キリ取り(債権回収)が切っ掛けで!
横井英樹
1958年(昭和33年)、横井英樹(ホテルニュージャパンで有名な)の債務取立てのトラブル処理を請け負うが、その話し合いの席上での横井の態度(安藤さんを小バカにした)に激怒した安藤さんは、組員に横井襲撃を命じる(俗に言う横井英樹襲撃事件)。
安藤さんは35日間の逃亡生活の末殺人未遂罪で逮捕され、1961年(昭和36年)前橋刑務所に収監。
トップを失った安藤組は、警察の頂上作戦で幹部が逮捕されるなどあって規模縮小を余儀なくされ、そして3年後の1964年(昭和39年)、出所した安藤組長の意思で組は解散となった。
一部残党は解散後もしばらく東興業(安藤組)を名乗って活動していた。
前橋刑務所正門
俳優の道
1965年(昭和40年)、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向。
この作品がヒットを記録し、松竹と契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻さんを凌ぐ500万円で専属契約を結んだ。
松竹の子会社であるCAGに所属。
移籍も眼中なし!
安藤昇『安藤流五輪書』
現在でも俳優やタレントの事務所の移籍などは揉めますが、当時、安藤さんは松竹系に所属し11本の映画に出演されていました。
1967年(昭和42年)に突然、東映に移籍しました。
この移籍は本来なら五社協定違反であったが、映画界の慣習を知らない安藤さんが松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまった💦
後に松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持つように。
登板もシカト
網走番外地 吹雪の斗争
映画『網走番外地 吹雪の斗争』に出演した際、監督・石井輝男に無断で撮影現場を離れて帰ったことがあります。
石井監督は含むところもなく、安藤さんとこれ以降の映画でも仕事をしている。
石井輝男監督
武勇伝は数知れず・・・
賭場
安藤さんの著書や以前愛読していた実話時代でも安藤さんのエピソードは半端ない(大迫じゃないけど)ものが多かったのを覚えています。
現在では完全にOUTだけど安藤さんは俳優となった後も暴力団関係者との交流は続いており、友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕されています。
また、その時に警察署で警察官から著書へのサインを頼まれたというエピソードも。
モノホンのチャカ
任侠外伝 玄海灘