誕生
1988年4月16日、北海道浦河町にある渡辺牧場で1頭の仔馬が誕生しました。父・ナイスダンサー、母・ウラカワミユキとの間に誕生したこの仔馬は、後にナイスネイチャ(英語で素晴らしい素質という意味)と名付けられます。父のナイスダンサーはカナダで重賞6勝を挙げた馬で母のウラカワミユキも中央競馬で3勝を挙げていました。さぞかし期待されて誕生したのかと思いきや牧場では全く目立つ存在ではなかったといいます。しかし管理することになる調教師の松永善晴は会った当初からいい馬だと感じていました。
デビュー、そして2戦目での勝利

栗東の松永善晴厩舎に入厩したナイスネイチャのデビュー戦は、1990年師走の京都競馬場でした。11頭立てで行われた芝1200mのレースでナイスネイチャは単勝3.9倍の3番人気に支持されます。レースは後方からの追走となりますが、最後の直線で猛烈な追い込み。しかし前が塞がる不利もあり、クビ差の2着に終わります。
中1週で臨んだ2戦目は京都のダート1400m。単勝1.7倍という圧倒的1番人気の支持を受けたナイスネイチャはスタートよく飛び出しそのまま逃げきって見事初勝利を挙げます。ナイスネイチャがダートのレースを走ったのは生涯でこの1戦のみでした。
クラシック出走を目指すも春は出走ならず
クラシック出走を目指して陣営が選んだ3戦目は、年明け京都の福寿草特別。芝2000mで行われたこのレースでナイスネイチャは単勝3番人気に支持されますが、良いところなくシスタートウショウの6着に敗れてしまいます。
そこから中1週で臨んだのが同じく京都芝2000mの若駒ステークス。前走の敗戦でこの日のナイスネイチャは単勝5番人気と人気を落としていました。レースでは低評価に発奮したのか3着と健闘しますが、このレースを勝ったのがこの年の牡馬クラシック2冠を制することとなる皇帝・シンボリルドルフの息子、トウカイテイオー。勝ったトウカイテイオーからは6馬身半も離された3着でした。この後骨膜炎を発症したナイスネイチャは春のクラシック出走の夢叶わず休養に入ります。
夏に力を付け重賞制覇
春を休養にあてたナイスネイチャは夏の中京で復帰します。陣営が選んだのは7月の中京・芝1800mのなでしこ賞。単勝5.6倍の3番人気に支持されたナイスネイチャはクビ差の2着と健闘します。中2週で臨んだ6戦目は小倉の芝1800m、不知火特別。このレースを圧倒的1番人気に応えて快勝したナイスネイチャ。この勝利をきっかけに快進撃が始まります。続くはづき賞も1番人気で快勝し、いよいよ重賞に挑むことになりました。
陣営が選んだレースは古馬との初対戦となるG3・小倉記念。小倉で連勝していたこともあり、この日のナイスネイチャも重賞勝利している古馬を抑えて堂々の1番人気。レースでは最後の直線で前を行く重賞馬・イクノディクタスを楽々捉え、2着のこれまた重賞馬であるヌエボトウショウに2馬身差をつける快勝。3連勝でついに重賞初勝利を挙げます。
連勝の勢いそのままに迎えた菊花賞トライアル・京都新聞杯。このレースでは、G1・阪神3歳ステークスの覇者、イブキマイカグラに1番人気を譲りますが、レースは2番人気の支持を受けたナイスネイチャがイブキマイカグラを4分の3馬身差抑えて見事快勝。重賞2連勝を含む4連勝で一躍クラシック最後の1冠、菊花賞の有力馬に名乗りを上げます。
念願のクラシック出走
春には出走の叶わなかったクラシックレースでしたが、最後の1冠、菊花賞に有力馬として出走することとなったナイスネイチャ。牡馬クラシック2冠を圧倒的な強さで無敗のまま制したトウカイテイオーを怪我で欠くメンバーとなった菊花賞。レース当日は前走の京都新聞杯で負かしたイブキマイカグラが1番人。ナイスネイチャはそれに次ぐ単勝5.2倍の2番人気に支持されます。レースは最後の直線で伸びを欠き、勝ったレオダーバンに約2馬身差を付けられての4着に敗退。待望のG1制覇とはなりませんでした。
最初の有馬記念3着
菊花賞の敗戦から1ヵ月後の鳴尾記念を圧倒的1番人気で快勝し、重賞3勝目を挙げたナイスネイチャ。いよいよ暮れのグランプリレース・有馬記念に出走します。レース当日は芦毛の怪物・メジロマックイーンに次ぐ単勝2番人気の支持を受けたナイスネイチャ。
レースは1番人気のメジロマックイーンをがっちりマークする形でそつのない競馬を見せますが、最後の直線で突き放され、内をスルスルと伸びてきた伏兵・ダイユウサクがあっと驚く勝利を飾り、ナイスネイチャは3着に終わります。
これがナイスネイチャ最初の有馬記念3着です。ナイスネイチャはここから5年連続で有馬記念に出走することになります。しかしナイスネイチャがまさか3年連続有馬記念で3着に来ようとは誰が想像したでしょう。
善戦の始まり
4歳シーズンを有馬記念3着で終え、飛躍を期待された5歳シーズンでしたが、骨膜炎の悪化で春は全休。復帰したのは10月、天皇賞(秋)の前哨戦・毎日王冠でした。長期の休み明けにもかかわらず1番人気に支持されたナイスネイチャでしたが、レースでは前を行くダイタクヘリオスとイクノディクタスを捉え切れず3着。続く天皇賞(秋)ではトウカイテイオーに次ぐ2番人気の支持を受けますが、結果は4着。重賞で善戦はするもののなかなか勝ち切れません。
さらにG1・マイルチャンピオンシップでも4番人気ながら3着と善戦したナイスネイチャ。再び暮れのグランプリ・有馬記念に挑みます。ここでも4番人気に支持されたナイスネイチャでしたが、今回は伏兵・メジロパーマーの大逃げを許し、レガシーワールドも捉え切れずまたしても3着に。ナイスネイチャの善戦は続きます。
善戦止まりもファンに愛され

結局勝利を挙げることが出来ずに5歳シーズンを終えたナイスネイチャでしたが、ファンはそんな彼に期待し続けます。6歳を迎えたナイスネイチャは、日経新春杯を1番人気2着、阪神大賞典を1番人気3着、産経大阪杯を2番人気2着という成績で春シーズンを終えました。ここでもやはり勝ち切ることはできませんでしたがファンの期待は相変わらず。善戦は続きます。
夏場を休養にあて昨年と同じく毎日王冠から始動したナイスネイチャ。4番人気ながら3着と堅実な走りを見せます。続く天皇賞(秋)はそんな堅実性を買われて2番人気に支持されますが、15着と大敗。その後ジャパンカップに出走しますが、海外から強豪が集結したこともあり15番人気の低評価に甘んじます。結果は7着と人気よりも走りましたが、G1での物足りないレースが続く状況に変化はありませんでした。
3度目の3着
そんな中迎えた3年連続3度目の有馬記念。前2年はファンからも高い支持を受けていましたが、この年は近走の不振もあり、10番人気にとどまっていました。レースは1年振りの出走となった同期のトウカイテイオーが見事な復活劇を見せ奇跡の勝利。この同期の走りに応えるかのようにナイスネイチャも並み居る強豪馬を抑えて低評価ながら3年連続の3着と健闘してみせたのです。
この後も2度有馬記念に出走しましたが、5着と9着に敗れ結局有馬記念制覇を成し遂げることはできませんでした。しかし7歳シーズンの夏に中京で高松宮杯を勝ち、重賞4勝目を挙げます。
担当厩務員との絆
当時ナイスネイチャを担当していたのは厩務員の馬場秀輝。若い頃のナイスネイチャは我が強くスタッフの手を煩わせる存在だったと言います。しかし馬場はそんなナイスネイチャを怒ることなく接し続け、ついには馬場の後を引き綱なしで付いて歩くほど大人しい馬に変貌させたのです。
競馬のときには馬場が付いていないと発馬機に近づこうとせず、調教でも馬場がいないと駐立したまま動かなくなってしまうことが度々あったといいます。それ程までに馬場とナイスネイチャとの間には強い信頼関係があったのです。
ファンに愛されたナイスネイチャには多くのファンレターや千羽鶴などが送られてきました。ナイスネイチャの馬房の前扉には12束もの千羽鶴が飾られていたといいます。厩舎関係者によると「彼以上のスターホースはたくさんいたが、トレセンを訪ねてくるファンの数とその思い入れの深さでは、栗東で1,2を争うアイドルホースだった」とされています。
また、ナイスネイチャに会いに栗東を訪れるファンの多くは担当厩務員である馬場のファンでもあったといいます。
今も元気に
9歳の秋まで現役として走り続けたナイスネイチャは41戦7勝という成績で競走生活を終えます。3着は有馬記念の3年連続やマイルチャンピオンシップを含め実に8回。ブロンズコレクターと言われる所以です。引退後は種牡馬となりましたが目立った活躍馬を輩出することは出来ず、2001年に種牡馬登録を抹消されています。
種牡馬を引退してからは、生まれ故郷である渡辺牧場でフォスターホースという引退馬協会が所有する馬として今もなお元気に余生を過ごしています。