タモリ プロフィール
タモリ - Wikipedia
福岡県福岡市に生まれた”タモリ”さん、ご本人曰く「子供の頃から大人びていた」そうです。
幼稚園入園のため見学に行った幼稚園で園児達がお遊戯している姿を見て「自分にはできない」と入園を拒否(笑)
小学校入学まで毎日、一日中坂道に立って人間観察をしていたとか・・・ホント!大人びているというか可愛げがないというかW
そして、毎日坂道を見ているうちに坂道好きになった”タモリ”さんは、2000年「坂道学会」を設立。あくまでも、坂道を愛好・研究する「自称」の学会ですが。
こう言った子供の頃からの他とは違う視点が、”タモリ”さんの中に脈々と流れているのですね。
小学生時代を振り返り「学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった。」(タモリさん談)
暇つぶしだったこれらの事すべてが、ヨットレースを開催したり料理がお得意だったり・・・と今に繋がっています。
「福岡県立筑紫丘高等学校」に入学した”タモリ”さんは、剣道部と吹奏楽部(トランペット担当)に入部。船の無線通信士に憧れアマチュア無線クラブにも所属していたそうです。その上、居合道場にも通い二段を取得されています。
この頃の”タモリ”さんの興味は果てしなかったのですね。
その中で一番「無線」に興味を惹かれたのでしょう。「電気通信大学」を目指した”タモリ”さんですが、受験に失敗し1年間の浪人生活を送った後 1965年に「早稲田大学第二文学部西洋哲学専修」へ入学。(大学2年次に仕送りされた学費を使い込み、授業料が払えなくなった為 学費未納で抹籍処分)
早稲田大学時代は、モダン・ジャズ研究会に在籍しトランペットを担当。やはりジャズもずっと”タモリ”さんの中にありますね。
大学を抹籍処分になった後もモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続け、かなりの収入を得ていた”タモリ”さんですが、祖母が亡くなったのをきっかけに叔父さんに福岡へ連れ戻されてしまいます。
きっと”タモリ”さんは東京に残りたかったのでしょうが、福岡へ戻った事でタモさん自身が”タモリ”を作った人と認める師匠との出会いに繋がっていきます。
赤塚不二夫氏との出会い
福岡へ連れ戻された”タモリ”さんは、半ば強制的に朝日生命の営業マンとして3年近く勤務し2歳年上の先輩社員だった現在の奥様と結婚されました。
”タモリ”さんご自身は「ベラベラしゃべるから信用されずダメだった。」と営業マン時代を語っておられましたが、いやいや中々に優秀な営業マンだったとの話です。
その後 旅行会社に転職し、系列の大分県日田市のボウリング場支配人に転属するもボーリングブームが去ると、喫茶店のマスター、ガードマンなど職を転々とされていたようです。
1972年 博多で”渡辺貞夫”さんのコンサートが開かれた際、コンサートスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、その友人が泊まっていたホテルを訪ねホテルで飲みながら話し込んでいたそうです。帰ろうと深夜に廊下を歩いていると、ドンチャン騒ぎをしている部屋があり何と!”タモリ”さんは乱入。この時 部屋に居たのはコンサートに同行していた「山下洋輔トリオ」の”山下洋輔”さん”中村誠一”さん”森山威男”さんだったのですが、すっかり意気投合して始発が出る時間までインチキ外国語の応酬などで盛り上がり騒いだそうです。
帰り際は「森田です。」とだけ名乗り去っていった”タモリ”さんに「ジャズの匂い」を感じた”山下洋輔”さんは、福岡市内のジャズバーに「モリタという名前の男を知らないか」と片っ端から問い合わせ探し当てたのです。
その後は遊び仲間となり「山下トリオ」が九州へいく際は遊んでいた”タモリ”さんですが、山下さんが行きつけのバーの常連仲間で「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、会のカンパによって上京。
そこからは、月1回は上京して即興芸を披露するという福岡と東京の二重生活になると、「伝説の九州の男・森田」の噂が”赤塚不二夫”氏の耳に届き、運命の出会いを果たします。
「芸をもっと見たい。福岡に帰したくない」と考えた赤塚さんは必死だったのでしょう、普通では考えられないような提案をして”タモリ”さんの引きとめ作戦に成功しました。
・赤塚さんが住んでいた4LDKのマンションとベンツを自由に使っても良い。
・お小遣いとして月20~30万円支給
自分の住まいを”タモリ”さんに差し出した赤塚さんは、仕事場のロッカーを倒しそれに布団を敷いて寝場所を確保する生活を続けていたそうですが、その事情を知った後も”タモリ”さんは遠慮する事なく、赤塚さんのマンションに一人で住み続けたそうです。
当時の”タモリ”さんの居候の秘訣は「卑屈になるな」(笑)
そうして新宿ゴールデン街で赤塚さんや山下さんらと馬鹿騒ぎしながらネタを作る日々を送る中、「タモリを芸能界入りさせる!」という目標を叶えるべく「オフィス・ゴスミダ」なる事務所が立ち上げられました。
この辺りで福岡から奥様が呼び寄せられたようです。
「戦後最大の素人芸人」というキャッチフレーズの元 アイパッチ姿をトレードマークとするなど徐々にキャラクターが作り込まれていったのですが、その独特な芸風から中々 所属事務所が決まらず、放送作家の”高平哲郎”氏の紹介で大手芸能プロダクション「田辺エージェンシー」に所属が決まります。
”タモリ”さんは芸能界入りする時に自らルールを決められていました。(タモさんらしいですね。)
1.誰の弟子にもならない
2.組織には属さない
3.頭をなるべくさげずにカネをもうける
4.色紙にサインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
1976年「空飛ぶモンティ・パイソン」で正式にメディアデビュー
正式なメディアデビューを果たすと、バラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にもレギュラー出演。
デビュー当時のタモさんは、「イグアナの形態模写」に代表される体芸(密室芸とも呼ばれます。)、反知性を打ち出した「中洲産業大学教授」、デタラメ言語「ハナモゲラ」などで他の芸人さんとは一線を画していて、特に「イグアナ」は気持ち悪がられていました。
密室芸というのは「外で公開できない芸」のことです。
上京した当初の”タモリ”さんは、持ちネタが「北京放送」や「形態模写」くらいしかなかったのですが、仲間うちで芸を披露する際の無茶ぶりに答えるうち「密室芸」が確立されていきます。
大爆笑ものなのですがテレビ的にはNGが多く、テレビで放送する際は差し障りのないように表現を緩やかにされていたそうです。
そして、この「密室芸」が”黒柳徹子”さんの目にとまります。
<徹子の部屋>に出演「黒柳さんは恩人」
この時に披露した”タモリ”さんの「密室芸」が黒柳さんを虜にし?(笑)翌年からは年末最後のゲスト出演が恒例となりました。
2020年9月22日放送の「プロフェッショナル 仕事の流儀」は黒柳徹子”さんの密着取材だったのですが、その中で黒柳さんと親交が深い”タモリ”さんがインタビューを受けられ黒柳さんに感謝の言葉を述べられています。
大胆というか、あんな正攻法な方でありながら、僕みたいな異端の異端の人間を即座に出してくれるっていうのは…。だからあれはインパクトが世間に大きかったですよね。恩人なんですね。
1981年~今夜は最高!
今夜は最高! - Wikipedia
”タモリ”さんは、1980年代に入ると「密室芸」を徐々に封印し司会業へ進出。
「今夜は最高!」は自身2つ目となる冠番組で、夜の番組の芸人というイメージながらインテリ芸人の部分も持ち合わせファン層を拡大していきます。
「今夜は最高!」 深夜番組なのに豪華でした。それ以上にタモさんの醸し出す雰囲気が番組のクオリティを上げていたように感じます。
ゲストが歌うコーナーがあり歌い終えたゲストの「ところで○○さん、今のご気分は?」を受けて、ゲストが「今夜は最高!」と答えるのが定番でしたね。
1982年~森田一義アワー 笑っていいとも!
ご紹介するまでもなく、お昼の顔として31年半続いた”タモリ”さん司会の番組です。
当時フジテレビのプロデューサーだった故”横澤彪”氏が、夜の顔だった”タモリ”さんを昼の帯番組に起用するという発案が当たり、放送開始時こそ低迷したものの「25年連続同時間帯視聴率首位記録」を獲得しています。
基本的に、オープニング → 日替わりコーナー① → テレフォンショッキング → 日替わりコーナー② → 日替わりコーナー③ → 曜日対抗いいともCUP → エンディングという構成になっていてましたが、「 テレフォンショッキング 」のコーナーでは芸能人の交友関係を知るのが楽しみでしたし、「安産祈願」も覚えてますか?
タモさんはよく妊婦さんのゲストが来ると「安産祈願」と称してご祈祷し「安産マーク」(であるとタモさんが主張・・・笑)を授けて?(笑)いましたね。
実際 何が描かれていたかはお察し頂くとして、このコーナーに故”横山やすし”さんが来られた時に
タモリさんが描いた「安産マーク」を「お前何書いてるんや!」と奪ってそのままカメラに向けて突き出したという放送事故がありました。
あれもこれも懐かしい~!
この番組で”タモリ”さんは昼の顔となり、老若男女から親しまれる存在となりました。
「いいとも」が終了した時は、「いいともロス」や「タモロス」になる人が続出しましたね。
【いいとも!超特大号】タモリ、最後のあいさつ全文 視聴者に強く感謝 | ORICON NEWS
1982年~タモリ倶楽部
お昼の顔として登場した「笑っていいとも」の放送開始から、何と5日後に始まった「タモリ倶楽部」こちらも30年以上続く長寿番組になり、現在”タモリ”さんの代表的な番組になっています。
この 昼夜同時期放送開始については、タモさんが所属する「田辺エージェンシー」社長の後押しがあったと言われています。
田邊社長はタモさんのシュールな芸風がお気に入りで、昼の顔となったタモさんの才能が薄れていく事を危惧し、”タモリ”さんの才能を守るために「タモリ倶楽部」を企画したという事です。
大正解ですね!(笑)
適当にゆる~くタモさんが好きな事をして遊んでいる感じの番組になっていますが、そこは知性がある”タモリ”さんですから、ダラダラした感じはなく視聴者を魅了しています。
タモさんが楽しそうなのが、観ていて嬉しくなります♪
1987年~「ミュージックステーション」のメイン司会
「笑っていいとも」で司会の腕を磨きお昼の顔として親しまれるようになった”タモリ”さんは、1983年には「第34回NHK紅白歌合戦」の総合司会に抜擢されます。
NHKのアナウンサー以外の人物が総合司会を務めるのは史上初の快挙であり、この時の”タモリ”さんはまだキャリア8年。
そして、1987年 4月から音楽番組「ミュージックステーション」の2代目メイン司会者に就任。
「Mステ」の2代目司会者への就任を打診された時、タモさんは「タモリ倶楽部があるし、私じゃなくてもいいんじゃないですか」 と答えられたそうです。
ゴールデンタイムの番組へのお誘いなのに、何と欲のない方です。
音楽番組の司会なので、メインは出演アーティスト。
”タモリ”さんの出過ぎず冷た過ぎず程よい距離感でのアーティストとのトークは観ていて安心感があります。
元来「ジャズマン」のタモさんですから、アイドル達も出演する音楽番組には戸惑いもあったそうですが、どんなジャンルのアーティストとも馴染んでトークされていますね。
2008年~ブラタモリ
”タモリ”さんと女子アナが地方に行ってその土地を巡る「ブラタモリ」
こちらも「タモリ倶楽部」同様にタモさんが楽しめる番組ですね。
自分では行ったことのない街や歴史が知れて、タモさんのユニークな視点での掘り下げにいつも興味津々です。
そして「ブラタモリ」は研究者の方達にもファンが多いようです。
『ブラタモリ』を学者たちが「奇跡の番組」と絶賛する理由(尾方 隆幸) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
それで、タモリとは?
「ああいうタイプの人というのは、過去だれかいましたか。いたでしょうかね。ああいうの。いや、お笑いタレントというのでもない。『芸人』という感じでもないね。なんだろうね、あれは」 (作家・吉行淳之介氏談)
”タモリ”さんのお仕事やエピソードを振り返り感じた事は・・・
人生で無駄な経験はない。
好きこそ物の上手なれ。
気負わず自然体で生きればいい。
常識的だから常識を破った時に面白い。
何だか楽しそう。
タモさんから学ぶ事は多いのですが、「タモリとは?」一言では語れないですね!
最後までおつき合い頂きありがとうございました。