「土曜20時戦争」と呼ばれた、昭和のテレビ番組の視聴率争い!!
皆さんは「土曜20時戦争(または、土8戦争)」という言葉をご存じでしょうか?これは、1969年から1985年にかけてTBS系列で土曜20時から放送された「8時だョ!全員集合」と、他局の裏番組の数々が繰り広げた視聴率争いのことであり、他局のほぼ全ての番組が、最高視聴率50.5%・平均視聴率27.3%というお化け番組であった「全員集合」の前に敗れ去っています。この記事では、「土曜20時戦争」時代に放送されていた「全員集合」の裏番組について、いくつかピックアップしてご紹介したいと思います。

欽ちゃんのドンとやってみよう!(フジテレビ)
1975年から1980年にかけて、フジテレビ系列で土曜19時30分から放送されていた「欽ちゃんのドンとやってみよう!」。ラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう!」のヒットを受けてテレビ番組化されたもので、視聴者からのハガキ投稿や、萩本欽一のアドリブなどで視聴者を大いに沸かせました。

当時大人気だった「コント55号」の萩本の冠番組だけあって、「全員集合」の裏であったものの初回放送時の視聴率は17.1%を記録。「全員集合」を脅かす存在となったものの、志村けんが「東村山音頭」などをヒットさせたことで一気に差をつけられ、基本的には「全員集合」の後塵を拝すこととなりました。なお、1981年には同番組の第2シリーズとして「欽ドン!良い子悪い子普通の子」が放送開始となりましたが、こちらは月曜21時からの放送と「全員集合」とのバッティングを避けています。

土曜グランドスペシャル(フジテレビ)
1978年から1979年にかけて、フジテレビ系列で土曜19時30分から放送されていた「土曜グランドスペシャル」。「欽ドン!」の放送が一時中断していたときの代替番組という位置付けであり、女子プロ野球チーム「ニューヤンキース」が結成され、彼女たちと芸能人チームの試合を放送するなどしていました。テーマソング「ザ・ベースボール」も制作され、チームはアイドル的な人気を誇っていましたが、「全員集合」には及びませんでした。

ピーマン白書(フジテレビ)
1980年にフジテレビ系列で土曜20時から放送された「ピーマン白書」。校長に「小学校からやり直せ」と言われた中学校の生徒たちが、それを真に受けて自分たちを受け入れてくれる小学校を探しに行くというユニークなストーリーでした。当時の「金八先生」ブームの二匹目のどじょうを狙った作品と思われますが、第2回放送時点で早くも視聴率2%台という惨敗となり、わずか6回で放送が打ち切りとなりました。
全日本プロレス中継(日本テレビ)
1972年から2000年まで日本テレビ系列で放送されていた「全日本プロレス中継」。1972年から1979年にかけては、土曜20時からの放送でした。「全員集合」「欽ドン」の裏ということもあり、視聴率は基本的に一桁で低迷。1973年のアントン・ヘーシンクのデビュー戦や、1977年の世界オープンタッグ選手権の優勝決定戦など高視聴率をマークする回はあったものの、1979年4月の番組改変で土曜17時30分の枠に移動することとなりました。
人造人間キカイダー(テレビ朝日)
1972年から1973年にかけてテレビ朝日系列で土曜20時から放送されていた「人造人間キカイダー」。「仮面ライダー」をはじめとした当時の変身ブームの流れに乗って制作された特撮番組であり、「全員集合」などとは一線を画した子供向けに特化した番組を放送することで、他局との差別化を図る戦略を取りました。この戦略は一定の成果を得ることが出来、1973年から1974年には同じ枠で「キカイダー01」が放送されています。

キューティーハニー(テレビ朝日)
1973年から1974年にかけて、テレビ朝日系列で土曜20時30分から放送されていた「キューティーハニー」。前述の「キカイダー」の後に放送されており、こちらの放送枠も子供向けに特化する戦略をとっていました。「キューティーハニー」以外にも、1972年から1973年にかけて「デビルマン」が放送されるなどしています。

暴れん坊将軍(テレビ朝日)
1978年から2002年にかけてテレビ朝日系列で放送された「暴れん坊将軍」。当初は土曜20時から放送されていました。子供向けに特化したアニメ・特撮で一定の成果を上げていたテレビ朝日でしたが、次第に「全員集合」から子供の視聴者を奪うことが出来なくなり、ファミリー向けの時代劇に転換を図ることを決定。「将軍・徳川吉宗が江戸市中で大立ち回りを演じる」という斬新な設定の「暴れん坊将軍」が誕生しました。スタート時の視聴率は一桁だったものの、次第に人気を獲得し翌1979年には視聴率15%を超える成績を残しています。

お笑いオンステージ(NHK総合)
1972年から1982年にかけてNHK総合で放送されていた「お笑いオンステージ」。三波伸介、中村メイコが司会を務めたスタジオ公開型バラエティで、当初は土曜20時からの放送でしたが「お笑い」というテーマが重なる「全員集合」には勝てず、1973年には日曜19時20分からの放送に移動を余儀なくされています。

刑事コロンボ(NHK総合)
1972年から1979年にかけてNHK総合で放送されていた海外ドラマ「刑事コロンボ」。1974年から「全員集合」と被る時間帯に不定期で放送するようになり、「うちのカミさんがね」の名台詞は昭和の海外ドラマを象徴する台詞となりました。「全員集合」とは全く趣向の異なる作品であり、視聴者層が被らなかったためか大ヒットを記録しています。

国際プロレスアワー(東京12チャンネル)
東京12チャンネルで放送されていたプロレス中継番組「プロレスアワー」。1980年から1981年にかけて、「国際プロレスアワー」のタイトルで土曜20時から放送されていました。第2次ダイナマイト・シリーズを放送するなどしていましたが、視聴率は前述の「ピーマン白書」と最下位争いを繰り広げるほどの低調ぶりであり、この枠での放送は20回で打ち切りに。これが引き金となり、国際プロレスは崩壊へと向かっていくこととなりました。
全員集合の独り勝ちを止めた「オレたちひょうきん族」
今回ご紹介した番組以外にも、多数の番組が「土曜20時枠」に挑戦しては散っていく結果となりました。そんな「全員集合」一強状態に変化が訪れたのは1981年のこと。それはフジテレビ系列で同年10月から放送が開始された「オレたちひょうきん族」の存在です。

ビートたけし、明石家さんまなど、人気のお笑い芸人が多数出演した「オレたちひょうきん族」。当初は「全員集合」の視聴率には遠く及ばなかったものの、ドリフメンバーのギャンブル関連の不祥事や、志村けんの人形の首をギロチンで落として抗議が殺到した「ギロチン事件」といった「全員集合」側のマイナス要素が重なり、徐々に人気を獲得。1984年には、ついに視聴率で「全員集合」を上回ることとなりました。その後、「全員集合」が「ひょうきん族」の後塵を拝する状況が続いた1985年10月、「全員集合」は番組改編を機にその歴史に幕を下ろすこととなったのです。

「全員集合」終了後のTBSですが、翌1986年に「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の放送を開始。徐々に人気を獲得する一方で、同年12月に発生したフライデー襲撃事件の影響からビートたけしが「ひょうきん族」を降板するといった不祥事があり、「加トケン」が「ひょうきん族」に打ち勝つ形で「ひょうきん族」は1989年に放送終了となりました。
このたびご紹介した、昭和の「土曜8時」をめぐる一連の視聴率戦争。まだテレビに元気があった時代の出来事であり、インターネット全盛の現代においては隔世の感があります。再び同様の競争がテレビ業界で発生することがあるのでしょうか?注目しておきたいところです!
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