「モデルとして一流に、唯一無二の存在になりたいなら、私はまだまだ自分を磨くべきだ」
パリから帰国後、大阪に戻ったアンミカは、貧乏生活を送りながら自分探しに邁進。
ギャル向けのチープな店からハイブランドのブティックまで、ありとあらゆる種類のアパレルショップを巡って、片っ端から試着。
「これとこれならどっちがいいと思います?」
と店員に意見を求め、自分に似合う色や形などを研究した。
「Tシャツとデニムという一見何の変哲もない恰好をしていたとしても、自分を知っている人はTシャツの色合いや首の開き具合、長さ、デニムの色、デザイン、丈などが絶妙だったりして、その人の欠点をカバーして長所を最大限活かしている。
当然、そういう人は素敵にみえます。
私の場合、なで肩がコンプレックスなのですが、見方を変えるとなで肩のおかげで首がほっそりみえる」
ある日、知り合いのヘアメイクから京都のディスコで行われるファッションショーに誘われ、自称モデルのフリーターであるアンミカは大阪から京都まで往復で数千円かかるため、少しためらったが参加。
ショーをみていると
「君は日本人じゃないよね?」
とドイツ人カメラマンに声をかけられた。
自分が韓国人であることを告げるとドイツ人カメラマンは、
「僕の奥さんも韓国人なんだ」
といい、翌日、予定していた竹林での撮影に
「モデルをしてほしい」
と誘った。
(初対面の外国人と一緒に竹林・・・・)
アンミカは、かなり怪しいシチュエーションに一瞬ひるんだが、知人もいくということで誘いを受け入れた。
このドイツ人カメラマンの名は、ロバート・ショーナー。
アンミカは、日本人デザイナー、山下隆生のつくった服を着て撮影に臨んだ。
撮影された写真は、
「THE FACE」
というイギリスのファッション誌に掲載された。
アジア人として初めて「THE FACE」に取り上げられたアンミカは、ヨーロッパで賞まで受賞し、世界的に名が知られるようになった。
山下隆生とファッションブランド「ビューティービースト」も、この写真がきっかけ注目されるようになり、多くのファンを獲得。
山下隆生は、
「アンちゃんのおかげや」
といって、必ず自分の服のモデルとして必ずアンミカを起用。
1994年のパリコレクションへの参加することが決まると、日本からアンミカを連れていった。
こうして夢にまでみたパリコレにデビューすることになったアンミカは、喜びで武者震いしながらステージを務めた。
「何より感動したのは、自分がステージに立つことより、ショーの舞台裏の迫力を肌で感じられたこと。
本番前と本番中は、デザイナーのほか、スタイリストなどのスタッフが忙しく立ち働いてピーンと張りつめた空気感。
デザイナーは「こういう気持ちで舞台に出て」といってモデルの肩をバンっと叩いて送り出し、舞台の袖で、その姿を見守る。
そしてコレクションが終わると、みんな抱き合って成功を喜び合う。
中には涙を流している人もいるほどです。
そんな様子から発表する作品に対するデザイナーたちの強い思い入れが伝わってきます。
それを肌で感じてつくり手の喜びを知っただけでも感動的なのですが、自分もその一員であることを思うと感慨もひとしお。
ショーモデルという職業の本分を痛感させられたものでした」
20歳で「自称モデルのフリーター」から「世界のAHN MIKA」となったアンミカは、パリコレデビュー後、パリのモデル事務所に所属。
「1回目は門前払いだったエージェントのマネージャーと再会。
その事務所に所属することになりました」
オーディションの連続で幾多の屈辱を経験しながら、悔しさをバネに果敢に挑戦し続け、数々のコレクションに出演。
「パリにいた頃を思い出すと今でも悔しさが込み上げてくるくらい!
辛い経験でいっぱいです。
オーディション会場の扉を開けた瞬間に
「merci oba[メルシー・オバ、ありがとう、もういいよ)」
と帰されることがほとんど。
100個ショーがあったら、アジア人を必要とするショーは2個しかないといわれた時代、オーディション担当の方を訪ねて事務所にいったのに受付の女の人に
「あなたは会う必要はないわ。
あなたの容姿と雰囲気はいらないから」
と断られることもありました。
当時、パリのシャンゼリゼ通りには、泣きながら歩いているモデルの女のコたちがたくさんいました。
私と同じように断られたのでしょうね。
今でもテレビでシャンゼリゼ通りの映像をみると、その頃の辛い思い出が蘇ってきて胃がキュっとなります。
ブランドのイメージに合えば即、合格。
その場でコレクション会場の入館証を渡される子もいました。
そんな勢いで決まったかと思えば
「ごめん!
今朝のオーディションで、あなたより洋服が似合う子が見つかったの。
だから、今日、着てもらう洋服ないんだよね」と、当日会場で断られることも。
やっとの思いで合格して、コレクション会場に行くと、突然ケイト・モスの衣装を渡され、「これを持って、ランウェイを歩いて」といわれて、ランウェイに衣装がどう栄えるか、チェックをする為のリハーサルモデルだったという経験もありました」
日本では、ヴィダルサスーン、コカ・コーラ、ユニクロ、NIKEのCMや広告に起用され、大阪のテレビ番組でレギュラーになるなど関西でタレントとしてブレイク。
「一流になるまで帰らない」
と誓って出た実家に3年ぶりに帰ると築60年以上の長屋は傾き、今にも倒れそうな状態だったが、壁には自分のことが載っている新聞や雑誌の切り抜きが貼ってあった。