任天堂最初のゲーム機といえば、私たちの多くが1980年のゲーム&ウオッチと1983年のファミコンを思い出すことと思います。それ以前は花札の会社だった、なんて記憶が強く残っています。
ところが実際は違います。1977年から1980年までに、実に5種類ものテレビゲームをリリースしているんです。
また、こちらも懐かしすぎる1981年発売のエポック社カセットビジョン。
振り返ると70年代の任天堂は、エポック社の後を追うようにしてテレビゲームに挑戦を続け、ファミコンの成功によって一気にライバルを突き放すことに成功したのです。
1975年9月、エポック社が日本初の家庭用ゲーム機「テレビテニス」発売

テレビテニス
なんとワイヤレス接続であった「テレビテニス」は19,500円で2万台を売りました。
これが日本初の家庭用テレビゲーム機とされています。
1977年7月、任天堂初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」
名前の通り15種類のゲーム(といってもほとんど一緒ですが…)が遊べる「カラーテレビゲーム15」及び6種類に絞った「カラーテレビゲーム6」を、それぞれ15,000円、9,800円で発売。
これが大当たりで、ナント100万台も売り上げることとなりました。
この成功要因については下記のような説があります。
なんだか凄い時代ですね。
これをみながら、エポック社が後に行った「カセットビジョン」「カセットビジョンJr.」が重なってみえました。
※こちらの戦略はファミコンの前に通じませんでしたが
この任天堂の成功に触発されて、エポック社も1978年には「システム10」を発売。
販売価格は15,500円で、なんとラケットゲームと光線銃ゲームの10種類のゲームを内蔵。ラケットゲームでは4人同時プレイが可能な優れモノでした。

システム10(エポック社)
しなしながら大きなインパクトを残したのは任天堂のカラーテレビゲームとなり、この成功は後に任天堂の「安価なハードウェアで売り抜け」路線を決定付ける事となります。
特に本体よりもソフトウェアの売上げが重要視されたファミコンでは、任天堂が強気の販売戦略で本体価格を大幅に下げる一因ともなり他の追随を許さなかったのです。
ちなみにエポック社は、この後も「テレビベーダー」「テレビ野球ゲーム」「テレビブロック」などを発売し、1981年7月に満を持してカセット式の家庭用ゲーム機「カセットビジョン」を投入。
任天堂がファミコンを投入する1983年7月までは、国内でもっとも認知されたテレビゲーム機でした。
【カセットビジョン】ファミコン以前のテレビゲームと言えばカセットビジョンでしたね! - Middle Edge(ミドルエッジ)
一方の任天堂も「カラーテレビゲーム」の成功を受けて、1978年から1980年までに3種のテレビゲームを投入しました。
1978年、レーシング112
1979年、ブロック崩し
1980年、コンピュータTVゲーム
上記3種をみると、同時期にエポック社が投入したテレビゲーム機「テレビベーダー」「テレビ野球ゲーム」「テレビブロック」と同様、単一ゲームごとにゲーム機をリリースしていたことが分かります。
価格帯もおおよそ1万円台(それより高価になるとコケる)といったところだったようです。
1980年、任天堂はゲーム&ウオッチで大ブレイクを果たしますが「ゲーム機本体+ゲームソフト」という概念で市場に先手を打ったのはカセットビジョンのエポック社、その2年後に任天堂は圧倒的なスペックと自信の価格戦略でファミコンを投入し、黄金期を迎えることとなったのです。
20世紀の熾烈な家庭用ゲーム機戦争を振り返ろう。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
現在はミニ化したファミコンとスーファミが人気
本稿では、任天堂がファミコン以前にリリースしたゲーム機についてご紹介していますが、”ファミコンとスーパーファミコンが 手のひらサイズで帰ってきた!!”の触れ込みが気になる「ニンテンドークラシックミニ ダブルパック」がおすすめです。
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Amazonでのレビューを見ると、”ゲーム機本体とテレビの接続も楽にでき、昭和の時代を思い出しました。”や”私は、懐かしいゲームですが、スマホ慣れの娘は、とても難しく、あ。あ。と負ける度に言ってます。懐かしさと家族でわいわいいいゲーム機です。”といった好意的な感想があります。