近所でピアノを教え始め、普通よりも安く教えたこともあって、依頼はたくさんあり、50歳の頃からドイツの音楽学校でもピアノを教えた。
「毎日自転車で片道15キロの道のりをハイデルベルクまで走った。
楽しかったのよ
体も引き締まったし。演奏家としてのキャリアなんて、まったく頭になくて」
音楽学校で教えるようになると、アパートから一軒家に引っ越し。
向かいの家に呼ばれて、食事をごちそうになることもあった。
その家は、老夫婦と医師をしている娘、そしてその子供が2人、計5人で住んでいたが、あるときショパンを弾いていると、向かいの家の前で2人の子供が踊り出したので、踊りを止めないようにと一生懸命弾き続けた。
ピアノを教えながら生活する日々の中、
「私の音は誰もマネができない、世界でただ1つ」
という自負と
「私はこのまま終わってしまうのだろうか」
と不安にかられる毎日。
フジコの才能に気づき、ニューヨークやロンドン、パリを目指すようにアドバイスしてくれるドイツ人もいた。
「お金持ちでも有名でもなかったけど、私を勇気づけてくれる人がドイツでもいっぱいいた」
というフジ子だが、その厚意に感謝しつつ、お金がなかったことや8匹の猫が心配なため、チャレンジしようとはしなかった。
そんな中、1990年、バーンスタインがフジ子の成功をみることなくアメリカで死去。
フジ子からすれば生きている間に恩に報いることはできなかった。
1993年、フジ子は、弟のウルフから電話で母親の死を告げられた。
大月投網子は、90歳で亡くなるまでピアノを教えて生計を立てていた。
「死に顔をみるのが耐えられない」
フジ子は葬式には出ず、ドイツから祈り続けた。
母の死から2年後、1995年、母親の家が人手に渡るのを防ぐため、ようやく日本に戻ることを決意。
小田急線沿い、下北沢にある母親の家に住み始めた。
この家は、フジ子が留学した後、母親が学校だった建物を買い取って、ずっと暮らしていた家だった。
親戚に
「死に目に会いに来なかった」
と責められたが、
「最期をみるのはツラかったから会わなくてよかった」
と後悔はしなかった。
29歳で離れて以来、35年ぶりにの日本だったが、何もやることがなく、1日中、母親の家がある下北沢の街を歩いた。
野良猫を拾ったり、お店を巡ったり、聖路加国際病院でボランティア演奏をしたこともあった。
その後、ピアノを教えながら生活していたが、東京芸術大学の友人たちが、
「フジ子のピアノを聴きたい」
とコンサートを企画。
こうして母校、東京芸術大学の奏楽堂でコンサートが行われ、その後、フジ子のピアノは口コミで広がっていった。
手助けをした旧友、湯浅照子いわく、
「まだ知られてませんでしたからね。
でも1度聴いてみたかったから、みんな注目して、すばらしいって、今度コンサートやるならいきたいっていって。
それで1度コンサートいらっしゃると今度10枚くらい買うんですよ。
それですぐに無くなって、足りなくなって。
それで追加公演して。
彼女、喜んじゃってね、ソールドアウトって外に書いてね 」
そして1999年2月、ついに奇蹟が起こった。
NHKのドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」で、その波瀾の半生と魂の演奏が取り上げられ、放送後、番組は大反響を呼び、NHKには1000件以上の手紙や電話が寄せられた。
フジコ・ヘミングという名が一夜にして全国に知られるようになった。
4月、奏楽堂で行われたコンサートのチケットは即日完売し、当日は全国各地から人々が詰めかけた。
「NHKの放映があって、あんな反響が、あれほどになるとは思わなかった。
もう恥ずかしくて、なにこれって思って。
まるで神様のイタズラみたい」
8月、デビューCD「奇蹟のカンパネラ」が、クラシックでは異例の300万枚近くを売り上げ、日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞。
中でも聴く者をフジ子ワールドへと誘い、フジ子旋風を巻き起こしたのはリストの「ラ・カンパネラ」だった。
フジコ・ヘミングのソロ演奏はドラマティックで、その音色は魂に響いた。
「音楽も新時代の音楽っていうのがあるんですよ。
そっちの方が好きな人はいっぱいいる。
私は古くさいやり方が好きだからさ。
ショパンやリストの時代に作曲されたものだから、私はその時代の方が好きだから、それを守りますと思って」
とクラシックなものへの愛を示す一方で、
「でも誰が弾いても同じなら私が弾く意味なんてない。
だから私は私だけの音を大切にしているの。
ブッ壊れそうなカンパネラがあったっていい。
魂が燃え尽きるほどのノクターンがあったっていい。
機械じゃないんだから。
人がどういおうが、私はそれは構わないから。
自分のやってることが間違いだっつったらやる気しないじゃん。
自分がやってることだけを正しいんだって信じてれば、それでいいですからね」
と強烈な個性もアピール。
60歳にしてメジャーデビューを果たしたフジ子に、コンサートの依頼が殺到した。
奇跡の復活劇から2年後、2001年春、東京芸術劇場で全国60ヵ所で公演を行うコンサートツアーがスタート。
6月にはニューヨークのカーネギーホール、9月にはプラハでの公演も控えていた。
「今年は本格的にすごい忙しくなって、大変な年です。
新しい曲やる暇が全然ないので、それがちょっと困ってるんですよね。
新しい曲やってくれやってくれってほうぼうからいうんですけど、今まで出世するとは思わなかったから、全然、そんなに、あのぉ真剣に音楽会のプログラムなんかは勉強していなかったから、急にこんなことになって困っちゃってんです。
ホントに。
それで今度もチェコのフィルハーモニーとチャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾きますからね。
それまだ暗記もしてないくらいで。
そっちの方から先にやんないと新曲どころじゃないんです。
ですから、もうなるべく同じ方が2度と来て、また同じ曲かなんていわないように他の方に切符を譲ってください」
ある地方公演で
「死ぬほど緊張する」
といいながら舞台袖へ。
胸の前で十字を切って天国にいる神様と母親に祈りを捧げた後、ピアノがある舞台へ。
演奏が、無事終わるとホッとした表情で控室に戻り、オレンジジュースをゴクゴクと飲み、
「演奏前はロクに何も食べられないから・・・」
そしてタバコに火をつけ、おいしいそうに吸いながら
「でも気持ちいい。
うまくいくと気持ちいいしね。
変にいっちゃうこともあるし。
得意になったりなんかすると、すぐに間違える。
調子に乗ってこんなになったりするとすぐ、もうアッという間に間違えちゃう。
気分が高まっても、いっつもブレーキをかけて慎重にやってないと。
不思議ですよ。
人間の行いもそうじゃない?
割と調子に乗って鼻が高くなっちゃったりするとダメですよね。
まあ私は歳を取ってるから、もう寿命が少ないから、やれるうちに早くやっておこうと思ってね。
そいで少しはお金も入れば、貧しい人たちや貧しいかわいそうな動物たちも助けられる
だから・・・」
東京に戻り、さらに車で下北沢の家に帰ると、ドアを開けた途端に犬1匹、ネコ11匹のお出迎え。
コンサートで全国を巡る日々の中、自宅で過ごす、かけがえのない時間が訪れた。
家の中はたくさんの絵や写真、母親から引き継いだものとヨーロッパから持ち帰ったもの、思い出がいっぱいの空間。
居間には、いくつかイスがあるが、
「1つは、昔、隣りに住んでいたドイツ人が捨てたイス。
ウィーンのカフェで使われていたイスもある。
100年以上経っている古いもの。
このイスにどれだけ多くの人が座って、どんな会話をしていたのだろう。
人々の楽しげな物語や悲しい物語を想像するのは、とても楽しい。
そしてもう1つは、捨てられていた学校の生徒用のイス。
まだ使えるのに、なんで捨てられてしまったのかしら。
みんな、まだ座れる素敵なイスを捨ててしまう。
少し古くなると捨てて、流行りのものや新しいデザインにものを買うなんてもったいないことね。
以前、取材に来た記者が、部屋に置いてあるイスが全部バラバラだって驚いてた。
レストランやホテルなら同じイスを並べるけど、自分の部屋なら1つ1つ気に入ったイスを並べるほうが楽しいじゃない。
他人からどういわれようと自分が好きなものであれば、それはそばに置いておくべきよね」
窓辺に並んだ7色のガラス瓶は
「きれいでしょう?
これは20年ぐらい前に100円ショップで買ったの」
その他にもレースをかけたランプシェイドやインドネシア製の古い食器棚、明治時代の障子、ヨーロッパから長年愛用したトランク、母親が作った鎌倉彫のお盆などアンティークなものが多い。
「自分の好きなものに囲まれたこの家で暮らすと心が落ちつくの。
ホテルみたいな個性のない部屋はつまらないから」
家の中がしっくりなじむまで数年かかりましたね。
置きかえて、また戻してと。
私はきれいなものが好き。
でも値段は関係ないわ。
お金をかけなくても素敵なものはいっぱいあるし。ダイヤモンドよりも、千代紙とか着物の切れっぱしのほうがすごく好き」
ファッションにも「自分らしさ」を大切にしているフジ子は、演奏会で着物をほどいてドレスに仕立てたものや、レースをあしらったドレスを着ることもある。
「着物かドレスかどちらがいいかといえば、半々くらいだったかしら。
演奏するときは背中が丸くみえないように、袖口が窮屈にならないように、布を足して広げてもらいます。
ドレスと共布で、髪飾りを作ってもらうこともあります。
髪飾りは、ポイントになって地肌が隠れてみえなくなるし」
そして母から受けついだブリュートナー社製のピアノは、110年という年代物。
フジ子の
「みっともない大根指」
がピアノの象牙を使った鍵盤に触れた途端、部屋の空気が震えて美しい音色を奏でた。
2001年6月、滋賀県大津市、びわ湖ホールのコンサートを終えるとアメリカへ飛んだ。
基本的に移動は、鉄道と自動車。
耳と気圧の問題で飛行機はNGで、
「できればアメリカと日本に鉄道を通して欲しい」
「飛行機に乗った後は1週間はコンサートはできない」
というフジ子は、早めにニューヨークへ移動。
カーネギーホールは、1891年、こけら落としでチャイコフスキーがタクトを振って以来、世界のトップアーティストが演奏し、多くの聴衆に興奮と感動を与えてきた音楽の殿堂。
フジ子にとって初の世界挑戦、そして35年前にレナード・バーンスタインから与えられたチャンスをモノにできなかった夢を実現するためのリベンジでもあった。
公演当日、フジ子は、いつものように公園を散歩。
それは
「自然からエネルギーを授かる」
という大事な時間。
そして道端にいるホームレスに話しかけてコインを渡し、アスファルトの上に花苗が落ちていると土に戻した。
「人間にとって働いて、美味しいものを食べて、おしゃれをして、ものを買ってというのは大事なこと。
けれどそれができない人は世界中にいる。
そういうことにも目を向けて、平和のためにできること、人を救うためにできること、自分だけでなく人の幸せについても考えなくていけないと思う。
何もしないで楽しく生きていこうなんて、それは人生じゃない」
開演前、
「スカスカのカーネギーホールで弾くんじゃないかと思って覚悟して来ましたから。
私は誰にも聞かなかった。
切符の売れ行きどうなのかとかね。
聞くと夜、寝られなくなっちゃうから」
といっていたが、カーネギーホールは3000人の聴衆で埋め尽くされ、本番直前、タバコをくわえながら、おどけて控室のピアノを弾いて緊張をコントロール。
そして舞台に上がると全身全霊で演奏。
満員の客席に感動の渦を巻き起こし、大きな拍手を浴びた。
フジ子は35年前、不運のために逃した大きな夢を成し遂げ、大きな充実感に満たされた。
「とても大成功でうれしいです。
みなさまのおかげでここまで来ました。
どうもありがとう。
サンキュー・ベリー・マッチ」
翌日、レナード・バーンスタインが眠る、ニューヨーク郊外にあるグリーンウッド墓地を訪れ、花束を捧げた。
「私は、バーンスタイン、バーンスタイン助けてください、守ってくださいってお祈りしながら弾きましたよね。
自分がうまく弾けたっていうことで、それがもう最高で、それ以上は何にも。
誰がなんと悪口いおうと途中で立って帰ろうが、それは構わないって思いながらね、弾きました」
数日後、ニューヨークのスタインウェイホールで次なる世界挑戦、プラハ公演に向けてリハーサルが始まった。
故郷であるヨーロッパでの公演こそ、追い求めてきた夢だった。
7月、日本に帰国し、アクロス福岡シンフォニーホールからツアーを再開。
そして来る日も来る日もチャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾き続けた。
プラハ公演の前に
「死ぬときはベルリンで死にたい」
というベルリンへ。
電車を降り、
「胸がドキドキしちゃう」
といいながら夜のベルリンの街に。
翌日、生家を訪ねると、2階のアパートの窓から自分を見つめる母親を思い出し、立ち尽くしてしまう。
そして生家の前に落ちていた落ち葉を1枚拾ってソッとしまった。
40年ぶりの母校、ベルリン芸術大学でも、様々な思い出が蘇り、懐かしさで心が弾んだ。
後輩である現役の学生と楽しく談笑。
校舎の掲示板という掲示板にプラハ公演の広告を貼り、まるで学生に戻ったかのような笑顔で
「演奏会は1枚のチラシを貼るところから始まるのよ」
そして思い出のレッスン室へ。
2台並んだピアノはイスまで当時のまま。
窓からみえる景色もまったく同じで、それを写真に撮って
「人間は早く老いるけど、こういう建物っていうのは千年経っても、まだそのままだ」
数々の思い出とプラハ公演の成功を祈りながら、ベルリンを後にした。
「後ろ髪を引かれる思いだった」
2001年9月、ヨーロッパで最も美しい街の1つ、そして音楽の街であるプラハに到着すると早速、コンサート会場へ。
ドヴォルザーク・ホールは、ヨーロッパのコンサートホールの中では最古のものの1つで、ヴルタヴァ川右岸に位置するヤン・パラフ広場の中にあった。
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのリハーサルは、スタジオで行われ、最初に合同練習が行われる前日、1人でピアノに向かい、練習後、タバコに火をつけ、ため息をつきながら、
「明日、大変ですよ。
これで知らない、今まで聴いたことのないような音がブーンって入ってくるとね、やっぱりわかんなくなっちゃうと思うんですよ。
オケ(オーケストラ)が鳴ってるときに落っこうちゃうとなんだかわかんなくなる。
次にいかなかったりしたら大変なんですよ。
そういうこと実際あったからさ、すごいこわいですよ」
リハーサル初日、オーケストラのメンバーが次々とスタジオ入りしているとき、フジ子はロビーの片隅で集中力を高めた。
そして誰よりも早くスタジオに入って、1人ピアノを演奏。
指揮者、ヴラディミール・ヴァーレクの合図で合同練習が始まり、動揺に近い緊張の中、思い通りにいかないとイラ立った。
合同練習が終わっても周りのメンバーは異国の、しかも自分より人間ばかりで、コミュニケーションが取れない。
そしてみんなが帰った後、1人でピアノに向かって練習。
それが終わると
「1度もまともに弾けたことないよ、こりゃ。
いやあ、情けない」
といいながら、朝から何も食べていなかったので、この日、初めての食事へ向かった。
リハーサル2日目もメンバーが集まる前から練習し、わからないことを指揮者に質問。
合同練習が始まると昨日に比べて格段に息が合った演奏をみせ、指揮者が練習の終わりを告げると
「もう1度やりたい」
と願い出た。
「最高の演奏をするために」
フジ子がいった瞬間、その気迫がメンバーに伝わった。
そしてオーケストラの演奏が始まると、フジ子は体を捻ってストレッチ。
そしてピアノの前で目を閉じ、自分の出番が来ると流れるような手つきで鍵盤をタッチ。
そのピアノソロをオーケストラの演奏が追い、見事なハーモニーとなった。
「いまチャイコフスキーを弾こうと思っても、私が目指しているのは世界一を目指してるんですよ。
本当に正直にいって。
目指すところは世界最高のチャイコフスキーを弾かないと気が済まないからね」
本番当日、ドヴォルザーク・ホールで最後のリハサールが行われた。
そして見事な「Piano Concerto No.1[チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番)」が演奏され、聴衆は、無名の日本人ピアニストが放つ音色に引き込まれた。
翌日、プラハの新聞は、
「日本のピアニスト、フジコ・ヘミングは、満員のドヴォルザーク・ホールでプラハの聴衆と圧倒した」
と伝え、ニューヨークに続き、フジ子の演奏は、再び世界に認められた。
プラハのコンサートの後、フジ子はインタービューに、
「今死んでも全然かまわないと思うけど。
でも今死んだら、もったいない。
また世界中いって、同じことやりたいです」
こうしてかつて
「私の人生はため息ばかりだったわ」
が口ぐせだったフジ子が
「世界中でみんなにアーってため息をつきさせたい」
といい始めたが、
『1番やってみたいことは?』
と聞かれると
「木がいっぱい、窓からこんもりみえて、鳥がいっぱいさえずっているようなところで・・・
ジッと座って、下に猫がいっぱいいて、そこでものを考えたり本を読んだりしたり・・・」
決してLove & Peaceは失わないフジ子ちゃんだった。