数々の偉業を成した黒柳徹子さん
黒柳徹子さんのプロフィール
黒柳徹子さんの略歴
父親は音楽家の黒柳守綱、母親にエッセイストの黒柳朝、この夫婦の間に長女として生を受けた徹子さん。弟は二人いて、幼少期に亡くなった明兒さん、バイオリニストとして有名な紀明さん、さらに妹にはバレリーナやエッセイストとして成功した眞理さんがいます。
そのうえ、伯父には、松竹蒲田撮影所の初代所長である田口桜村さん、日本ニュースのニューヨーク支社長のアメリカ・メトロニュース極東代表だった田口修治さんといった著名人・有名人揃いの家系といえます。
黒柳徹子さんは芸名でなく本名で、両親はこれから生まれてくる徹子さんを男子だと思っていたことから「徹」の字を入れることを決めていたそうです。実際に生まれたのは女子だったため、「徹」の字に「子」をつけて「徹子」と命名されたみたいです。
幼少期は問題児扱いされ、尋常小学校では一年生のときに退学処分になってしまいます。その後はトモエ学園に転校というかたちで移り、第二次世界大戦の東京大空襲を機に東北地方で疎開生活を送ることになります。
若かれし黒柳徹子さん
トモエ学園の香蘭女学院・東洋音楽学校の声楽科を卒業しますが、オペラ歌手にはなれないことを知って、NHK放送劇団の俳優募集に応募するのでした。約6000人の応募者の中から、6次審査を経て、13人の劇団員の一人に選ばれます。
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黒柳徹子さんの成熟期
こんな忙しい芸能生活を送っているにもかかわらず、演技力では舞台出身の俳優との間に差を感じていたことから、文学座付属演劇研究所に入所。改めて演技の勉強をすると、舞台活動を通じて親しくなったスタッフを通じて、ニューヨークへ留学するといったアクティブさを発揮します。
現地ではスタニスラフスキー・システムという理論に基づいて、プロの俳優に演技指導をするメアリーターサイ演劇学校に入学をして、東洋人初の生徒になります。アフターファイブには、振り袖姿で積極的にカクテル・ディナーを楽しむ社交場に出向いて、着物と洋服のどちらにも似合う髪型を開発していたというエピソードもあります。徹子さんの『タマネギヘア』はこの時に生み出されてアイデアであり、帰国後にはトレードマークとして日本国内でも広く知られるようになりました。
現在でも続く『徹子の部屋』、その前身となる『13時ショー』の司会が決まると、ニューヨークの留学生活を打ち切って日本に帰国します。『徹子の部屋』の放送が開始されると、役を演じながら司会は視聴者のイメージの混乱を招くという理由から女優活動を控えるようになっていきました。
マルチタレントとしての活躍
1976年からテレビ朝日で現在も放送されている『徹子の部屋』は、長寿番組として、ギネス世界記録にも認定されるほどです。
放送回数は10000回を超え、他にもこれまで数々の名誉賞を受賞しています。
ミドルエッジには『徹子の部屋』を題材にした記事が他にもありますので、そちらのリンクも掲載しておきますね。
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1978年にはTBSの音楽番組『ザ・ベストテン』の放送が開始され、最終回を迎えた1989年まで司会は徹子さんが務められました。最高視聴率は41.9%を記録するなど、こちらも音楽番組としては多大な功績を残したコンテンツといえるでしょう。
ミドルエッジには『ザ・ベストテン』が復活を果たした特番を紹介する記事がありましたので、そちらのリンクも掲載させていただきます。
『ザ・ベストテン』がTBS音楽特番内で復活!司会はもちろん黒柳徹子!往年の名場面も放送! - Middle Edge(ミドルエッジ)