平松政次(大洋)
投手 | 球団 | 達成年 | 成績 |
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平松政次 | 大洋ホエールズ | 1970 | 25勝19敗 |
「カミソリシュート」「巨人キラー」の異名を取り、数々の記録を残した大洋のエース・平松政次。その中で1970年は、キャリア最高の成績を残した特別な年です。
52試合に登板し、そのうちなんと38試合に先発。中2〜3日で先発登板することがほとんどで、記録は25勝19敗。チームの3分の1以上の勝敗数を記録します。しかも、防御率は1.95でリーグ2位の好成績。その結果、この年は最多勝だけでなく、沢村賞、最優秀投手、ベストナインも受賞しました。実は、打撃も好調で、打者顔負けの4ホームランを記録しています。
チームごとの勝敗は次の通り。
巨人 7勝5敗
阪神 5勝4敗
広島 3勝5敗
中日 5勝3敗
ヤク 5勝2敗
広島以外はすべて勝ち越しで、しかもV9時代の巨人から7勝。巨人キラーの異名通りの活躍を見せました。
因みに、ライバルの阪神・江夏豊も37試合に登板し、21勝17敗、防御率2.13の好成績を残しています。

現役時代の平松政次
東尾修(太平洋クラブ)
投手 | 球団 | 達成年 | 成績 |
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東尾修 | 太平洋クラブライオンズ | 1975 | 23勝15敗7S |
西鉄から太平洋クラブに変わって3年目の1975年、大洋から移籍してきた江藤慎一が、選手兼任監督に就任します。江藤新監督の方針は、"個性重視"。その方針の下、選手がタイトルを獲得しやすいように、打順や登板の調整が図られます。その結果、東尾修の最多勝だけでなく、土井正博も本塁打王、白仁天も首位打者のタイトルを獲得しました。
中でも、東尾は、先発はもちろんのこと、勝てそうな試合にリリーフするなど徹底した調整で、勝ち星を積み上げていきます。特に、ペナントレース最後の3試合は、3連投ですべて勝ち星。その結果、23勝15敗の勝敗だけでなく、54試合登板、31試合先発、25試合完投、4試合完封、1281人打者、317 2/3投球回、287被安打、8敬遠、154奪三振、101失点もすべてリーグ最多となりました。防御率もリーグ3位、セーブ数もリーグ2位で、まさに超人的な活躍だったと言えるでしょう。

現役時代の東尾修
今井雄太郎(阪急)
投手 | 球団 | 達成年 | 成績 |
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今井雄太郎 | 阪急ブレーブス | 1981 | 19勝15敗 |
プロ野球の完全試合達成者と言えば、記憶に新しいところでは2022年、令和初の達成者、ロッテの佐々木朗希。その前は1994年、平成唯一の達成者、巨人の槙原寛己。そして、その前が1978年、昭和最後の達成者、今井雄太郎です。上田利治監督時代の阪急の主力投手として、足立光宏、山田久志、佐藤義則、稲葉光雄、山口高志らとともに活躍しました。
1981年は、ロッテの村田兆治と並び、リーグ最多の31試合に先発。19勝を挙げ、これまた村田と最多勝のタイトルを分け合いました。村田との違いは敗戦数、防御率で、村田が19勝8敗、防御率2.96に対し、今井は19勝15敗、防御率3.74でした。
しかし、今井は、その汚名を雪ぐかのように、1984年、21勝9敗で最多勝、防御率2.93で最優秀防御率のタイトルを獲得しています。

現役時代の今井雄太郎
遠藤一彦(横浜大洋)
投手 | 球団 | 達成年 | 成績 |
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遠藤一彦 | 横浜大洋ホエールズ | 1984 | 17勝17敗 |
遠藤一彦は、1983年、18勝9敗で最多勝のタイトルを獲得。翌1984年も2年連続で最多勝を獲得しますが、今度は17勝17敗で、最多敗のおまけ付きでした。この年、チームは最下位。チームの勝利のうち、4割近くは遠藤の勝ち星です。最終的には、リーグ最多の37試合に先発登板。その結果、1138人打者、276 2/3投球回、255被安打、39被本塁打、208奪三振、132失点、113自責点も、すべてリーグ最多を記録しました。因みに、防御率3.68はリーグ11位の記録です。
チームごとの勝敗は次の通り。
広島 4勝2敗
中日 3勝4敗
巨人 1勝4敗
阪神 2勝4敗
ヤク 7勝3敗
巨人とは相性が悪かったものの、優勝した広島やヤクルトには勝ち越しています。前年も、9敗のうち4敗が巨人でした。
遠藤は、1979年と1982年にも最多敗を記録しており、敗戦のイメージが強いですが、生涯成績は134勝128敗と6つ勝ち越しています。

現役時代の遠藤一彦
キップ・グロス(日本ハム)
投手 | 球団 | 達成年 | 成績 |
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キップ・グロス | 日本ハムファイターズ | 1995 | 16勝13敗 |
キップ・グロスは、1994年、シーズン途中にロサンゼルス・ドジャースから日本ハムに移籍。21試合に登板しますが、6勝12敗と結果は振るわずでした。
ところが、翌1995年、マイナー時代に親交のあったエリック・ヒルマンがチームメイトになり、彼からチェンジアップを教わります。すると、投球が大きく変わり、勝ち星が増えていきました。6月終わって5勝9敗でしたが、その後は11勝4敗。トータル16勝13敗で、最多勝のタイトルを獲得しました。
チームごとの勝敗は次の通り。
オリックス 0勝6敗
ロッテ 5勝1敗
西武 4勝3敗
ダイエー 3勝1敗
近鉄 4勝2敗
オリックスに滅法弱く、特にイチローが苦手で、通算4割近くの打率を残されています。翌年は、開幕後オリックス戦に2連敗すると、以降はオリックス戦を徹底して回避。その結果、17勝9敗で2年連続最多勝のタイトルを獲得しました。
元日ハム キップ・グロスが日本時代の思い出を語る | ベースボールスポット
松坂大輔(西武)
投手 | 球団 | 達成年 | 成績 |
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松坂大輔 | 西武ライオンズ | 2001 | 15勝15敗 |
1999年にデビューした平成の怪物、松坂大輔は、1999年に16勝5敗、2000年に14勝7敗で最多勝のタイトルを獲得。2001年も15勝15敗ながら3年連続最多勝を記録しました。前の2年と違うのは先発登板数で、前2年は24試合ずつだったのに対し、この年は32試合に先発登板しました。その結果、12試合完投、1004人打者、240 1/3投球回、27被本塁打、117与四球、214奪三振、104失点、96自責点は、すべてリーグ最多を記録しています。
近鉄とは相性が悪く、この年1勝5敗。特に、9月24日の近鉄戦は、タフィ・ローズに日本プロ野球タイ記録となる55号本塁打、9回裏に中村紀洋にサヨナラ2ランホームランを打たれ、屈辱の敗北を喫します。近鉄の勢いを止めることができず、優勝を許す結果となりました。
日本のプロ野球での最多勝は、この年が最後です。その後、2003〜2004年は最優秀防御率のタイトルを獲得。2007年に、ボストン・レッドソックスに移籍しました。

ニューヨーク・メッツ時代の松坂大輔