時上映は『忍術猿飛佐助』。

「とらや」に久々に帰って来た寅次郎が満男の小学校入学祝いの席上、また内輪ゲンカをして家を飛び出す。駅前の焼き鳥屋で飲んでいたらみすぼらしい老人(宇野重吉)が無銭飲食を店員にとがめられるのを見た。かわいそうに思って支払いを肩代わりして家につれて帰る。

「とらや」に一晩泊まり、宿屋と間違えた老人は、おいちゃん、おばちゃんたちに横柄な態度を取りひんしゅくを買う。家族に苦情を言われた寅次郎に説教された老人は、「おわびだ」といって紙に筆で落書きしたものを渡した。

老人に「持ってけば、いくらかになるから…」と指定された神保町の古本屋に出かけ、半信半疑でその紙切れを店の主人(大滝秀治)に見てもらったところ、「7万円で譲って欲しい」と言われ、腰を抜かす。実はこの老人こそ、日本画壇を代表する池ノ内青観画伯だったのだ。

間もなくとらやの連中とひともんちゃく起こして旅に出た寅次郎は、播州龍野で池ノ内画伯と再会する。そして、画伯に請われるかたちで、ある宴席で杯を傾けた寅次郎は、そこで、「ぼたん」という名の美しい芸者(太地喜和子)に出会った。後日、上京してとらやを訪れたぼたんは、悪い男に200万円を騙し取られたことを寅次郎に告白する。義侠心に燃えた寅次郎が立ち上がるのだが。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」)

「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)のマドンナ・芸者ぼたん役:太地喜和子

太地 喜和子(たいち きわこ、1943年12月2日 - 1992年10月13日)は、日本の女優。本名は太地 喜和子(たいじ きわこ)。別名は志村 妙子(しむら たえこ)。東京都中野区出身。

新宿区立牛込仲之小学校~千代田女学園中学校卒。松蔭高等学校在学中の1959年に、東映ニューフェイスの第6期に合格。同期には千葉真一・亀石征一郎・真山知子・茅島成美・新井茂子・都築克子らがいる。

東映と専属契約し、当初は志村 妙子(しむら たえこ)という芸名で映画に端役で出演していた。1962年高校卒業後、翌1963年東映を離れ俳優座養成所15期生入団、同期に前田吟・村井国夫がいた。『欲望という名の電車』の杉村春子の芝居に衝撃を受け、1967年文学座に入団した。同年、日活映画の『花を喰う蟲』に主演。その演技を新藤兼人監督に認められ1968年『藪の中の黒猫』に抜擢されると、全裸もいとわぬ演技で一躍有名になった。

舞台女優として『欲望という名の電車』、『近松心中物語』、『唐人お吉』などで杉村春子の後継者としての期待が高まり、実力派として活躍した。テレビドラマでも『白い巨塔』の花森ケイ子役などを演じている。

私生活では、俳優座養成所時代からの同期だった秋野太作と1974年に結婚するも、短期間で離婚。その他三國連太郎、十八代目中村勘三郎、七代目尾上菊五郎、志村けんとのロマンスが取り沙汰されたこともあったが、「私はサービス精神がある限り、見ている人にこの人は帰ったら所帯があると思わせてはいけない」というポリシーを持っており、離婚後は生涯、独身を通した。

また当時の女優としては池波志乃らと共に大変な酒豪で鳴らした。「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言し、映画「飢餓海峡」のロケを追い俳優座を辞め北海道に渡ったが、左幸子演ずる杉戸八重に嫉妬し、数ヶ月で俳優座に戻り女優一筋の道を選ぶ。その後文学座で加藤武に育てられる。その後、雑誌上で三國と最初で最後の対談をしているが、その場でも八重に対する猛烈な嫉妬心を語っている。
この頃から緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになった。

1992年10月13日、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演期間中の午前2時過ぎ、乗用車(トヨタ・スプリンターシエロ)が桟橋から海に転落する事故により48歳で死去。同乗者の外山誠二と大滝寛は泳いで脱出したものの、太地は泳げなかった上、乗車前に深酒をしていたことから生還できなかった。駆けつけた佐藤陽子は、「死に顔は眠っているようだった」と語っている。
(出典:Wikipedia「太地喜和子」)

太地 喜和子 「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)

太地 喜和子さんの「寅ちゃん」って呼びかけが、えも言われぬ味を出していた(佐藤蛾次郎)

太地 喜和子 「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)

太地 喜和子 「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)

太地 喜和子 「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)

太地 喜和子 「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」(1976年7月24日)

いしだあゆみ 「男はつらいよ」第29作「寅次郎あじさいの恋」(1982年8月7日)

『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』(おとこはつらいよ とらじろうあじさいのこい)は、1982年8月7日に公開された日本映画。『男はつらいよ』シリーズの29作目。

京都へ旅に来ていた寅次郎。そこで寅次郎は、京都名物の葵祭で老人加納(片岡仁左衛門)と知り合う。当代屈指の陶芸家である老人の家を訪ねてみると、そこにはかがり(いしだあゆみ)という名の美しい女性が居た。美人を見るとたちまち自制心を失う寅次郎は、献身的に老人の世話をするかがりにすっかり夢中になる。

そんな寅次郎に対して、かがりの方も、自分の境遇に同情してくれるばかりか、励ましの言葉を掛けて励ましてくれる寅次郎に好意を持つようになっていった。

かがりが故郷に帰ったと聞いて、丹後まで訪ねていく。とらやへ帰った寅次郎へ、かがりが訪ねて来る。寅次郎とかがりは鎌倉のあじさい寺(成就院)へデートへ行く事に。デートを前に緊張した寅次郎は無理やり満男を同行させる。そんな満男は寅次郎から「プラモデル買ってやるからついてこい」と友達との釣りの約束をすっぽかされてしまったのだ。

さくらはかがりとの恋愛をどうなるのかと心配していた。そんな様子が気がかりだったさくらは満男に時々電話するようにと伝えた。やがて夕方になって江ノ島で酒を酌み交わしながらデートを続けている寅次郎を監視していた満男を気の毒に感じた博は「ついていかせるのがまずかった。大人なんだぞ。兄さんもかがりさんも。甘いんだよ君は」と諭す中、さくらが夜遅くなりそうだと判断し「一人で帰っておいで」と伝えようとしたが電話が切れてしまった。

かがりは寅次郎に会いたかった印象とは違っていたことに寅次郎は「いつもと同じつもりだけど」と言ってはいた。しかし、恋はまたしても暗礁に乗り上げ、品川でかがりと別れた寅次郎は一人涙を流す。そこでかがりはとらやに電話をかけ「大阪行きの新幹線の最終便で京都に帰ります」と伝えた。所詮はかない恋ははかない恋でしかなかったのだ。

意気消沈した寅次郎は旅に出た。数日後、かがりから届いたはがきには「とても恥ずかしいことをしてしまいましたけど、寅さんならきっと許してくれるはずです」とつづってあった。寅次郎は加納の作品を彦根城の下にある公園で商売をしていたところで加納と再会する。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」)

「男はつらいよ」第29作「寅次郎あじさいの恋」(1982年8月7日)のマドンナ・かがり役:いしだあゆみ

いしだ あゆみ(1948年3月26日 - )は、日本のアイドル、歌手、女優。長崎県佐世保市生まれ、大阪府池田市育ち。本名は石田 良子(いしだ よしこ)。イザワオフィス所属。

実姉はフィギュアスケートグルノーブルオリンピック代表の石田治子、実妹は歌手の石田ゆり、石田ゆりの夫にあたる義弟は小説家・作詞家のなかにし礼。

四人姉妹の次女。生後二か月で肺炎にかかり、瀕死のところ佐世保の米軍基地の病院でペニシリンで助けられた。フィギュアスケート選手を経て芸能界にスカウトされ、1960年に梅田コマ劇場で初舞台を踏む。

1962年に上京し、いずみたくに師事。1962年4月20日、ソノブックス社よりソノシートで『夢みる恋(原題:WALKIN BACK TO HAPPINESS )』を本名の「石田良子」名義で発表。

1964年『ネェ、聞いてよママ』でレコードデビューを果たし、テレビドラマ『七人の孫』にも出演する。1968年6月、イメージチェンジと歌手活動に専念のためレコード会社を日本コロムビアへ移籍。同年12月に発売された『ブルー・ライト・ヨコハマ』が1969年初頭から大ヒットし、150万枚の売り上げを記録。

NHK紅白歌合戦に1969年から1977年まで9年連続出場、1993年には16年ぶりに復帰し通算10回出場した。

1979年、所属していた渡辺プロダクションから分社化したイザワオフィスへザ・ドリフターズなどと共に移籍し、その後は次第に女優業へ主軸を移し、歌手活動を徐々に縮小する。1977年の映画『青春の門 自立編』で報知映画賞助演女優賞に輝いた。1982年の映画『野獣刑事』ではヌードにもなり、細身の身体と裏腹に豊満な乳房を披露し、当時の芸能マスコミはこぞって取り上げた。

『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』との両作品で第6回日本アカデミー賞主演女優賞を獲得し、1986年の映画『火宅の人』では、報知映画賞、ブルーリボン賞、第10回日本アカデミー賞主演女優賞など受賞した (→ #受賞)。 同年の映画『時計 Adieu l'Hiver』ではフィギュアスケートのコーチを演じている。

テレビドラマでは『北の国から』(1981年 - 1982年)、『金曜日の妻たちへ』(1983年)などに出演。1989年上半期、連続テレビ小説『青春家族』のヒロインを清水美砂とともに務め、放送時点41歳で当時としてはヒロイン史上最年長だった。2003年下半期に放送された連続テレビ小説『てるてる家族』で上原多香子が演じた岩田夏子はいしだがモデルで、自らもクラブの歌手で出演した。

渡哲也とのデュエット「わかれ道」では1986年12月11日放送の「ザ・ベストテン」のスポットライトのコーナーに出演した。
(出典:Wikipedia「いしだあゆみ」)

いしだあゆみ 「男はつらいよ」第29作「寅次郎あじさいの恋」(1982年8月7日)

いしだあゆみさんは演技のうまさ以上に、女優らしい味があった(前田吟)

いしだあゆみ 「男はつらいよ」第29作「寅次郎あじさいの恋」(1982年8月7日)

いしだあゆみ 「男はつらいよ」第29作「寅次郎あじさいの恋」(1982年8月7日)

いしだあゆみ 「男はつらいよ」第29作「寅次郎あじさいの恋」(1982年8月7日)

後藤久美子 「男はつらいよ」第42作「ぼくの伯父さん」(1989年12月27日)

『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(おとこはつらいよ ぼくのおじさん)は、1989年12月27日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの42作目。上映時間は109分。観客動員は190万5千人。配給収入は14億1千万円。同時上映は『釣りバカ日誌2』。

この年から寅次郎が甥の満男の恋をコーチする役に回っているが、渥美の体調不良で派手な演技ができなくなったためである。また、渥美も撮影時に62歳になっており、この歳で振られ役を続けていくのも脚色上、酷であるという判断もあった。そのため山田洋次は次作から年に2本作っていたシリーズを年1本に減らし、渥美の肩荷を減らすために満男の登場シーンを増やし、寅次郎の出番を最小限に減らす努力をしながら「男はつらいよ」を続けていくことになった。

寅次郎が久々に柴又に帰ると、そこには大学受験に失敗して浪人中だった甥の満男(吉岡秀隆)の姿があった。さくらから人生に悩む満男の相談に乗って欲しいと頼まれた寅次郎は、早速近所の飲み屋に出かけ、満男にしこたま酒を飲ませる。満男から勉強が身につかない原因を聞き、人生について語る。帰宅後、未成年にも関わらず酒を飲ました事に激怒する博と大喧嘩した寅次郎は怒って旅に出てしまう。一方、満男もさくら達と大喧嘩し、家出してしまう。行く場所のない満男は高校時代の初恋の相手・泉(後藤久美子)が親の離婚で引越した名古屋までオートバイで向かう。スナックで泉の母親(夏木マリ)に出会えた満男だったが、泉はここには居ないと告げる。泉が佐賀にいることを知った満男は、事故を起こしたり、ホモに迫られたりしながら、オートバイで佐賀に向かう。一方、旅に出た寅次郎も佐賀にいた。宿に帰った寅次郎の部屋に一人の若者が相部屋に入ってくる。浪人だというと「甥っ子も浪人でろくなもんじゃない」。相手は満男であった。

満男の一途な恋に自分自身をダブらせ、妙に納得した寅次郎は恋の指南を決心し、小野小町と深草少将の百夜通いの話をする。翌日、寅次郎と満男は早速、泉の家へ向かう。満男の出現にビックリしながらも感激する泉だった。郷土史研究家で人に説明するのが大好きな祖父が寅次郎たちを迎え入れ、二人はすっかり気に入られ、ぜひ泊まってゆけという。母親の妹に当たる寿子(檀ふみ)も親切にしてくれた。夫の嘉一(尾藤イサオ)だけは人が家に泊まるのを嫌がっていたが、しぶしぶ了解する。翌日は日曜日。寅次郎は郷土史研究会の老人たちのお供をして吉野ヶ里遺跡巡りに出かける。満男も泉と連れだってバイクで吉野ヶ里など散策を楽しんだ。帰宅が遅くなってしまい、高校教師の嘉一から嫌みを言われる。満男は恐縮して謝るが、泉にまで「東京へ来いよ」というが、「幸せだからそんなことがいえる」と反駁される。満男は別れを告げて帰京する。寅次郎は「私のようなできそこないが、こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、私は甥の満男は間違ったことをしてないと思います。慣れない土地へ来て、寂しい思いをしているお嬢さんを慰めようと、両親にも内緒ではるばるオートバイでやってきた満男を、私はむしろよくやったと褒めてやりたいと思います」とかばう。その言葉に、嘉一は面食らってしまう。校門で泉に会うと「あたし、ちっとも怒ってないって」と伝言を頼まれる。両親と和解する。正月に自宅に帰るとそこには泉が。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ ぼくの伯父さん」)

「男はつらいよ」第42作「ぼくの伯父さん」(1989年12月27日)の満男のマドンナ・及川泉役:後藤久美子

後藤 久美子(ごとう くみこ、1974年3月26日 - )は、日本のモデル、タレント、元女優。愛称はゴクミ。東京都杉並区出身。スイス・ジュネーブ在住。オスカープロモーション所属。

くまの幼稚園、区立大宮小学校、区立大宮中学校、多摩大学附属聖ヶ丘高等学校卒業。小学校5年生のときからモデルを始め、1986年、NHKの『テレビの国のアリス』のヒロイン役で女優デビューする。第24回ゴールデンアロー賞 放送・新人賞を受賞。以降、「国民的美少女」を謳い文句に、世に言う美少女ブームを巻き起こした。映画出演作に『男はつらいよ』(松竹)、『ラブストーリーを君に』、『ガラスの中の少女』、『シティーハンター』などがある。

1995年にフランス人F1レーサーのジャン・アレジと交際を始める。当時アレジには既に妻子があったが離婚調停中であり、その後前妻とは離婚が成立。96年には渡仏しアレジと同居を始める。現在もアレジとの婚姻手続きはとっておらず、「事実婚」の夫婦であるがヨーロッパでは比較的事実婚の夫婦が多い。ジャン・アレジは前妻との間に1人、後藤久美子との間に3人の実子がいる。

渡仏後は妻としてまた子育てを重視しており、年に1〜2本のCM出演や女性ファッション誌の表紙モデルなどを中心に活躍している。女優として映画やドラマでの復帰は無いとはっきり断言もしている。現在はスイス・ジュネーヴにある歴史的なお城を改築し在住しているが、パリやニューヨーク、モナコなどにも邸宅を所有している。

クルマ好きでも知られ、かつてはクーペ・フィアットを自ら運転し、自身の20歳の誕生日には、150台のみ生産され現在は極めて希少価値が高いディーノ206GTを購入した。
(出典:Wikipedia「後藤久美子 (女優)」)

後藤久美子 「男はつらいよ」第42作「ぼくの伯父さん」(1989年12月27日)

後藤久美子さんは可愛かった。恋人のジャン・アレジからサインをもらった(佐藤蛾次郎)

後藤久美子 「男はつらいよ」第42作「ぼくの伯父さん」(1989年12月27日)

後藤久美子 「男はつらいよ」第42作「ぼくの伯父さん」(1989年12月27日)

吉田日出子 「男はつらいよ」第44作「寅次郎の告白」(1991年12月23日)

『男はつらいよ 寅次郎の告白』(おとこはつらいよ とらじろうのこくはく)は、1991年12月21日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの44作目。同時上映は『釣りバカ日誌4』。前作と同様に満男と泉、寅次郎と聖子の恋が同時進行で描かれる。

ある日、満男に泉から電話がかかってくる。東京で就職活動をするためにやって来るというのだ。満男が東京駅で待っていると、泉が到着。その夜はくるまやで楽しい一時を過ごす。翌日、満男に付き添われ、泉は高校の教師に紹介してもらった楽器屋を訪ねる。しかし、売り場主任の吉村から高卒での就職は厳しいと言われてしまう。そうしているうちに、泉は名古屋に帰る。一方、泉の母親・礼子はスナックで知り合った男性と付き合っている。そして、男性を家に連れてくると途端、母親と喧嘩し、自室に閉じこもって泣く。

数日後、大学に通っている満男の元に泉から鳥取砂丘の絵葉書が届く。それを見てただならぬ気配を感じた満男は、さくらの制止を振り切り、雨の中を飛び出し、一路鳥取へ向けて泉探しの旅に出かけた。

一方、山陰を旅していた寅次郎は、偶然にも傷心の泉に出くわす。寅次郎が家出をした理由を問いただすと、泉は母の再婚を素直に喜べない自分が嫌になり、就職問題にも悩んでいたという。

翌日、泉は満男が待っているという鳥取砂丘へ行く。泉の姿を見つけた満男が砂丘を転がりながらこちらに駆け寄り、喜び合う二人。だが、そこに寅次郎がいることに満男はビックリする。

その後、若い二人を伴って、昔馴染みの料亭へ向かう。そこの女将(吉田日出子)は、かつて寅次郎が所帯を持とうとした女性であった。聖子は一年前に夫と死に別れて寂しい思いをしていると告白。言い寄られた寅次郎は、複雑な気持ちになる。

翌日、泉は寅次郎と聖子の関係を満男に聞く。すると満男は、寅次郎が「手の届かない美しい人には夢中になるけれど、その人が伯父さんに好意を持つと逃げ出してしまう」と、的確に語る。

その後、寅次郎は鳥取駅で満男と泉を見送って旅に出る。家に戻った泉は、母親に「ママ、幸せになってもいいよ」と告げる。感極まった、礼子は大泣きするのであった。満男が柴又に帰ってくると、さくらが怒っている。しかし、満男から寅次郎と聖子のことを聞かされたさくらは、母親としての憤慨から、たちまち、妹としての悲嘆にくれる。料理をしながら「いい年して何をやっているのかしら」と涙ぐむ。

正月になって初詣に行こうというさくらたちの制止を振り切って友人たちと出かけようとする満男だったが、そこへ泉がやってきて…。
(出典:Wikipedia「男はつらいよ 寅次郎の告白」)

「男はつらいよ」第44作「寅次郎の告白」(1991年12月23日)のマドンナ・聖子役:吉田日出子

吉田日出子 「男はつらいよ」第44作「寅次郎の告白」(1991年12月23日)

吉田日出子さんの旅館で寅さんと酒を酌み交わすシーンに感動しきりだった(佐藤蛾次郎)

前田吟「吉田日出子さんも良かった。渥美さんと二人で旅館で酒を飲むシーンなんかね、俺はもう感動しちゃったな。「本当は寅さん、好きだったのよ」なんて、うまい芝居をしていた」

出典:週刊現代 2016年新春特別版 国民の映画『男はつらいよ』 「寅さん」渥美清を語ろう

吉田日出子 「男はつらいよ」第44作「寅次郎の告白」(1991年12月23日)

吉田日出子 「男はつらいよ」第44作「寅次郎の告白」(1991年12月23日)

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