
1931年9月13日生まれ、大阪府豊中市出身です。
2歳で満州に渡り、少年期を過ごしました。終戦後の1947年に大連から日本に引き揚げてきました。
1954年、東京大学法学部卒業し、新聞社勤務を経て松竹に入社しました。
「家族のあり方」をテーマにした作品が多く、その思いはデビュー作から今日まで変わることがありません。
初監督となるコメディ映画「二階の他人」

土地を購入し、家を新築した夫婦がローン返済のために2階部分を下宿として間貸しします。
その下宿先を間借りしてきた様々な住人とのいざこざを面白おかしく描いた物語です。
地味な存在から松竹大船調路線の後継者へ
大島渚、篠田正浩、吉田喜重など気鋭の新人がヌーヴェルヴァーグ(新しい波)として松竹で活躍している時代に山田洋次はいささか地味な存在となっていました。
その後、ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立する中、彼はコメディを中心とした作品を製作して企業内監督の道を進みました。

生涯のコンビ、倍賞千恵子との出会い…「下町の太陽」
主人公の町子は東京下町の工場で女工をしており、同じ工場の事務職員の道男と付き合っていました。彼は正社員になるべく、日々勉強に励んでいました。
ある時、主人公に対し鉄工所で働く若者グループの工員・良介から強引に付き合うように言われますが、不良のようなグループを毛嫌いして断ります。
そんな矢先に、主人公の弟が万引事件を起こしてしまいます。
それに対して、見下したような反応をする道男、かたや弟が兄のように慕っている良介…。
そんな男二人の間で次第に揺れ動く町子の気持ち…。果たして町子が取った行動とは?

映画作家としての地位を固めていく中で、山田氏にとって実に六十数本で主演、準主演を務めている倍賞千恵子とのコンビについては海外でも殆ど例を見ない長期の監督・女優コンビです。
後にあるインタビューで、「たくさん女優さんはいるけど本当にプロと言える女優さんは少ない。倍賞さんはその少ない方のプロです」、「この人(倍賞)は佇まいが良い人、立っているだけで良い人なんです。どういう風に言えば良いかわからないけれど、歩いているだけで表現できるっていうのはなかなかのものだよ」と倍賞千恵子に面と向かい称賛しています。
初期作品に欠かせない存在のハナ肇

シベリア帰りの安五郎が、瀬戸内の小さな町の淨念寺に転がり込みます。住職の長男の妻・夏子に一目惚れをします。やがて町の人気者となり、町のボスとして君臨します。しかし町の勢力を革新派が握ったことから人々から冷たい目で見られ、淨念寺も出入り禁止となってしまいます。
そんな時に誘拐事件が発生、名誉挽回のチャンスと誘拐犯を追いかける安五郎ですが…。
ただただ夏子に褒めてもらいたい…それが安五郎の原動力なのが泣ける作品です。
テレビドラマを経て、ついにあの名作シリーズへ!!
「馬鹿」シリーズを経て、その後はテレビドラマの脚本などを担当するようになった山田洋次監督でしたが、ヒットには恵まれない状態が続きました。
しかし、1968年の連続テレビドラマ「男はつらいよ」の原案・脚本を担当します。1969年に松竹で映画化されることになり、のちに50年間で50作が製作されるようになるとは、この時はまさか思っていなかったでしょう。

改めて説明もいらないでしょうが…。
テキヤ稼業の「フーテンの寅」こと車寅次郎が、故郷・葛飾柴又に戻ってきては毎回大騒動を起こしますが、そこに旅先で知り合う「マドンナ」との恋愛事情も絡めた人情喜劇です。
脚本家としての才能も開花
「男はつらいよ」シリーズの合間を縫ってシリアスな作品のオリジナル脚本なども発表され、いずれも高評価されるようになり、山田洋次という人物の映画作家としての地位が確立されてきます。
倍賞千恵子による「民子」シリーズ第1弾「家族」

倍賞千恵子を「民子」という役名で起用した【民子3部作】の第1作目です。
※【民子3部作】とは1970年の「家族」、1972年の「故郷」、1980年の「遥かなる山の呼び声」のことをいいます。
長崎県の小島を離れ、北海道の開拓村まで旅する一家の姿を当時の日本の高度経済成長期を浮かび上がらせたシリアス路線の作品です。
憧れの高倉健と倍賞千恵子による「幸福の黄色いハンカチ」

この作品も説明は不要でしょう…。
新車を買った欽也が北海道をドライブし、途中で一人旅の美女・朱美をナンパして2人で旅を続けます。そこに、出所したばかりの中年男の勇作が加わります。
そんな中で勇作が「自分を待ってくれているなら、家の前に黄色いハンカチを掲げてしてくれ」と、妻に手紙を出していたことを打ち明けます。
果たしてその結果は…。
頑ななまでに貫く松竹大船調イズム

松竹に入社以来、一貫して大船撮影所(※)のみで仕事を続けていました。期間とすれば、同撮影所の閉鎖まで47年間となります。また、その後の京都撮影所を含めると50年以上となります。
助監督から監督にかけての同一企業映画への連続従事という点では、これを上回る記録は海外でも見当たりません。
※1936年1月15日から2000年6月30日まで神奈川県鎌倉市大船にあった映画スタジオです。
現在この場所は鎌倉女子大学と鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスとして使用されています。
第二の故郷と言うべき場所にはこんな建物も

2012年12月15日にはその功績が讃えられ、葛飾柴又の「寅さん記念館」に併設される形で「山田洋次ミュージアム」がオープンしました。
山田洋次の名言・格言
・人間が人間らしく生きることが、この世の中にあっては如何に悲劇的な結末をたどらざるを得ないかということを、笑いながら物語ろうとしてるんです。
・青春時代にいくつほめられたかで、人間の人生は決定するような気がする。
・一生懸命さとか、誠実さなどは、単なるコトバではなく、真剣な表情で、情熱をあらわにした行動からなのです。
まだまだありますが、彼はひたむきに高い目標に近づくべく懸命に努力することを目指すべきだと語っています。
変わらずの人情味あふれる作品作り
渥美清の死後、「男はつらいよ」は完結を迎えますが、それに屈せずその後も精力的に作品を製作していきます。
「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」などの時代劇や「母べえ」「おとうと」など未だにその手腕は衰えていません。むしろ磨かれているように見えます。
山田洋次監督の作品には初期から今を通じて、喜劇作であれシリアス路線であれ全ての作品に、人間臭さと人情が表されていて、流れ者や逸脱者が多いのもきっとシベリアからの引き揚げ体験が影響されているものだと思われます。
その才能をこれからも世の中に広く伝えてくれる作品を製作していってくれるものと信じてやまない次第です。
