フジコ・へミング生い立ちと国籍
1932年12月5日、ワイマール共和国時代のドイツ・ベルリンで、ロシア系スウェーデン人の建築家・画家であるジョスタ・ゲオルギー・ヘミングと、ピアニストの大月投網子の間に生まれる。
当時の日本は父系血統主義であり、1984年(昭和59年)の国籍法改正まで、日本国籍の女性から生まれた子どもが日本国籍を取得するためには「日本国籍の父を持つこと」が必須条件だった。スウェーデン人の父親を持つフジコは日本国籍を取得できなかった。また、両親の出身国ではない第三国であるドイツで生まれたことも無国籍に影響している。

フジコの母・大月投網子(とあこ)
1903年、大阪府に生まれる。父親は東洋インキの創業者である大月専平。裕福な家庭で育ち、明治時代の日本では珍しく高価なピアノが家にあった。東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に進学し、卒業後、24歳のときにドイツへ留学した。留学から4年後、7歳年下のスウェーデン人ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングと出会う。1993年に90歳で没。
ジョスタ・ゲオルギー・ヘミング(フジコの父)
1910年7月9日、弁護士の父と未婚の母の間に生まれた。フジコ・へミングの母、大月冬子と離婚後、1944年にブリタ・ニルソンと結婚。1945年生まれのクリスティーナと、1960年生まれで音楽大学教授のエヴァ・ジョージイという子供がいた。1986年5月16日に死去し、妻とともにスウェーデンの森林墓地に埋葬されている。
日本での暮らしと戦争
フジコが幼い時にヘミング一家は日本に移住した。国籍を持たない子供が、当時どのようにドイツから日本へ移動できたのだろうか。戦前、ヨーロッパと日本を往来する主な手段はインド洋回りの船便だった。地中海、スエズ運河、インド洋を経由し、航海日数は約46~51日であった。
1934年に弟の大槻義雄(別名ウルフ)が生まれる。日本が日中戦争から太平洋戦争へと突き進む中、フジコの両親の夫婦仲は悪化した。父は日本に馴染めず、家族3人を残して一人スウェーデンに帰国した。以来、フジコは母と弟と共に東京の渋谷穏田で暮らすこととなった。

穏田神社
フジコは5歳の時に母親からピアノのレッスンを受け始め、10歳からは父の友人でロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァー(※1)からレッスンを受けるようになった。
青山学院緑岡尋常小学校(現在の青山学院初等部)を卒業後、1945年2月に家族と共に岡山県総社市日羽に疎開した。疎開先でも、母の投網子は小学校にあるピアノを借りてフジコのレッスンを続けた。高等女学校に通うフジコは学徒勤労動員を経験した。終戦後、青山学院高等女学部(現在の青山学院中等部)に転校し、17歳の時に最初のコンサートを行った。その後、東京芸術大学に進学し、卒業した。
(※1)レオニード・クロイツァー
1884年3月13日、サンクトペテルブルク生まれ。ドイツ系ユダヤ人の血を引くロシア人。ピアノ教師、ピアニスト、指揮者としても知られる。1908年にベルリンに移り、1921年から1933年までベルリン音楽大学の教授を務めた。1931年に初来日し、2年後に再来日して茅ヶ崎市に定住した。1942年、ナチス・ドイツの欠席裁判によって国籍を剥奪され、無国籍となる。1952年2月4日、門下生で東京芸術大学ピアノ科講師の織本豊子と結婚し、五反田に居を移した。1953年、東京で亡くなった

運命を変えた留学
留学の機会を得て、スウェーデンのパスポートを申請したが、当時のスウェーデンも日本と同様に父系血統主義を採用しており、フジコは、18歳までのスウェーデン居住歴がないため、国籍は抹消されていた。1961年、ウィルヘルム・ハース駐日西ドイツ大使の助力を受け、28歳で国立ベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で学ぶためにドイツに移住した。

ベルリン芸術大学
卒業後、ヨーロッパ各地で音楽活動を行うも、奨学金と母からの仕送りでは生活が苦しく、貧困な状況が長く続いた。ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダ(※2)に師事した。そして、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナ(※3)のソリストとして契約を果たした。1971年、ウィーンでのコンサート中にフジコ・ヘミングは高熱で聴力を失った。
治療のためにスウェーデンのストックホルムに移住した。
(※2)パウル・バドゥラ=スコダ
1927年10月6日、ウィーン生まれ。オーストリアのピアニスト・音楽学者。1945年からウィーン音楽院で学ぶ。1949年にヴィルヘルム・フルトヴェングラーやヘルベルト・フォン・カラヤンらの指揮者と共演した。2019年9月25日、ウィーンの自宅で死去した。

パウル・バドゥラ=スコダ
(※3)ブルーノ・マデルナ
1920年4月21日、 ヴェネチアに生まれ。イタリアの現代音楽の作曲家・指揮者。
1973年11月13日、ドイツのダルムシュタットにて没。

スウェーデン国籍を取得
フジコ・ヘミングは、16歳の時に中耳炎が悪化して、すでに右耳の聴力を失っていた。そして、左耳の聴力も失ってしまった。演奏を断念して、治療のためスウェーデンに移住した。
フジコは、40歳の時に、父親の後妻の助力でスウェーデン国籍を取得した。

日本へ戻り、60代で大ブレーク
1993年に母・大月投網子が亡くなったのを機に1995年に日本に戻る。
母が残した下北沢の自宅に住み、母が留学時代に購入し、日本に持ち帰った「ブリュートナー社製」のピアノを弾きながら、同居する25匹の保護猫と暮らしていた。
1999年に放映されたNHKドキュメンタリーETV特集「フジコ――あるピアニストの軌跡――」により、彼女の音楽に対する世間の関心が高まる。デビューCD「ラ・カンパネラ」は200万枚以上を売り上げた。

フジコ・へミングは2001年6月にニューヨークの カーネギーホールで演奏した。
60代で大ブレークした。2013年に自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足。
フジコ・へミングは、90歳まで世界各地で演奏を続けた。そして聴力は左耳だけ、それも普通の人の30%しか聴こえない。

クリスチャンで菜食主義者。愛煙家だったが、89歳で禁煙した。愛猫家であり、動物愛好家でもあった。チャリティーコンサートを定期的に行い、ドイツには彼女の名前を冠した動物愛護団体があるという。演奏については「私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい」と豪語している。
フジコ・ヘミングは、運命に翻弄された数奇な生涯をピアノで表現した。その生き様と音楽で多くの人々を感動させる「魂のピアニスト」として広く知られている。
2024年4月21日に膵臓がんのため死去。92歳没
フジコ・ヘミング公式サイト