安美佳(アンミカ)は、1972年3月25日、韓国の済州島(チェジュとう)生まれで、
「牡羊座のO型です」
3歳のとき、早くに親を亡くして教会が心の拠り所だった父親が、恩人であるドイツ人神父が大阪市生野区の教会に赴任することになったため、その手伝いをするために家族を伴って来日。
すべて年子という5人兄妹の真ん中の次女で、兄、姉、妹、弟がおり、父親は鶴橋の工場に住み込みで働き、家族7人は、工場の段ボール置き場の2階の四畳半で暮らした。
神奈川県川崎市で生まれ、幼い頃に済州島に戻ったという母親は、お肉の代わりにパンの耳で「10円カツサンド」をつくったり、市場で捨てられた果物でスイーツをつくり、一家はスイカの皮で体を洗うなど、つつましい生活。
しかしアンミカは、ひもじい思いをしたことはなかったという。
「お金は全然なかったけど、両親は明るく愛に溢れていて、クリエイティブ。
腐りかけの果物も工夫して美味しいおやつをつくってくれるような親たちでしたから。
小学校に通い始めると我が家は他の家とは全く違うと気づきましたけど、我が家はカトリックだから「清貧は素晴らしい」という考えで、「持たざる者は美しい、他人に与えよ」を実践していることは、むしろ誇りでもありました」
5歳のとき、誤って2階の四畳半から階段を転げ落ち、口の中に大ケガを負って口の周りが黒ずみ、治った後も笑うと唇が大きくめくれ上がる後遺症が残った。
「普通、子どもがニッコリ笑うと、周りの人もつられて笑顔になったりするじゃないですか。
でも友達は私が笑うと逆に怖がったり、沈痛な面持ちをするようになって。
それがショックで、どんどんコンプレックスが高まっていきました。
うちは5人兄弟で、私は3月末生まれということもあり、保育所の中でも小さいほうでした。
成長が他の子より少し遅く、体もポッチャリしていて、そういった体型や顔のケガで思い悩みました」
「姉や妹はかわいいといわれるのに私だけチビでデブでブサイク」
そう思うと人と目を合わせるのが怖く、いつもうつむき、人と話すときは顔をみることができず目だけを相手に向けて
「目つきが悪い」
いわれると、さらに傷つき、イジけてオドオドして、
「目を見て話しなさい」
といわれると恥ずかして泣いてしまった。
そんなコンプレックスの塊だった保育園児のアンミカを、化粧品会社で働き、美容やマナーの勉強をしていた母親は、
「ミカちゃんは手足が長いから、将来モデルさんになれるかもね」
と褒めた。
その言葉は、幼子心に強く響き、アンミカは自然と
「将来モデルになるんだ」
母親は、さらに
「ミカちゃん、顔がいい人だけが美人と違う。
一緒にいて心地が良いな、気持ちが良いなと思える人が、本当の美人なのよ」
といい、
「実行したら絶対に美人になれる」
といって4つのポイント、アンミカいわく「4つの魔法」を教えた。
それは
1 姿勢をよくする
2 口角を上げる
3 相手の目を見て話す
4 人の話をちゃんと聞く
姿勢に関しては、母親は、
「女のコは姿勢が綺麗だと印象が良いよ」
「相手の目を見て話さないと暗い子と思われるけど、目を見ることができなくても姿勢さえよければシャイな子にみえる」
「胸に目があると思って、胸の目で相手をみなさい」
とアドバイス。
口角を上げることに関しては、
「口角を上げると可愛い笑顔になるよ」
「口角を上げて笑顔になりなさい。
自分が笑って笑顔の種をまくと、それがうつって(伝染して」相手も笑顔になるから」
「顔の筋肉は脳に1番近いから、笑顔でいると脳も笑い脳になるのよ」
相手の目を見て話すこと、人の話をちゃんと聞くことに関しては、
「相手の目を見ると感じがいいよ」
「優しい声で話しかけると心地がいいよ」
と教えた。
そしてアンミカの顔や背中を指差しながら、
「姿勢!」
「目線!」
「口角!」
「声!」
と注意。
アンミカは、鏡に向かって笑顔の練習や姿勢のチェックを行うなど、この4つの魔法を何度も練習。
母親に
「上手にできたね、かわいい!」
と褒められると、ますます頑張り、家族以外の大人に
「ミカちゃん、姿勢ががいいな。
顔は不細工やけど」
といわれると
(よしっ、勝った!)
と心の中でガッツポーズ。
コンプレックスは徐々に消え、性格も明るくなり、小学生になると
「めっちゃ明るい子」
になっていた。
「母は、兄妹1人1人の素質を伸ばすことが、とても上手だったと思います。
よく喋る子だった兄には「法律を勉強して弁護士になったらいい」といい、貧乏ゆすりの癖があった姉には、「リズム感が良い」「ドラムをやりなさい」
今考えると無理矢理だなって思いますが、その一言が私たちに小さな自信をつけてくれたんです。
幼い頃に母からもらった言葉は、私の人格形成に凄く影響していると思います」
家が貧しかったため、兄妹全員が保育園の制服であるスモックで登校したり、小学校で給食費を滞納したり、お小遣いが週に20円で兄妹5人分集めないと袋のスナック菓子が買えなかったりしたが、悲壮感はゼロ。
貧乏で手に入らないものがあったが、大きな愛があり、与えられたもので楽しんでやろうという精神もあり、明るく活発はアンミカは、地元の地域のキックベースボールクラブに入り、キャプテンとして男子と対戦。
「ませていたし、気も強かったから、周囲の子を意のままに支配しようとしたことも……。
今思うと可愛くない子でしたね。
クラスでも疎まれた時期もありました」
カレーでもシチューでも、なんにでもキムチをドボドボ入れる父親は、ラーメン屋に社員として就職。
「ウチは大家族だから、住み込みにさせてくれないか」
と頼み、家族7人の住み家は、4畳半から6畳にグレードアップ。
アンミカは学校から帰るとカウンターの上に椅子を上げ、床にモップをかけ、弟の手を引いて鶏ガラを買いに行くこともあった。
そうこうしていると保険の外交員をしている母が帰ってきて、餃子の仕込みを開始。
店に鉄柱があり、それを母が包丁で叩いて
「カンカンカーン」
と鳴ると兄妹は1階に降りてカウンターの端っこでご飯を食べた。
仕事を終えた母がエプロン姿のまま倒れるように横になると、アンミカと姉は、すかさず足を揉み、弟が背中を踏んでマッサージ。
それは母とおしゃべりできる貴重な時間で、競うように学校での出来事を話した。
母親は、朝、仕事に出て、夕方に帰ってくると深夜まで自宅を兼ねたラーメン屋さんで働いていたが、元々体が弱く、アンミカが9歳のときにガンが発覚。
その後、入退院を繰り返した。
「いつも明るくて優しい母でしたが、実は病気がちで気管支が弱く、学校にもあまり行けなかったと聞いています。
膝に水がたまったり、結核で入院したりした時期を経て、30代半ばにガンを発症。
以降は放射線治療を受けていました。
昔は放射線の治療を受けると、その場所にマーキング用の紫のインクが残り、2カ月くらい消えないのです。
母は咽頭ガンだったので首でしたが、ガンの治療中であることが一目瞭然なので、その上から湿布を貼って隠していました。
子どもの目から見ても、本当に働きづめの人生だったと思います。
ガンが見つかってからの母は、時間をつくっては私に編み物の指導をしたり、姉と妹に料理を教えたりするようになりました。
おそらく自分の命が長くないことを察して、娘たちに家事を託そうとしていたのでしょう。
コンプレックスの強い私には、自信を持たせるためか『エチケット入門』という素敵な本の贈り物もしてくれました。
そして性教育まで!
当時は子供にそんなことをいうの?と思っていましたが、母なりに今のうちにすべて伝えておかなくてはと考えていたのかもしれません。
忙しい母と触れ合った時間は、1日のうち、せいぜい1時間ほど。
でもその1時間は、実に密度の濃い時間でした。
こうして母の言葉を振り返る機会をいただくたびに、笑顔でいっぱいだった日々を懐かしく思い出します」
4年生のとき、仲良しだった友達の家に遊びにいくと
「ミカちゃん、韓国人やから一緒に遊んだらアカンってママにいわれた」
といわれ、初めて差別を受け、
「なぜ?」
とわけがわからず、悲しい気持ちになった。
「今でこそ差別は理不尽な行為だと理解できますが、当時の私は、まだ子供。
ただ悲しいだけではない、うまく言葉にできない感情で心がモヤモヤしていました。
折しも家の近所の公園に金木犀の花が咲き、あたりにいい香りが漂っていた季節。
金木犀の香りは大好きですが、今もその香りをかぐとあの日の辛さがよみがえり、胸が締めつけられます」
帰宅後、母親に報告。
すると母親は娘の悲しみを一蹴するように、
「アラッ、みんな知らないんだわ。
韓国はとっても美しくて、ご飯が美味しいところなのにね。
明日学校に行って教えてあげなさい」
と明るく話し、友達のことは一切怒らなかった。
そしてアンミカを膝に乗せ、
「ミカちゃんにそういったお友達を呼んで、美味しい韓国料理をごちそうしましょう」
と提案。
「そうなんや
私は何も悪いことないんや」
翌日、アンミカは、いわれた通り、韓国のいいところを友達に伝えた。
そして後日、理由をつけて
「お食事会をしますので来てください」
と数人の友達を誘い、母親はラーメン、餃子に加え、店では出していないチヂミやプルコギなども出し、終始、笑顔で
「韓国ってすごくいいところなのよ」
「これからもミカちゃんをよろしくね」
友達は大喜びしてくれ、食事会は大成功した。
「もしもそこで母が「なんてひどいことを。今からその子たちの家に抗議に行ってくるわ!」などと逆上したら、私の心に傷が残っただけでなく「韓国人であることはトラブルを招くのだ」という間違った認識を持ってしまったはず。
友達だって、もし母が怒ってクレームをつけていたら、私のことを避けていたかもしれません。
本当に母のあの対応には救われました」
結果、差別や仲間外れは自然消滅していったが、中に1人だけしつこい男の子がいた。
パン屋でその男の子で鉢合わせになったとき、
「韓国人は国に帰れ」
といいながらトングで突いてきたので
「もう、しつこいなあ」
といいながら軽く叩き返すと男の子はよろけて棚にぶつかり、パンが床になだれ落ちた。
「お前のせいや」
男の子が叩き返すとアンミカは棚に頭をブツけて流血。
「スイッチがカチッとオンになりました」
アンミカは、無我夢中で飛びかかり、取っ組み合いのケンカ。
結果、店内は無茶苦茶になった。
「人をボコボコに殴ったのは生れて初めてでした」
知らせを受けてかけつけた父親は、店や相手の子供と親に平謝りし、アンミカを叱りつけた。
(事情も知らないくせに)
アンミカは納得がいかなかったが、ケンカに至った経緯を説明すると父親は
「それやったらしゃーないな。
でもお父さんはパン代を弁証せなアカンねん。
ケンカするなら外でしなさい」
といって笑って、アンミカの背中を叩いた。
アンミカは、
「自分はどうしても守らなければならないを守った」
と後悔することはなかった。
父親のラーメン屋は繁盛し、経営者から事業譲渡の話を受け、6畳の隣にあった4畳の部屋や屋根裏部屋も使えるようになり、家族7人は、やっと人並みな生活ができるようになった。
が、その矢先、学校の昼休みに校庭で遊んでいると
「ピンポンパンポンッ」
と校内放送が鳴って、アンミカと兄妹が次々と呼び出され、職員室にいくと家が火事であると告げられた。
両親が仲人として結婚式に参加していて、紅白まんじゅうをブラ下げて帰宅。
焼け跡で家族そろって紅白まんじゅうを食べ、一張羅を着て持っているアクセサリーをすべて身につけていて母親は
「(焼けずに済んで)ラッキーだったわ」
と笑いながらいい、家族が全員無事だったことを喜んだ。
「ラーメン屋さんは、すごく流行ったんです。
その間が人生で唯一、本当に人並の、普通の家庭のように育ったときでした」
そしてこの火事で、初の海外旅行もキャンセルとなった。
「父と母は民団(在日本大韓民国民団)の企画か何かで、2年に1回ぐらい済州島に帰っていました。
そのときにいつも兄弟のうちの1人を一緒に連れて行ってくれました。
最初に兄が行って、2年後に姉がいき、次はいよいよ私だというときに家が火事になってしまったのです。
結局、私と妹は韓国に行ったことが一度もないまま、大人になってしまいました」
焼き出された一家は、教会の支援を受けながら生活。
やがて家と店を建て直し、再出発したが、1年と経たないうちにマンション建設のために立ち退き。
ラーメン屋を畳んだ両親は、小さな家に移り住んで居酒屋を始めたが、うまくいかず、さらにガンで入退院を繰り返していた母親の病状が悪化し、父親は出稼ぎに出ることになった。
中学校1年生のアンミカも早朝に新聞配達を開始。
最初のきっかけは、月2千円のそろばん教室。
「兄たちと同じようにそろばんを習いたい」
と父親に頼むと
「お金がないからダメだ」
といわれ、
「どうして私だけ塾や習い事をさせてもらえないの」
と訴えるが、
「それならお兄ちゃん、お姉ちゃんに教えてもらいなさい」
といわれてしまい、
「たった2千円の月謝が払えないなんて」
と不貞腐れると、
「2千円稼ぐのがどれだけ大変か、勉強しなさい」
と叱られ、
「1ヵ月間、1度も休まずに兄の新聞配達についていけたら、そろばんを習わせてあげる」
という条件を出されたのである。
すでに中学2年生の兄が新聞配達をしており、アンミカは
「絶対にやる」
と決め、1ヵ月間やり遂げると父親は、約束通りそろばんを習わせてくれた。
毎日21時に寝て、3時30分~4時30分に起き、新聞配達をこなしてから学校に行くという生活は、中1~高3まで6年間続き、その間にそろばんは飛び級で段まで進んだ。
1番ツラかったのは、雨と寒さで雪の日は最悪だったが
「皆勤賞は月プラス2000円」
というシステムもあって休まず新聞配達。
あるとき配達が遅れてしまい、高齢男性が
「配達担当者に会わせろ」
と乗り込んできたことがあったが、中学生のアンミカをみると態度を急変させて、逆にすまなさそうにヤクルトをくれ、同じように他社の新聞の配達員に自動販売機のコーンスープやココアを買ってもらった。
「当時の私にとって、100円の飲み物がどれだけ贅沢なことだったか!」
その他にも新聞配達を行うことで
・お金を稼ぐことの大変さを学べた
・新聞を読む習慣がついた
・新聞配達は、自営業に近い今のモデルという仕事にも通じるものがある
・朝型人間になったこと、現在も「夜10時には眠くなります」
ということがのメリットを得て、
「朝ちょっと早く起きて学校の授業の予習ができて、部活の朝練もやれて、その上お金も稼げるなんて1石3鳥くらいに思っていましたし、新聞配達をしていたとき、自分の仕事に誇りを持っていました」」
という。
オリンピックで韓国の選手がメダルを獲ると両親が涙を流して喜ぶのを目撃し、自身も、
「スポーツには差別はない」
と感じたアンミカは、
「中学校に上がったら陸上部に入ろう」
と思っていた。
しかし宝塚歌劇の舞台がテレビで放映されていて、それを観た両親に勧められたこともあって、実際に体験入部で入ったのは演劇部だった。
演劇部に入ってみると、
「あんたは見込みあるから腹筋50回」
「あんたには期待してるからグラウンド10周」
と体育会系のハードトレーニングを命じられ、それを真面目にこなした後、本来の演劇部の練習に参加したが、すでに終わっていて何もできない日もあった。
「腹筋の最中にお腹にバッグをぶつけられたりしても「期待されている」と問題にもしない。
根がポジティブなんです。
「走るときは笑顔で走り」と命じられても「演劇の稽古に必要なんだ」と思って微笑みながら走っていました」
そんな健気なアンミカをみて、実は演劇部の先輩たちは笑っていた。
そんなことを知らないアンミカは、
「早く走り終えないと練習に参加できない」
とグランドを笑顔でダッシュ。
「あの子、めっちゃ楽しそうに走ってる」
笑顔で疾走するアンミカをみた陸上部は、
「うちに来ない?」
とスカウトした。
陸上部に勧誘されたアンミカが、一緒に演劇部に入った友人に相談すると
「良かった。
いつ教えてあげようかと思ってたんやけど、あんたはイジメられてるんよ。
だから早よ、陸上部いき」
といわれ、演劇部の先輩が自分が走っているとき、陰で爆笑していたのを知った。
こうして演劇部を10日でやめて陸上部に入部。
「決して恵まれているとは言えない環境で育った私は、与えられたものを受け入れるしかありませんでした。
けれども苦労を苦労と思っていなかったようなところもあります。
どうせ受け入れるならしんどいとは思わず楽しんでやろうという習性が知らず知らず身についていたからです。
何事も楽しんでやっていれば必ず道は拓けてくると思うんです。
演劇部の一件も自分がイジメにあっていると気づいていなかったわけですから精神的な苦痛はありませんでしたが、肉体的にハードだったのは事実。
でもどうせなら楽しんでやるに越したことはない。
そんな風に思い思いながら命じられたトレーニングをやっていたら陸上部からお声がかかったんです。
演劇部の先輩たちに対して「今にみていろ」みたいな気持ちはありませんでした。
もともと陸上部に入ろうと思っていたことを思い出し、迷うことなく陸上部に転部したのです。
選択は正解でした。
その後、中学、高校と6年間にわたって陸上競技を続けることになり、そこそこの成績を残すことができたのです」
周りに歩調を合わせつつ、気の強さや自己顕示欲を内に秘めたアンミカは、差別や理不尽なことをされると悔しくて、ものすごく努力。
スポーツだけでなく勉強も頑張り、成績はいつも良く、中2のとき、担任の先生に、
「あなたは仕切る力があるから、やってよ」
といわれて文化祭や体育祭で消極的な生徒に声をかけて盛り上げた。
中学3年生のとき、闘病中の母親が、もう長くないと医師にいわれ、進学校である住吉高校に進み、その姿をみせようと思っていたアンミカは、生きているうちに何か朗報を届けたくて、父親に
「モデルになりたい」
といい、許可をもらうと20社ほどのモデル事務所に写真と手紙を送った。
しかしことごとく送り返されてきたため、作戦を変更。
ターゲットを1社に絞り、何度も何度も書類を送ったが、結果は同じ。
それでもあきらめずに電話をかけて、
「私は写真写りが悪いだけで、絶対におたくにとってプラスになる人材です。
会わないと損ですよ。
どうか1度会ってみてください」
とアピール。
「そこまでいうなら」
と熱意に負けた社長が自ら面接をすることになったが、
「ちょっと・・」
ということで不合格。
しかし帰り際、
「いつでも遊びにおいで」
という社長のリップサービスをアンミカは見逃さなかった。
アンミカは、毎週火曜に遊びにいき、
「また来たの」
といわれながらスタッフと親しくなった。
そのうちにレッスン生に1人欠員が出て、本来、面接をパスした者しか受けられないレッスンに
「特別に」
参加できることになった。
レッスンは、ウォーキングや立ち居振る舞いなどモデルの基本を3ヵ月間学ぶもので、最後にウォーキングのテストがあって合格すれば、事務所の所属モデルになれるというシステムだった。
受講料5万円は、新聞配達だけで払い切れず、アンミカは再び
「特別に」
分割払いにしてもらった。
数ヵ月間、誰よりも早く教室に行って熱心にレッスンを受け、最後のウォーキングのテストもパスし、事務所に所属することができたが
「高校生の間だけ」
という条件つきだった。
その理由として、
「あなたは顔が特別美しいわけでも、背が高いわけでも、顔が小さいわけでもないからスチールモデルもショーモデルも無理。
もちろんこの先、あなたがもっと頑張れば未来は変わるかもしれないけれど、今のところはモデルになろうという夢は持たなくていい。
高校を卒業したら普通の社会人になりなさい」
といわれた。
「要するに所属させてもらえたのは私の熱意と努力に対するご褒美に過ぎなかったのです。
結局、その事務所に所属していた3年間、モデルの仕事が回ってきたことはほとんどありませんでした。
しかし16歳で母が他界するまでにモデルになった報告ができたことは、私の人生の誇りです」
母親は、アンミカ15歳のときに43歳で他界。
亡くなる前の2年間は病院で医療装置に繋がれ、寝たきりの状態だった。
住吉高校でも新聞配達をしながら陸上部に入り、800mや3000mなどの中長距離を走り、
「ペース配分が難しく苦しすぎて、他にやる人がいないんですね。
誰も選手がいないからと選んだらハマってしまいました。
持久力が培われたかと思います」
というアンミカは、モデルとして事務所から仕事の依頼はなく、週末にモデルのオーディションを受けて落ちることもあったが、陸上に熱中していたために精神的なダメージは皆無。
「スポーツ推薦で大学に進学して普通の人生を歩むのも・・・」
とも思っていたが、高2のときに不整脈がひどくなり、ドクターストップがかかって走ることを断念せざる得なくなった。
すると
「やっぱりモデルをやりたい」
という気持ちが一気に高まり、モデルとして独り立ちした自分を想像するとワクワクし
「もうモデルとしてやっていくしかない」
と職業としてモデルの道を歩むことを決め、高3の2学期が終わった頃、父親にそれを告げた。
しかし父親は、
「大学に行ってほしい」
と反対。
衝突が続いた後、最終的に父親は、
「モデルをやるなら家を出ろ。
もちろん援助はしない」
といい、
・家を出ること
・一流モデルと世の中に認められるまで、たとえ母の法事でも実家の敷居を跨がないこと
・社会で役立てるような資格を取ること
という3つの条件を突きつけた。
アンミカは、残りの高校生活をアルバイトに明け暮れ、卒業と同時に家を出て、モデル仲間と一緒に生活を始めた。
「友達との共同生活を選んだのは経済的な理由から。
1人暮らしはあまりにもハードルが高かった」
そしてアルバイトをしながら勉強をして、資格を取った。
「今後の役に立つような資格をとることを父と約束したんです。
言われた通り、資格をたくさん取りました。
若くて常識を心得ていると社長秘書になれると思い秘書検定、言葉を知っていると便利かもと漢字検定、ちょっとでも雑誌にたずさわれる仕事ができたらとマスコミ校正などなど、モデルで独り立ちできなかったことを考えて実用的な資格を中心に勉強していました。
今は「芸能界での仕事に役立つような知識を得たい」と考え方は変わりましたが、資格を取ることにはますます積極的です」
と21個の資格を取得。
肝心の「モデル」は、最初の契約通り、高校卒業と同時に事務所を辞めさされたため、
「フリーのモデル」
という立場だったが実際は、
「自称モデルのフリーター」
やってくる仕事は、ほとんどが水着モデル。
「服飾専門学校のデッサンモデルとなり、レオタードにハイヒールで立ちっぱなしとか。
それで1日5000円もらえれば最高というくらい仕事がなかったんです」
「私がやりたいのはこんなんじゃない」
「イヤだ」
と思いながらやっていたが、お金も、モデルの仕事もない状態が続き、焦りが増すばかり。
「もうアカン」
「もう無理かも」
不安な日々を鬱々と過ごした末、ついに、
「パリに行こう!」
と一念発起。
当時はナオミ・キャンベルやクラウディア・シファーなどのスーパーモデルブームで
「一流モデルへの近道はパリコレに出ること。
そのためにはまずパリのモデル事務所に入ることが1番。
当てはないがいけば何とかなるだろう」
と思ったのである。
パリコレ、正式名称「パリコレクション」は、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで誕生し、
「モデルがランウェイを歩く」
というスタイルで100年以上の歴史を持つ世界で最も規模が大きなファッションショー。
毎年、3月と10月に開催される「パリ・プレタポルテ・コレクション」、1月と7月に開催される「パリ・オートクチュール・コレクション」を併せて「パリコレクション」と呼び、たくさんのデザイナーが新作を発表する。
ちなみにプレタポルテとは「高級既製服」、オートクチュールは「高級仕立て服[1点物のオーダーメイド服)」という意味。
世界の高級ブランドの新作発表会であり、その年のファッションのトレンドを決めるパリコレは、シーズン毎にテーマやムードに合わせて会場が変わり、パリの中心部の大きなホールや美術館、倉庫にセットが組まれ、完全招待制で一般人は入ることはできず、世界中から選ばれたジャーナリストやアパレル関係者、著名人など限られた人しかみることができない。
高い芸術性を求められるパリコレのモデルは、美しさと個性を重視され、ファッションモデルの中でも破格のギャランティーを誇るモデルを指す「スーパーモデル」という言葉は1990年代に知られるようになった。
19歳のアンミカは、
「パリコレ行ったことありませんか?」
と大阪、御堂筋の有名な美容室を片っ端から聞いて回り、情報を収集。
バイトで貯めた、なけなしのお金で10万円で1ヵ月間フリーのエアーチケットを買い、5万円を握りしめて、単身、パリへ飛んだ。
「当時の私には失うものがなく、パリへの挑戦は人生を変える希望しかなかった。
皆さんの想像とは全く違うんです」
現地で20社ほどのモデル事務所に電話をかけて面接を求めたが、ほとんどの会社に
「アジア人はいらない」
といわれ、会ってもらえたのは、3社だけ。
喜び勇んで出かけたが、2社は、パッとみられただけで即、不合格となり、帰らされ、3社目も同じ扱いを受けたが、後がないアンミカは食い下がった。
「どうしてダメなのか、せめて理由だけでも教えてほしい」
すると目の前の女性は
「あなたは自分をまったく知らない」
「ンッ?」
「今着ている服だけど、どういう意味で選んだの?」
「エッ?」
アンミカの反応をみて女性はヤレヤレという顔で肩をすくめ、
「いまのあなたのファッションは服の個性も自分の個性も殺してる。
色も形も素材もあなたの長所をかき消して欠点を浮き彫りにしている。
あなたは自分のことも洋服のことも全然理解していない。
安物を着ていたとしても、どこかキラリと光るセンスを感じさせるとか、洋服のセンスが悪くても、あなたという素材がバツグンに良いとかならデザイナーのインスピレーションに引っかかると思う。
でも今のあなたでは無理。
どのデザイナーのインスピレーションにも引っかからない。
だって私でさえ、ちっとも引っかからないもの。
例えば白って世の中200色あるのに、あなたは自分に最も似合わない白を選んでいる。
日本に帰って自分に似合う色や形をトコトン勉強して、「似合う」と「好き」を近づけてから、もう1度チャレンジしなさい」
まったく予想していなかったことをいわれ、アンミカは唖然と立ちすくみ、その後、スゴスゴと事務所を後にした。
「完全に敗北です」
「モデルとして一流に、唯一無二の存在になりたいなら、私はまだまだ自分を磨くべきだ」
パリから帰国後、大阪に戻ったアンミカは、貧乏生活を送りながら自分探しに邁進。
ギャル向けのチープな店からハイブランドのブティックまで、ありとあらゆる種類のアパレルショップを巡って、片っ端から試着。
「これとこれならどっちがいいと思います?」
と店員に意見を求め、自分に似合う色や形などを研究した。
「Tシャツとデニムという一見何の変哲もない恰好をしていたとしても、自分を知っている人はTシャツの色合いや首の開き具合、長さ、デニムの色、デザイン、丈などが絶妙だったりして、その人の欠点をカバーして長所を最大限活かしている。
当然、そういう人は素敵にみえます。
私の場合、なで肩がコンプレックスなのですが、見方を変えるとなで肩のおかげで首がほっそりみえる」
ある日、知り合いのヘアメイクから京都のディスコで行われるファッションショーに誘われ、自称モデルのフリーターであるアンミカは大阪から京都まで往復で数千円かかるため、少しためらったが参加。
ショーをみていると
「君は日本人じゃないよね?」
とドイツ人カメラマンに声をかけられた。
自分が韓国人であることを告げるとドイツ人カメラマンは、
「僕の奥さんも韓国人なんだ」
といい、翌日、予定していた竹林での撮影に
「モデルをしてほしい」
と誘った。
(初対面の外国人と一緒に竹林・・・・)
アンミカは、かなり怪しいシチュエーションに一瞬ひるんだが、知人もいくということで誘いを受け入れた。
このドイツ人カメラマンの名は、ロバート・ショーナー。
アンミカは、日本人デザイナー、山下隆生のつくった服を着て撮影に臨んだ。
撮影された写真は、
「THE FACE」
というイギリスのファッション誌に掲載された。
アジア人として初めて「THE FACE」に取り上げられたアンミカは、ヨーロッパで賞まで受賞し、世界的に名が知られるようになった。
山下隆生とファッションブランド「ビューティービースト」も、この写真がきっかけ注目されるようになり、多くのファンを獲得。
山下隆生は、
「アンちゃんのおかげや」
といって、必ず自分の服のモデルとして必ずアンミカを起用。
1994年のパリコレクションへの参加することが決まると、日本からアンミカを連れていった。
こうして夢にまでみたパリコレにデビューすることになったアンミカは、喜びで武者震いしながらステージを務めた。
「何より感動したのは、自分がステージに立つことより、ショーの舞台裏の迫力を肌で感じられたこと。
本番前と本番中は、デザイナーのほか、スタイリストなどのスタッフが忙しく立ち働いてピーンと張りつめた空気感。
デザイナーは「こういう気持ちで舞台に出て」といってモデルの肩をバンっと叩いて送り出し、舞台の袖で、その姿を見守る。
そしてコレクションが終わると、みんな抱き合って成功を喜び合う。
中には涙を流している人もいるほどです。
そんな様子から発表する作品に対するデザイナーたちの強い思い入れが伝わってきます。
それを肌で感じてつくり手の喜びを知っただけでも感動的なのですが、自分もその一員であることを思うと感慨もひとしお。
ショーモデルという職業の本分を痛感させられたものでした」
20歳で「自称モデルのフリーター」から「世界のAHN MIKA」となったアンミカは、パリコレデビュー後、パリのモデル事務所に所属。
「1回目は門前払いだったエージェントのマネージャーと再会。
その事務所に所属することになりました」
オーディションの連続で幾多の屈辱を経験しながら、悔しさをバネに果敢に挑戦し続け、数々のコレクションに出演。
「パリにいた頃を思い出すと今でも悔しさが込み上げてくるくらい!
辛い経験でいっぱいです。
オーディション会場の扉を開けた瞬間に
「merci oba[メルシー・オバ、ありがとう、もういいよ)」
と帰されることがほとんど。
100個ショーがあったら、アジア人を必要とするショーは2個しかないといわれた時代、オーディション担当の方を訪ねて事務所にいったのに受付の女の人に
「あなたは会う必要はないわ。
あなたの容姿と雰囲気はいらないから」
と断られることもありました。
当時、パリのシャンゼリゼ通りには、泣きながら歩いているモデルの女のコたちがたくさんいました。
私と同じように断られたのでしょうね。
今でもテレビでシャンゼリゼ通りの映像をみると、その頃の辛い思い出が蘇ってきて胃がキュっとなります。
ブランドのイメージに合えば即、合格。
その場でコレクション会場の入館証を渡される子もいました。
そんな勢いで決まったかと思えば
「ごめん!
今朝のオーディションで、あなたより洋服が似合う子が見つかったの。
だから、今日、着てもらう洋服ないんだよね」と、当日会場で断られることも。
やっとの思いで合格して、コレクション会場に行くと、突然ケイト・モスの衣装を渡され、「これを持って、ランウェイを歩いて」といわれて、ランウェイに衣装がどう栄えるか、チェックをする為のリハーサルモデルだったという経験もありました」
日本では、ヴィダルサスーン、コカ・コーラ、ユニクロ、NIKEのCMや広告に起用され、大阪のテレビ番組でレギュラーになるなど関西でタレントとしてブレイク。
「一流になるまで帰らない」
と誓って出た実家に3年ぶりに帰ると築60年以上の長屋は傾き、今にも倒れそうな状態だったが、壁には自分のことが載っている新聞や雑誌の切り抜きが貼ってあった。