2000年4月26日、緑派が護国寺で大山倍達の7回忌を行った。
2000年5月、メインイベントをヒクソン・グレイシー vs 船木誠勝とする格闘技イベント「コロシアム2000」(テレビ東京主催)が開催され、その中で、緑派所属の鈴木国博とルシアーノ・バジレ(ブラジル)のワンマッチが行われた。
2000年8月、長谷川一幸が地元の2001年度版のタウンページに自分の道場の広告を出そうとすると
「商標権者(松井章圭)の申請により掲載できない
とNTTに断られた。
長谷川一幸は
「自分はどうしても松井が許せない。
1人でも裁判をやるつもりだ。
費用は名古屋に持っているビルを売ってでも捻出する」
と大阪地方裁判所に「商標権による妨害禁止の仮処分」を申請。
「松井を含め大山倍達の弟子には極真の名称を使用する権利がある」
と主張した。
2000年9月、松井章圭は、1994年に法人登記した「(有)極真」を「(株)国際空手道連盟極真会館」に変更。
取締役は、郷田勇三と盧山初雄だった。
大山倍達は遺言書で極真会館の財団法人化を望んでいた。
社団法人は、共通の目的をもつ「人々」の集合体。
財団法人は、共通の目的をもつ「お金」の集合体。
実際は社団法人も財団法人も、社会貢献を目的になにか事業を行っているので大差はない。
財団は、トヨタ財団や三菱財団などというように実業家や企業が財産を拠出することが多く、その財産は何らかの目的のために運用されている。
また社団法人、財団法人は事業内容の公益性が特に高いと認められると、公益社団法人、公益財団法人という法人格を得て、税制の優遇措置を受けることができる。
極真会館が目指すのは、財団法人化、、公益財団法人化だったが、現状ではハードルが高く、それを目指す段階としてとりあえずの会社法人化だった。
しかし
「松井は、大山倍達が遺言書で指示した公益法人化を無視し金儲けのために極真を株式会社にした」
と叩かれた。
2000年10月10日、緑派は、東京都にNPO(特定非営利活動法人)の認可を受けた。
これにより緑派は、新しいアマチュア的な団体というイメージが、松井派は、古いプロ的組織というイメージができた。
NPOは、比較的かんたんな手続きで取得できるが、財団法人ではない。
NPO、非営利組織とは、市民が主体となって継続的、自発的に社会貢献活動を行う営利を目的としない団体。
ちなみにNGO、非政府組織とは、紛争、人権、貧困などの世界的な課題の解決に向けて活動する国際団体。
NPOもNGOも社会をよりよくすることを目指す非営利団体である。
非営利とは、収益を出してはいけないということではなく、事業を有料で提供して収益を出してもいいが、契約以上に人件費をを払うことは許されず、今後の活動費に使って、より一層社会に還元しなければならない。
ここが収益を出すと株主や従業員に還元できる民間企業とは根本的に異なる。
2000年12月、緑派の32回全日本空手道選手権大会決勝で、塚本徳臣は鈴木国博に勝利。
しかしドーピング検査で大麻の陽性反応が発覚し優勝は取り消された。
その後、一時出場停止処分を受けた。
塚本徳臣は、高い身長、長い腕と脚と活かし、ステップとフットワークを踏みながら相手の動きや間合いをコントロールし、「マッハ蹴り」と呼ばれる変則的な回し蹴り、膝蹴り、かかと落とし、胴回し回転蹴りを叩き込んだ。
2001年4月26日、
「空手の実力者が一般人とケンカした場合は素手であっても武器を持っているのと同じだ」
と東京地方裁判所は鈴木国博に傷害事件の加害者として被害者に対して1500万円の賠償を命じた。
鈴木国博が傷害事件を起こしたのは1997年。
その後、裁判が4年続いたが、その最中を含めて鈴木国博は2000~2003年全日本大会3連覇、2003年世界大会優勝と緑派を代表する選手に成長した。
この事件の内容や、その後の経過、そしてその空手の組手スタイルをみても、鈴木国博は正義感が強く、不器用で真っすぐ、そして絶対にあきらめない強い人間だった。
2001年10月25日、松井章圭が記者会見を開き、自身が実行委員長である「Kネットワーク」主催で格闘技イベント「一撃」を行うと発表。
ルールは、空手ではなくK-1のようなキックボクシングルール。
極真会館だけでなく正道会館や全日本キックボクシング連盟も参戦し、メインイベントは「野地竜太 vs 武蔵」だった。
これまでK-1などに極真の選手が出場することはあったが、極真がプロの大会を主催するのは初めてだった。
K-1への参戦も否定的だった盧山初雄は、これだけはどうしても賛成できなかった。
「極真は武道空手としての道を進んでいくべきだ」
かつて極真空手のプロ化はあり得ないといっていた松井章圭は
「選手引退の先は、支部長になって生計を立てていくことが理想的です。
しかし現実問題、支部はすでに飽和状態になりつつあります。
組織が大きくなり選手人口も増えていく中にあって選手たちにはもっと多くの選択肢が必要です。
その1つがK-1などへの参戦であり、一撃の開催もその一環です」
という。
こうして大山倍達の死後、一貫して同じ方向に向かって戦ってきた師弟の間に初めて溝が生まれた。
盧山初雄は、大山倍達の遺言書の証人の1人であり、極真奨学会の理事長である梅田義嘉に相談。
梅田義嘉は、松井章圭に大山倍達の死後、なくなっていた最高幹部会を月1回開くことを提案し了承された。
最高幹部とは、
郷田勇三、
盧山初雄
浜井識安
山田雅捻
廣重毅
梅田義嘉
だった。
その後、最高幹部会では、極真会館の財団法人化、極真奨学会の立て直し、新会館の建設、プロ化の問題などについて話された。
「私は松井館長に賛成です」
「一撃」の開催について郷田雄三は容認していた。
郷田雄三自身、1975年頃に大山倍達に「プロ空手」実現のため、選手の育成を命じられたことがあった。
城東支部の道場にはその名残としてリングの跡が残っていた。
大山倍達は極真にプロ部門を設けようとする一方、
「断じてショー空手であってはいけない」
といっていた。
結果的に、このときのプロ空手は、スポンサー企業の倒産などで実現しなかった
「君は極真のプロ化はしないと断言したじゃないか。
どうしても「一撃」を開催したいなら館長を退くべきだ」
と激しく反対する盧山初雄は、プロのリングを経験していた。
第5回全日本選手権優勝、第1回世界選手権準優勝の盧山初雄は、高校時代、大山道場に入門し、10代で極真会館の総本部指導員となった。
1967年、修行のためにオランダ支部からヤン・カレンバッハが総本部にやってきた。
ヤン・カレンバッハは積極的で誰にでも組手を申し込んだ。
187㎝110㎏、柔道の猛者でもあるヤン・カレンバッハは、長身を利してスピードの乗ったパンチを打ち込み、それが外れてもそのまま接近して襟首をつかみ、相手を投げた。
その強さは総本部道場の茶帯は全員やられ、黒帯も苦戦した。
松井章圭の師である加藤重夫も右ストレートと足払いでやられた。
そしてついに盧山初雄が組手を挑まれた。
顔面と金的をガードしたままジリジリ攻め寄るヤン・カレンバッハに盧山初雄は道場の壁まで後退。
捨て身の攻撃を仕掛けたが、突いても蹴ってもまったく効かなかった。
ヤン・カレンバッハは前蹴りで盧山初雄を大きくのけぞらせ、左右の正拳突きを連打。
サンドバッグ状態になった盧山初雄は「まいった」した。
この瞬間、総本部道場指導員の自信とプライドは粉々に砕け散った。
またどんな相手も一撃で倒せるという空手の理想も崩れた。
「所詮、大きな者には勝てないのか?」
素人や中途半端な格闘技経験者なら自分より体が大きくても勝つ自信はあった。
しかし自分と同じように真剣に修練を積み、かつ自分より体が大きな人間には勝てないのではないか?
そして体重別で行われるキックボクシングに転向し、「嵐五郎」の名前でリングに上がった。
あるとき公園でキックボクシングの練習をしていると
「それは何の練習だね?」
と60歳オーバーの老人に尋ねられた。
盧山初雄は説明すると
「蹴ってこい」
と挑発してきた。
盧山初雄がケガさせないように軽く蹴ると、何をされたのかわからないまま倒された。
次は本気になって蹴って突いたが子供扱いされた。
この老人は、中国で意拳の達人である王向斉に学び、日本で「太気拳」を創始した澤井健一だった。
年齢や体格に関係のない強さがそこにあった。
「これこそ望んでいたものだ」
盧山初雄は、 即、キックボクシングを引退した。
その後、拳道会の中村日出夫などにも師事。
過酷な修行を終えた後、極真会館へ戻った。
以後、本当の空手道の強さを追求し続けた。
分裂後、一貫して
「松井章圭が2代目」
と支持し続ける反面、さまざまな苦言も呈してきた。
「大山道場時代、大山総裁は、100人の弟子より1人の強い弟子が欲しいと指導されていた」
松井章圭は、そういう盧山初雄の空手を追求する姿勢や、職人的な気持ちで指導することは大事だと思いつつ、多様化の重要性を説いた。
「老若男女、さまざまな人たちがさまざまな目標をもって道場に集まってきているわけですから、極真という軸が外れない範囲で、その人たちが望む活動の場を与えていかなければなりません」
2人は、空手観、武道観は一致していたが、組織論で食い違いがあった。
2001年7月17日、大山派時代(1999年6月)に訴えていた「松井章圭の商標権取得の無効」が退けられ、緑派は高等裁判所に抗告。
自分たちこそ商標権を持つべきと主張した。
しかし商標権を松井章圭から奪うことは難しいと予想された。
「どうも極真会館の名前が使えなくなりそうだという話になりました。
商標権の問題で松井側と争っていたのですが劣勢でした。
緑さんは『いざとなったら使えなくても仕方ない』と戦略を変えず、『裁判で負けたら名前を変える』『名称は多数決で決める』と判決が下りる前からいっていました」
(田畑繁)
「自分は極真を名乗るすべての団体が分派という認識でしたが、緑さんたちも松井さんたちも「自分が正当」という考えでした。
その中で松井さんが商標権を取得し緑派は極真会館を名乗れなくなるかもしれないという話になった。
『裁判で負けたら名前を変えよう』という意見も出ましたが、それは違うと思いました」
(七戸康博)
「緑派の中で団体名を変えてもいいという雰囲気になっていました。
正直、こいつらはバカかと思いました。
極真でなくなったら、もはや他流派」
(長谷川一幸)
こうして緑派から長谷川一幸、大石大吾ら重鎮、理事である七戸康博、坂本恵義、田畑繁が自ら離脱した。
2001年7月17日、大山派時代(1999年6月)に訴えていた「松井章圭の商標権取得の無効」が退けられ、緑派は高等裁判所に抗告。
自分たちこそ商標権を持つべきと主張した。
しかし商標権を松井章圭から奪うことは難しいと予想された。
「どうも極真会館の名前が使えなくなりそうだという話になりました。
商標権の問題で松井側と争っていたのですが劣勢でした。
緑さんは『いざとなったら使えなくても仕方ない』と戦略を変えず、『裁判で負けたら名前を変える』『名称は多数決で決める』と判決が下りる前からいっていました」
(田畑繁)
「自分は極真を名乗るすべての団体が分派という認識でしたが、緑さんたちも松井さんたちも「自分が正当」という考えでした。
その中で松井さんが商標権を取得し緑派は極真会館を名乗れなくなるかもしれないという話になった。
『裁判で負けたら名前を変えよう』という意見も出ましたが、それは違うと思いました」
(七戸康博)
「緑派の中で団体名を変えてもいいという雰囲気になっていました。
正直、こいつらはバカかと思いました。
極真でなくなったら、もはや他流派」
(長谷川一幸)
こうして緑派から長谷川一幸、大石大吾ら重鎮、理事である七戸康博、坂本恵義、田畑繁が自ら離脱した。
2001年10月2日、大阪地方裁判所は、長谷川一幸の訴えを認めた。
「原告のタウンページへの広告掲載を認める
2001年12月、緑派だった長谷川一幸、大石大吾、七戸康博、田畑繁、桑島保浩、三和純、そして遺族派だった手塚暢人、安済友吉らが「極真連合会」を発足。
2002年1月16日、緑派は、特許庁に「新極真会」を商標申請。
しかし松井章圭の保持する商標と類似しているという理由から却下された。
緑健児は、松井章圭に和解を提案。
松井章圭はそれを受け入れ和解交渉が始まった。
「裁判というものはいかに有利に進んでいても何があるかわからない。
長引かせた方が不利になる傾向があるんです。
ある程度のところで裁判所は和解を求めてくる。
和解を拒否すれば印象が悪くなる。
判決が下る前にこちらに有利な条件を飲ませて和解に応じる方が得になる。
いわば判定勝ちという形をとる方を選んだということです」
(松井章圭)
2002年1月11日、Kネットワーク主催の格闘技イベント「一撃」の旗揚げ大会が行われた。
ルールは、ほぼK-1、キックボクシングルール。
違うのは第7試合以外は3分3Rなこと。
代々木第二体育館は超満員になった。
大型モニターに、大山倍達やK-1での極真の快進撃が映された後、会場は暗転。
日本男児が太鼓を叩き、鎧武者が法螺貝を吹き、爆発が起こり、松井章圭が挨拶。
第1試合、マウリシオ・ダ・シルバ(180㎝100kg 極真) が 百瀬 竜徳(187cm 92kg 至誠館)を1R59秒で KO。
第2試合、重虎(186cm 77kg K-NET) がマルコス・コスタ(178cm 78kg 極真)に判定勝ち。
第3試合、中村 高明(188cm 73kg 藤原ジム) が ネステロフ・ヴィアチェスラブ(175cm 72kg 極真)に判定勝ち。
第4試合はボクシング・マッチで、ジョージ・アリアス(181cm 95kg アリアス・ジム)がチャン・ブーン(175cm 98kg ブリッジセインツリングサイドジム)を1R2分47秒でKO。
ジョージ・アリアスはフランシスコ・フィリョにボクシングを教えたボクサーだった。
ここで休憩が入り、天然理心流の剣道の演舞が行われた。
第5試合、松本 哉朗(182cm 77kg 新日本キック) がギャリー・オニール(172cm 76kg 極真)を1R 2分19秒TKO。
「鳥人」ギャリー・オニールは、いきなり上段後ろ回し蹴りからの踵落しを出したが、かわされストレート、アッパーをもらいダウン。
首相撲からの膝で2度目のダウン。
1R終了間際、右上段膝蹴りで終わった。
第6試合、セルゲイ・ブレカノフ(178cm 94kg 極真) が 窪田 豊彦(185cm 100kg 建武館)を1R 3分8秒でKO。
開始早々、セルゲイ・ブレカノフは首相撲からの膝のラッシュを浴び、ブレイクした一瞬、右フックをもらいダウン。
なんとか立ち上がったが、足はフラフラ。
相手のラッシュを顔面にもらいながら決して倒れず、ついに打ち疲れた相手の顔面に反撃のパンチを入れ始めた。
攻守逆転劇に観客は大歓声!
1R終了間際、セルゲイ・ブレカノフの胴後ろ回し蹴りが、窪田 豊彦のボディに刺さり呻くように前のめりにダウン。
ラウンド終了のゴングが鳴ってもカウントは続いた。
劇的な逆転KO勝利だった。
第7試合、武蔵(185cm 102kg 正道) が野地 竜太(186cm 105kg 極真)に5R判定勝ち。
23歳の野地 竜太は、世界大会で7位となった後、グローブ戦で3連勝している。
29歳の武蔵は、K-1ジャパンGP決勝戦で極真のニコラス・ペタスに敗れて以来の復帰戦。
1Rは互いに距離を取り、様子みしながらの静かな打撃の応酬に終始。
2R、常に前に出る野地 竜太に武蔵は距離を保ちながら、ローキックをつかんでストレート。
さらにミドルキック、ハイキックを次々に当てていく。
3R、野地竜太の右フックがヒット。
武蔵は大きく仰け反った。
イケイケの野地竜太は強烈なローキックからのパンチ。
終盤には再び右フックをヒット。
4R、武蔵がペースを取り戻し、前進してくる野地竜太にパンチやキックを合わせる。
5R、野地竜太はよく前に出たが、武蔵をとらえることはできず試合終了。
武蔵を崩せなかったが、「あわや」と思わすシーンをつくったグローブ4戦目のルーキーは将来有望だった。
松井章圭は、
「極真の館長が名前を出すべきではない」
という最高幹部会での梅田義嘉のアドバイスに従い、旗揚げ戦が終わった後、Kネットワークの実行委員長をやめてフランシスコ・フィリョを後釜に据えた。
2002年 、八巻建志が極真会館を退会し、アメリカ、カリフォルニア州カルバーシティで八巻空手を発足。
「私は空手には無限の可能性があると思っています
度々、貧血で倒れるぐらいひ弱で
いじめられっ子だった私は自信が持てず
人の目を見て話すことも出来ませんでした
それが空手に出会って懸命に稽古を重ねていくうち、
10年後に全日本チャンピオンに、
15年後には世界チャンピオンになりました
その間、100人組手という荒行をも完遂しました
そして自己の無限の可能性を確信しました
人の才能は継続することによって磨かれ開きます
継続的な空手の稽古から得られる自信は人の能力を無限に伸ばします
そしてそんな人は何事にも自信をもって臨めるようになるのです
稽古は無駄に長く時間を費やしたり、厳しければいいというものではけっしてないのです
継続するには楽しくなければいけません
私は楽しい空手を指導していきたいと思っています」
2002年2月5日、極真連合会の長谷川一幸、大石大吾、七戸康博、田畑繁、桑島保浩、三和純ら10名が、東京地方裁判所と大阪地方裁判所で、商標権をめぐって松井章圭を相手に裁判を起こした。
極真会館のロシア地区は、盧山初雄が任されていた。
盧山初雄は西ロシアの育成に力を注いでいたが、東ロシアが疎かであることをみて松井章圭は、盧山初雄に東ロシアも細かく管理するよう要請。
しかし改善がみられなかったために国際秘書である五来克仁に東ロシアでの大会と合宿を開催を指示した。
これを知った盧山初雄は激怒。
2002年2月9、10日、モスクワで「ロシアンカップ2002」が開催されたが、盧山初雄は
「いくら私がロシア担当とはいえ、自分で全て確認しながら準備した大会でない以上、何かあったときに責任が取れないので、今回の大会には行かない。」
と欠席。
大会後、行われた国際会議で、盧山初雄はロシア担当を罷免された。
帰国後、松井章圭は梅田義嘉に報告した。
「盧山師範にはロシア担当から外れてもらいました」
「君は毛唐と盧山師範のどっちを信じるんだ?」
「先生、今の言葉は取り消してください。
先生は民族差別する人なのですか?」
松井章圭は強く戒め、梅田義嘉は発言を撤回した。
しかし内心、怒っていた梅田義嘉は周囲に
「私はもう松井君を2代目とは認めない」
と漏らした。
2002年2月22~25日、松井章圭は、数見肇と共に東ロシアで合宿を行った。
奈良県の大会に出席した盧山初雄は、大会後、若手の支部長たちと飲んでいた。
そして酒に勢いもあって
「梅田先生が松井館長に降りてもらうといっている。
もし松井が除名されたらお前たちはどうする?」
と冗談交じりにいった。
酒好きで腹のない盧山初雄をよく知っている人間なら
「師範、またそんなこといって!」
と笑い話ですんだかもしれないが、若手支部長たちにとって盧山初雄といえば神様であり、その発言は重いものがあった。
堀田裕晴が総本部に報告したことによって思いもよらず大事に発展した。
「館長降ろしの計画あり」
「盧山のクーデーター計画」
と話が誇張され広がってしまい
郷田雄三は
「酒の席の冗談とはいえ済まされない」
と激怒した。
2002年10月16日、
「松井君、いつでもいいから極真を財団法人化する、新会館を建設するといってくれ。
せめて意志だけでもみせてくれ」
最高幹部会で、梅田義嘉が迫ったが、松井章圭は黙ったままだった。
「総裁が亡くなって10年も経つのに財団法人化も新会館設立もまったく進まず、極真奨学会もそのままになっている。
それで「一撃」なんていうものを始めるのはおかしい。
「一撃」で儲けた金をすべて松井君が懐に入れているんだろう」
この言葉に松井章圭はそれまでためていた不満をぶつけた。
「10年も経っているとおっしゃいますけど、たかが10年しか経っていないんです。
しかも最初の数年は分裂騒動で組織固めができなかった。
でもきちんと考えているし努力もしていると何度も報告したじゃないですか。
それも認めてくれないんですか?
私も先生にいいたいことはあるんです。
いつもああしろこうしろといいますが先生が何か協力してくれたことがありますか?
財団化するには大金が必要です。
でも梅田先生は寄付どころか後援者1人紹介してくれない。
新会館建設もそうですよ。
早く建てろというのは簡単ですけど現実問題として旧会館を管理している遺族との関係がクリアになっていない。
遺族と和解するために先生が何かしてくれたんですか?」
「松井君は総裁の意志に反している。
私は君を2代目と認めない。
今後は君と距離を置く」
「先生、座ってください。
話し合いましょう」
梅田義嘉は松井章圭の引き止めに応じずに去った。
会議は続き、松井章圭はロシアや奈良県でのことを挙げ、盧山初雄に役職から退くようお願いした。
「師範、表面上だけでも最高顧問や国際委員の肩書を外してください」
盧山初雄には、最高顧問、首席師範、国際委員、大会審判長、北関東地区本部長、埼玉県支部長という肩書があった。
松井章圭は、クーデターなどは誤解であることはわかっていた。
肩書を外すのも形式的なことで、事態が収まれば戻すつもりだった。
「謹慎という形でしばらく公の場に出ないということではダメなのか?」
盧山初雄は、松井章圭が落としどころを提示してくれているのだから素直に謝り、従えばよかったが無理だった。
松井章圭も、役職を辞めてもらう必要があると頑なに譲らなかった。
互いに感情的になっていた。
「もし私が辞任しないといったらどうなるんだ?」
「除名させていただきます」
「ああ、そうか」
盧山初雄は憤然と立ち上がった。
最悪の会議が終わった後、郷田雄三は盧山初雄に電話を入れた。
「郷田師範、私は自ら極真会館を去るつもりはありません。
しかし除名というならその決定に従います」
2002年11月2、3日、松井派が第34回全日本大会を開催。
世界大会でフランシスコ・フィリョに敗れ、2位となった数見肇が優勝。
つらい時間を乗り越え復活した。
盧山初雄は大会を欠席していたが、大会後行われた全国支部長会議で除名が決定された。
2002年11月25日、数見肇が松井章圭に退会届を提出。
2002年11月26日、廣重毅が郷田雄三に
「一身上の都合により」
とだけ書いた退会届を提出。
2002年11月29日、鳥取県、島根県支部長で盧山初雄の弟子である湖山彰夫も退会届を提出。
2002年12月、株式会社ケイワンが法人税法違反の容疑で強制捜査を受け、石井和義が法人税法違反の容疑で在宅起訴された。
2003年1月13日、盧山初雄が、ビジネス空手、ショー空手ではなく武道空手、一撃必殺の空手、最強の空手を目指すため、「極真館」を発足。
「私たちの師である故・大山倍達総裁は、その生涯をかけて武道空手としての極真空手の完成を追求しておられました。
空手の道を志した弟子たちが武道としての空手を地道に研鑽していくことによって、
強さとともに人間として完成し、社会にとって役立つ人間を育成するという壮大なる目標を持っておられたのです。
それは総裁が口ぐせのように言われていた「頭は低く目は高く、口を慎んで心広く、孝を原点として他を益す」という言葉に集約されています。
その武道空手の理念は「極真精神」とも呼ばれ、門下生たちの心の支えであり、人生の指針でもありました。
私たちは、大山倍達門下生の一員であることに限りない誇りを持ち、
その教えを指針として極真の道を全うすべく、生涯をかけて努力精進を続けていく決意です。
そして大山倍達総裁の武道空手の理念と極真精神を正しく継承し、広く普及して、発展させていくことが使命だと考えています」
館長:盧山初雄
副館長:廣重毅
本部長:湖山彰夫
副本部長:岡崎寛人(元極真会館福島県支部長)
極真会館時代からの盧山初雄の拠点だった埼玉県の青木会館でパーティーが開かれ、800人が訪れた。
数見肇が氷柱割を行った。
その後、数見肇は、神奈川県川崎市川崎区大島に数見道場を設立。
空手だけでなく、柔術、キックボクシングや総合格闘技の練習も行った。
ファンは「K-1」や「PRIDE」など格闘技イベントに参戦することが期待するファンもいたが実現することはなかった。
その生ける達人的な存在は、格闘技界においても大きなものがあった。
2003年1月22日、大西靖人が肝臓ガンで死去。
44歳だった。
葬儀場には妻と共に愛人だった石野真子の姿もあり、死んだ後も豪快だった。
2003年2月3日、石井和義が証拠隠滅教唆容疑で逮捕された。
2003年4月15日、松井章圭と緑健児の和解が成立。
和解条件は不明だが、松井章圭は「新極真」の商標登録を認めた。
緑健児は、松井章圭に対する裁判を取り下げ、特許庁に「出願人名義変更届」を提出。
「新極真会」を松井章圭の名義で再申請。
2003年5月22日、石井和義は保釈金4,000万円を支払い保釈。
2003年9月29日、極真連合会の長谷川一幸、大石大吾、七戸康博、田畑繁、桑島保浩、三和純ら10名が商標権をめぐって松井章圭を訴えた件で、東京地方裁判所は、
「大山倍達から空手の教授を行う認可を受けた地域に限って」
という限定付きで
「極真会館の分派の代表に過ぎない被告が同じく極真会館の分派に属する原告らに対して、商標の使用を禁止することは権利の濫用に当たる」
と極真連合会の訴えを認めた。
2003年9月30日、大阪地方裁判所でも同様の判決が下りた。
敗訴した松井章圭はすぐに控訴した。
2003年12月1日、松井章圭が「新極真会」の商標権を取得。
「新極真会には極真会館という名前を捨てて新しい団体になったという事実を受け止めてもらいたい。
大山総裁が創始したのはあくまで極真会館です。
にもかかわらず全日本大会も第42回と極真会館時代から続いているようなことをする。
新極真会は極真会館にあらず。
これだけははっきり明言しておきたいですね」
(松井章圭)
「松井君は『新極真会はうちの極真会館の傘下にある』といっていました。
下部組織とまではいいませんが新極真会が松井君の下についたのは事実といっていいでしょう」
(盧山初雄)
2004年1月7日、
松井章圭が特許庁に「出願人名義変更届」を提出。
「新極真会」の商標権を緑健児に譲渡した。
2004年1月14日、東京地方裁判所は、脱税と証拠隠滅教唆で石井和義に懲役1年10か月の実刑判決を下した。
2004年1月15日、大山喜久子(三女)が、特許庁に松井章圭の商標登録無効の訴えを起こした。
2004年5月30日、格闘技イベント「一撃」において、「極真 vs K-1 7対7 全面対抗戦」が行われ、
メインイベントではフランシスコ・フィリォがレミー・ボンヤスキーに判定勝ち。
フランシスコ・フィリォは、この試合を最後に現役引退。
2004年7月11日、赤坂プリンスホテルで緑派が改名記者会見を開いた。
緑健児代表を始め、全国の支部長たち、衆議院議員の野田聖子も世界大会会長として参加。
長渕剛が「新極真会の歌」を熱唱した。
2004年8月24日、極真連合会が大阪地方裁判所に
「松井は「極真会館館長」の名称を使用してはならない」
と極真会館館長の名称使用禁止を請求。
原告数は81名。
2004年9月22日、大山喜久子(三女)が起こした、松井章圭の商標登録無効の訴えを特許庁が認めた。
松井章圭は不服としたため問題は裁判所に持ち込まれた。
2005年4月1日、大阪最高裁判所は、松井章圭の広告を却下し、極真連合会にタウンページの広告だけでなく「極真」の名称の使用も認めた。
2005年10月、恵比寿に「Ichigeki PLAZA(一撃プラザ)」がオープンした。
同月、許永中は最高裁に上告を棄却され、実刑判決が確定。
黒羽刑務所に収監された。
2006年5月13日、分裂騒動以来、一貫して松井章圭を支持してきた浜井識安が、
「大山総裁の遺言の不実行と極真会館の私物化」
を理由に松井派離脱を宣言。
「松井君と盧山師範が最高幹部会議でやりあうのをみて、もう少し組織にとどまって我々ができることをしようと。
いつか松井君も我々の主張に耳を貸すに違いないと信じていたんです。
でもあれから3年以上経っても何も変わらなかった。
それで決心したんです」
2006年6月6日、大山智弥子が胃癌で死去。
(79歳)
2006年9月11日、極真連合会が起こした「極真会館館長の名称使用禁止請求」を大阪地方裁判所は認めた。