全球団勝利を達成した投手はわずか3人
セ・パ交流戦がなかった頃、公式戦でセ・パ全12球団から勝利を挙げるのは至難の技でした。交流戦があれば最低2球団に所属すれば達成できる記録ですが、交流戦がないと少なくともセ・パ各2球団(計4球団)に所属しないと達成できません。5球団を渡り歩いた大投手、あの江夏豊でさえも達成できなかった大記録。12球団になった1958年から交流戦が始まる前年の2004年までで、全球団勝利を達成した投手は以下の3人です。
野村収(1983年に達成)
古賀正明(1983年に達成)
武田一浩(2002年に達成)
中でも、古賀はわずか8シーズン目、37勝で達成。しかも、達成した翌年には、生涯成績9シーズン38勝で短い現役生活を終えています。
古賀の全12球団初勝利の記録を、時系列で見てみましょう。
1976年5月26日 南海ホークス
古賀は、プロ入り前は、日大三高、法政大学の野球部に所属。1972年に丸善石油に入社し、都市対抗野球で活躍します。1974年に阪神タイガースからドラフト1位指名を受けますが、条件が合わず見送り。そして、1975年11月のドラフトで、太平洋クラブライオンズから1位指名を受け、プロ入りを果たします。
当時の太平洋は台所事情が苦しく、古賀は即戦力で一軍入り。初登板は1976年4月5日の南海戦で、9回に2/3回を投げ、無失点の好投を見せます。その後は、リリーフ登板しても悉く失点を浴びるものの、5月5日の阪急戦では、先発初登板で延長10回1失点の好投。引き分けで勝敗はつかなかったものの、徐々に結果を残していきます。
そして、迎えた5月26日南海戦。先発登板で見事零封し、ついにプロ入り初勝利、初完投勝利、初完封勝利を同時に達成しました。
1976年7月3日 阪急ブレーブス
初勝利後は、先発ローテーションの一員を任され、6月25日の南海戦では再び完投で2勝目を挙げます。
前期は最下位に終わり、迎えた後期2試合目の7月3日、阪急戦。この日も先発で登板し、エース足立光宏と投げ合う投手戦となります。両者完投を果たしますが、勝ったのは古賀。見事1安打1失点で、阪急から初勝利を挙げました。先発として結果を残し、徐々に主力投手としての地位を確立していきます。
1976年8月12日 日本ハムファイターズ
その後、チームは前期同様、下降線をたどる一方。古賀もなかなか勝利を挙げられず、7月終わって4勝9敗と散々でした。
8月12日の日本ハム戦は、なんと先発の玉井信博を7回からリリーフ。2対2の同点のまま、9回が終わっても決着つかず、延長戦に入ります。相手ピッチャーは、奇しくも6回からロングリリーフした野村収。のちの全球団勝利の第一号投手です。結果は、13回表、太平洋が野村を攻略して2点勝ち越して勝利。古賀はロングリリーフで7回を投げ、日本ハム戦初勝利を挙げました。
1976年9月15日 ロッテオリオンズ
ロッテは、ここまで3連敗と最も相性の悪いチーム。しかし、9月15日のロッテ戦は先発で起用されます。相手は、マサカリ投法のエース村田兆治。結果は、太平洋打線が村田をノックアウトし、古賀は、見事二度目の完封勝利を挙げました。
プロ1年目は、近鉄バファローズを除く4球団から勝利を挙げ、1976年のシーズンを終了します。個人成績は11勝13敗1S 防御率3.10と新人賞にも値する結果でしたが、チームは前期・後期ともに最下位。翌年、クラウンライターライオンズにチーム名が変わります。

太平洋クラブライオンズ 古賀正明投手
1979年9月5日 近鉄バファローズ
クラウンライターの1977〜1978年は、初年度ほどの成績は挙げられず、特に近鉄相手には入団以来0勝7敗と散々でした。西武ライオンズに変わる前年、多くのトレードが敢行され、古賀は倉持明とともにロッテオリオンズに移籍します。
ロッテでは、主にリリーフとして活躍。9月5日の近鉄戦では、6回からリリーフし、最終回まで無失点の好投を見せます。最後はロッテが勝ち越し、ずっと勝てなかった近鉄からついに初勝利を挙げました。
1979年10月11日 西武ライオンズ
そして、10月11日には、古巣ライオンズ戦に初先発します。優勝争いから外れた2チームの消化試合でしたが、古賀は見事完投勝利。古巣への恩返しを果たします。
これで、パ・リーグ全6球団から勝利!
結局、移籍1年目は、4勝3敗2S、防御率2.48と好成績でシーズンを終えました。しかし、ロッテとの契約はこの1年で終了。今度は、小川清一とともに、セ・リーグの読売ジャイアンツに移籍します。
1980年5月11日 大洋ホエールズ
巨人では、先発、中継ぎ、抑えとフルに活躍。特に、前半戦は抑えで大活躍し、5月9日には、先発江川の後の3回を零封。巨人で初セーブを挙げます。5月11日の大洋戦では、味方が勝ち越した8回から登板。2回を無失点に抑え、見事大洋戦初勝利を挙げました。ここまでの防御率は、なんと1.80。移籍早々好調を続けます。
1980年6月12日 広島東洋カープ
6月12日の広島戦は、江川が早々にノックアウト。その後を鹿取が投げ、1点ビハインドの8回から古賀がリリーフします。土壇場で巨人が同点に追いつき、試合は延長戦へ。相手投手は抑えの切り札、江夏豊です。古賀が10回表まで無失点に抑えるとその裏、ホワイトがサヨナラホームラン!古賀が抑え対決を制し、見事広島戦初勝利を挙げました。ここまで2勝2S、防御率1.17と絶好調です。
1980年8月15日 中日ドラゴンズ
ところが、7月以降はリリーフに失敗するようになり、負けが続きます。そして、8月からは先発主体に転向。8月15日の中日戦も先発で登板します。3回に3点を許しますが、味方打線の援護もあり、その後は抑え切って完投。中日戦初勝利を収めました。
1980年10月1日 ヤクルトスワローズ
10月1日のヤクルト戦も先発で登板。味方が2回までに5点を挙げ、自身は5回3失点で勝ち投手の権利を持ったまま降板します。最後は、鹿取、角の黄金リレーで、見事ヤクルト戦初勝利を挙げました。
セ・リーグ1年目は、阪神タイガースを除く4球団から勝利を挙げ、1980年のシーズンを終了します。しかし、巨人との契約も1年で終了。再びトレードで、今度は横浜大洋ホエールズに移籍します。
古賀 正明(横浜大洋ホエールズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構
1981年5月29日 阪神タイガース
大洋でも、先発、中継ぎ、抑えとフルに活躍。5月29日の阪神戦では、1点ビハインドの8回から登板しますが、9回表に追加点を許してしまいます。ところがその裏、味方打線が爆発。3点を取ってサヨナラ勝ちを収めました。前年勝てなかった阪神から見事初勝利です。
全球団勝利まであと1球団となりました。
1983年10月4日 読売ジャイアンツ
大洋に移籍して3年目の1983年10月4日。この日は、巨人戦に先発登板し、6回まで0点に抑える好投を見せます。7回に点を許しますが、勝ち投手の権利を持ったまま降板。最後は斉藤明夫が抑え、見事巨人戦初勝利を挙げました。
これでついに、セ・パ全12球団から勝利!
8シーズン目の37勝目での達成は、超省エネ記録です。同じ年の5月15日に野村収が達成しており、史上二人目の快挙となりました。
古賀本人はこの快挙を「流れ者の勲章」と称しています。
富士大学野球部コーチとして活躍する古賀正明