池田高校野球部の軌跡
まずは「さわやかイレブン」「やまびこ打線」と謳われ、甲子園で旋風を巻き起こした池田高校の軌跡についてご紹介します。
校名:徳島県立池田高等学校
所在地:徳島県三好市池田町
創立:徳島県立池田中学校として1922年に創立
校名改称:1956年に現在と同じ徳島県立池田高等学校に改名
甲子園での活躍:1971年夏の第53回全国選手権に初出場を果たします。
1974年春の選抜では、「さわやかイレブン」と呼ばれたわずか11人の部員で準優勝しました。
その後、1979年夏の第61回全国選手権でも準優勝します。
そしてとうとう1982年の第64回全国選手権で初優勝を果たしました。
翌1983年の第55回春の選抜も優勝し、春夏連覇を達成しています!
1983年の第64回全国選手権では、1年生で出場した桑田真澄さんと清原和博さんを含むPL学園に準決勝で破れてしまいました。
ただし3年後の1986年第67回全国選手権で、再び優勝に返り咲いています。
高校野球史に優勝3回、準優勝2回という輝かしい軌跡を残した池田高校です。
蔦文也監督
池田高校の知名度を全国的に上げたのは、なんといっても「攻めダルマ」と称された、名将蔦文也監督の功績が大きいです。
そんな蔦監督についてご紹介します。
生没年:1923年8月28日~2001年4月28日
出身地:徳島県徳島市
身長:170センチ
体重:68キロ
学歴:徳島県立徳島商業卒業後、同志社大学卒業。
徳島商業高校入学時には、テニス部に所属しますが2年時に野球部に転部します。
1939年春の選抜には1塁手として、1940年の春夏には投手として甲子園に出場しました。
最初テニス部に入ったとは驚きましたが、2年生から野球部に転部してすぐレギュラーを掴むとは、選手としても一流ですよね。
同志社大学野球部でも黄金時代を築きますが、そのころ日本は太平洋戦争という暗い時代に入っていました。
蔦監督も学徒出陣で出征し、その後海軍の特攻隊員となっています。
ただ出撃前に終戦を迎えたため、その後ノンプロチーム「全徳島」に加入し大活躍することが出来ました。
1952年に、池田高校野球部監督に就任しましたが、当時は戦後の物不足の影響もあり、ボールが3個とバットも2本しかなかったほどの粗末な環境でした。
そんな困難な状況の中始動しましたが、長い間母校・徳島商業に阻まれ、念願である甲子園出場が叶わなかったのです。
そしてとうとう1971年に、甲子園初出場を果たしたのです!
その後1980年頃からは、芯を外しても筋力があれば長打にすることが出来る、金属バットの特性を最大限に生かすため筋力トレーニングを積極的に行いました。
「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で以後の高校野球のスタイルをも変えてしまったのです。
蔦監督率いる池田高校の野球は、鋭い打球が自慢で対戦相手を次々にねじ伏せていきました。
その攻撃力から、蔦監督自身も「攻めダルマ」という愛称で呼ばれたのです。
攻撃は最大の防御なりと言いますが、攻撃力で池田高校を頂点に君臨させた蔦監督でした。
名将・蔦監督は就任40年目にあたる、1992年3月18日に勇退を表明します。
同年6月には、池田町名誉町民第1号に選出。
そして2001年4月28日、肺がんのため逝去します。
享年77歳。
蔦文也監督は没後20年を超えましたが、孫の哲一朗さんは映画監督として活躍していました。
分野は違いますが、お孫さんも蔦監督と呼ばれているのですね。
池田高校出身の有名人
1983年に読売ジャイアンツから1位指名を受けた、水野雄仁さんは池田高校野球部出身です。
1983年の春夏の甲子園に投手として出場し、池田高校の春の優勝、夏のベスト4に貢献しました。
春の選抜準々決勝では、甘いルックスで「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした早稲田実業の荒木大輔投手を破っています!
ちなみに愛称は、阿波の金太郎でした。
2019年からは巨人の一軍投手コーチに就任し、現在はスカウト部長として活躍しています。

上の画像は現在もコーチとして野球解説者として日本野球界に貢献している、池田高校のライバルだった荒木大輔さん。
まとめ
今回は「やまびこ打線で旋風を巻き起こした池田高校野球部!攻めダルマの異名をとった蔦監督!」についてご紹介しました。
没後20年を超えましたが、攻めダルマと呼ばれた名将の活躍は今も人々の心に残り続けていますよね。