『ケーシー高峰』ってどんな人?

名前の由来は一世を風靡したこんなところから…
名は彼自身が医師志望であった過去を活かし、医師が主人公のテレビドラマ『ベン・ケーシー』からとりました。
屋号の「高峰」は、少年時代に地元の最上町に映画『馬』の長期ロケでやって来て、一目惚れした女優の『高峰秀子』の名字から名付けました。
メディカルドラマ『ベン・ケーシー』とは?
『ベン・ケーシー』(Ben Casey)は、1961年から1966年まで放送されたアメリカのテレビドラマです。
総合病院の脳神経外科に勤務する青年医師ベン・ケーシーを主人公に、病院内での医者と患者との交流を通じて医師としての成長を描き、当時高い評価を得たメディカルドラマでした。
オープニングでの「♂ ♀ * † ∞」(「男、女、誕生、死亡、そして無限」と吹き替え)という台詞を語りながら、黒板にチョークで書く場面は有名です。
1961年10月2日から1966年3月21日まで、アメリカABCで1話60分、全153話が放送されました。
日本でも1962年5月4日から1964年9月25日までTBS系列で放送され、第1回放送(1962.5.4)は視聴率16.4%でした。
しかし重厚な内容が人気を呼び、やがて第5回放送(1962.6.1)で30.9%に上り、その後視聴率は毎週40%前後で推移しました。
第37回放送(1963.1.11)は、50.6%の最高視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録し、
日本で放映された海外ドラマでは視聴率ナンバー1です。
天才子役スター『高峰秀子』とは?
高峰 秀子(1924年3月27日 - 2010年12月28日)は、女優、歌手、エッセイストでした。
本名は松山 秀子(まつやま ひでこ)、旧姓は平山(ひらやま)。愛称は「デコちゃん」です。
戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人で、1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍しました。
ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せました。
その後東宝、新東宝を経てフリーとなり、木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演しました。
1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動しました。
主な出演作品は『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』などです。
著書には自伝『わたしの渡世日記』などがあります。
夫は映画監督の松山善三です。

エリートコースをまっしぐら??
母方は先祖代々医師の家系であり、母・シヅエは生涯現役で診察を務めた産婦人科医でした。
また、父は海外出張の多い商社マンで、レコードの収集家でした。
兄弟をはじめ、一族の多くが医師・歯科医師だといいます。
山形県立新庄北高等学校卒業後、家業を継ぐべく日本大学医学部に進学させられました。
しかし、教授と相容れなかったことと、モダンジャズに耽溺して学業がおろそかになったことから、日本大学芸術学部に転部しました。
芸人『ケーシー高峰』の誕生
「耳に飛び込んできたのは、徳川夢声さんなどの番組。話す内容だけじゃないんだ。話の間や、タイミングまでが面白さにつながる。それが話芸だね。夢中になってラジオにかじりついているうちに、『いつか自分も』と芸能界に惹かれていきました」と後のインタビューで答えています。
1957年の日大卒業後、本格的に芸人を志し、漫才師・大空ヒットに弟子入り(一部資料では、リーガル天才に師事したとしています)しました。
コロムビア・トップ門下の大空はるか(後の青空はるお)と下ネタ専門の漫才コンビ「大空はるか・かなた」を組み、自らは「かなた」を名乗っていました。
コンビ解散後の1968年、「ケーシー高峰」に改名し、漫才時代同様のエロネタをかける漫談家に転身しました。
「セニョリータ」「グラッチェ」など怪しげなラテン系単語と、軽妙洒脱な下ネタを駆使し、『大正テレビ寄席』のセミレギュラー出演などを通じて、お茶の間の爆発的人気を博しました。
1969年には演芸番組『おいろけ寄席』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))の司会に起用されました。
「3つの袋」!!の『徳川夢声』とは?

ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物です。
本名は福原駿雄(ふくはら としお)で、日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長を務めました。
「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られています。
いわゆる「3つの袋」と言われる、結婚式のスピーチで定番の起源を作った人ではないかと言われていますが、その真相は不明です。
『3つの袋』とは?
『給料袋』
経済的に安定するため。
『堪忍袋』
ただ単に怒るのではなく、相手の意見も尊重したり一歩引いたりして、仲を円満にするため。
『お袋』
育てていただいた恩を忘れず、常に敬意を持って接しなさいということ。
※他に『胃袋』など諸説あります
意外や意外?!、俳優としての『ケーシー高峰』
1970年には役者として「冠婚葬祭入門」で映画初出演し、1977年にはNHK銀河テレビ小説「オリンポスの果実」でテレビドラマデビューを果たしました。
1970年代末以降、ピンク映画でヤブ医者役(必ず性病科か産婦人科)を演じるなど、コミックリリーフ担当の俳優として多くの作品に出演しました。
渋い脇役のこなせる性格俳優としても開眼し、『夢千代日記』(1981年、NHK)でのシリアスな演技が高く評価されました。
そのほか、『木更津キャッツアイ』(2002年、TBS)ではオカマのヤクザという極めて難しい役柄を演じてみせています。
初出演の『冠婚葬祭入門』
俳優業での鬱憤が芸風を変えた?!
俳優業でノーマルな役柄を演じることが増えるにつれ、その鬱憤を晴らすがごとく高座には更に磨きがかかり、従来の都会的(バタ臭くカッコ付ける)なスタンダップ・コメディ路線から、山形弁丸出しで恫喝まがいの客いじりをする泥臭い芸風に進化して、爆笑王の地位を不動のものとしました。
舌癌から奇跡の生還へ
2005年に白板症(舌癌)に罹患しましたが、完治させて復帰しました。
療養中にも関わらず予定されていた独演会を敢行した際は、パジャマにマスク姿で黒板を前に一言も喋らず身振り手振りと筆談だけで観客を魅了し、「私のがんは……子宮がんです」「病床でも、いつ女を抱けるかなと考えていた」「顔は悪性です」 などとギャグを飛ばし感服されました。
あるインタビューでは「紙を渡されて、“い、は、に、ろ、か……”と読んでいく。そこで僕は、“先生、別のを書いてきました”って。読んでごらんと言うから“お、ま、○、○”“バカ!”……。こんなことの繰り返し。入院中はネタばかり考えて、医者や看護師をつかまえては披露していた。これがいいリハビリになって、術後10日目で普通にしゃべれるようになった」と入院生活について語っています。
まだまだ現役で活躍中!!
80歳を超えた現在でも演芸番組の常連として活躍しています。
芸風はやや変化しており「グラッチェ」などは使用しなくなった一方、客いじりを織り交ぜつつ、駄洒落や下ネタを織り交ぜた高座を展開中です。
ケーシー高峰の漫談は、確かにエロく下品ではありますが、医事だけでなく、その時々の時事ネタを巧みに取り入れ、笑いによる痛烈な社会批判で、客たちに大きな共感を呼び起こす、高度な話芸といえます。
どんなネタをするかは舞台に出てから決めるそうで、「まず1分は、何にもしゃべらずにじっとお客さんを二階席から、みていくの。会場はそれだけで笑ってくれる。で、何をやるかを決める」と語っています。
下ネタ全開の芸風でその人気を不動のものとした『ケーシー高峰』ですが、陰ではいろいろな苦労をしながらもダンディズム極まる生き方をしているように思えました。