【後楽園球場】 ミスタータイガースが覚醒

1978年7月25日に行われたオールスターゲームにおいて、オールスターでは史上初の3打席連続ホームランが生まれます。後楽園球場は阪神タイガースにとって伝統の一戦の敵地となる球場ですが、ミスタータイガース掛布雅之がその後楽園球場で揺るがぬ地位を確立した試合となりました。順調にホームラン王への階段を上がり始めていた矢先のオールスターゲームだったのです。そしてその試合で掛布は、史上初の偉業を達成したのでした。
偉業の皮切りになったのが4回。日本ハムファイターズ佐伯和司投手から、オールスターゲーム初本塁打を放ちます。続く5回、阪急ブレーブスの佐藤義則からライトスタンド上段に叩き込みます。そして迎えた8回の打席、マウンドには全パの豪速球投手阪急ブレーブスの山口高志が立ちはだかっていました。山口投手が投げた2球目を見事に捉え、打球はライトスタンドへ突き刺さったのでした。
この年掛布は、自身初の30本塁打を記録しホームランバッターとして覚醒が始まったのです。翌年は48本塁打で初の本塁打王のタイトルを獲得。その後、球界を代表するホームランバッターにのぼりつめていきました。
【大阪球場】 江夏の21球

1979年の日本シリーズ、この年は広島東洋カープが近鉄バファローズ(現オリックスバッファローズ)を4勝3敗で破り日本一になりました。さて、このシリーズで大勝負となった第7戦の9回裏、「江夏の21球」として現在では伝説になっています。この試合は近鉄バファローズの主催ゲームですので、当時近鉄の本拠地だったのが日生球場と藤井寺球場、の「江夏の21球」はどちらの球場だったのか覚えていますか?
正解は、どちらでもありません。大阪球場で行われたのですが、なぜ大阪球場?と思う方も多いでしょう。この時大阪球場は、南海ホークス(現ダイエーホークス)のホームグランドでした。当時近鉄が経営していた藤井寺球場では、周辺住民との同意が得られずにナイター用の照明設備が使用できず、土日祝は藤井寺球場でデーゲーム、平日のナイターは日生球場で行っていたのです。しかし日生球場は収容人数が2万人ほどでしたので、日本シリーズは南海の本拠地である大阪球場を使用することになったのです。
13時に始まった日本シリーズ第7戦は、「江夏の21球」が起きた9回裏では16時を過ぎていました。更に雨模様な上に11月ということで球場はすでに薄暗く、照明をつけて行われたのです。もし藤井寺球場だったなら、日没となり「江夏の21球」はなかったかもしれませんね。結局近鉄バファローズは主催ゲームでありながら、本拠地でなかったが故にホームの恩恵もなく、最後に敗れてしまったようです。ちなみに翌80年もリーグ連覇を果たした近鉄は、同じ理由で日本シリーズは大阪球場を使用しました。これが本拠地以外で行われた最後の日本シリーズだったのです。
【広島市民球場】 クモ男出現

今から30年以上も前の1990年5月12日の夜、当時の広島市民球場に「クモ男」が出現しました。この事件が起きたのは広島対巨人戦の試合中のこと、バックネットをあっという間によじ登っていった男は、巨人批判の垂れ幕などを垂らした後に発煙筒を投げ、試合を中断させたのです。すぐに男は逮捕されましたが、NHKで全国放送中だったこともあり大きな話題となりました。
通称クモ男と呼ばれた犯人は、その後TBS系の番組に出演し、クモ男のその後の生活を明らかにしています。事件で中断された試合は全国中継されていたので、事件後は週刊誌からのバッシングに、野球ファンからの嫌がらせが後を絶たず、会社も辞めることになり、娘さんも学生でいじめを受けたそうです。
そして同番組では、事件があった試合において広島の先発だった川口投手が対面をしたクモ男に、試合を汚された怒りをぶつけました。試合に出ていた選手を代表して来たとして、あなたは決してヒーローではないと一喝しました。事件後、名刺にクモ男と入れるなど反省する姿が見られないことから怒りをあらわにしたのです。川口氏の言葉にクモ男は、涙ながらに「申し訳ない」と頭を下げ、クモ男の気持ちが川口氏にも伝わったのか、2人は握手をして和解しました。しかしクモ男は、今日はいい日だった。川口さんに会えたからと懲りない様子だったそうです。