今回の参考図書。
経済至上主義が音楽にも及ぶ?。
この書籍で、著者富澤一誠さんは、このように記しています。
CDの時代になって、様々な名曲が入手しやすくなりました。しかし、曲の生まれた背景や流れというものが忘れられ、曲を買う側は、井上陽水でもサザンでもどの曲でも、同じ土俵で扱います。
今や大物になったアーティストにも、苦悩の時期があった人が多く、そういった背景を知るということも、また「純粋に音楽だけを聴く」いわゆる「消費」のような音楽の使い方から、曲を作ったのは「人間」であり、どういう背景でその曲が生まれたのだろう、ということを知る「生産」の過程を知るということも、なかなか面白いものです。
このように述べています。(要約に個人的感想を加えました。)
ヒットする曲の共通点。

学校の教科書にも載っていたようにも思いますが、この「戦争を知らない子供たち」という曲も、「聴き手に、自分の心を代弁している歌じゃないか?と思わせる曲」ではないかと思います。
両親や親戚が、戦争で大変な苦労をしたことは知っている。しかし、自分はその苦労を一切経験せず、経済成長を謳歌している。しかし、安保など、どうも日本はまた再軍備を進めていく方向に向かっているような気がしてならない。このままのんきに経済成長を謳歌していていいんだろうか、という気持ちが、人口ボリュームの非常に大きい「団塊の世代」の人たちの心に響いた結果、大ヒットしたのではないか、そういうように推測されます。
そして、団塊世代が大人になり、サラリーマンとして毎日毎日無機質に会社に向かうことに何か疑問を感じていた時代に、「およげ!たいやきくん」が、「毎日鉄板で焼かれて(=会社でこき使われて)いやになっちゃうよ」という暗喩の歌を歌って大ヒットします。
こうやって時代ごとに流行した歌を追ってみると、面白いものがありますね。
勝手な想像ですが、団塊ジュニア世代が親しんでいる曲(というよりサウンドと言ったほうがしっくりきそうですが)は、「どんな恋愛をしても自由なんだよ」というような、「自由、開放感」を歌った曲がヒットしているようにも思います。
マイク真木「バラが咲いた」。
この曲を発売したフィリップスは、「そんなに売れないだろう」と思っていたそうですが、あれよあれよという間に大ヒット。
アマチュアの学生フォークシンガーだったマイク真木はスターになり、若者の音楽だったフォークソングも初めてお茶の間にまで浸透することになった、エポックメーキングな歌です。
森山良子「この広い野原いっぱい」
この曲も、音楽の教科書には必ず載るような曲ですが、別に音楽の教科書に乗せようと作ったわけではなく、当時としては若者の聴く先端の音楽でした。
面白いヒットの仕方をした「帰ってきたヨッパライ」。
「帰ってきたヨッパライ」は、180万枚という空前の売れ行きをした曲ですが、面白い売れ方をしました。
「ミッドナイト・フォーク」というラジオ関西の深夜番組が、フォークのブームは去ったということで、打ち切りになっていました。
フォークは作り手の熱い思想が込められている曲が多く、そういうものを期待して聴いているファンの耳に、すでにこの「帰ってきたヨッパライ」は何回か届いていたのですが、フォークファンには、「またこのグループがおかしなことをやっている」くらいにしか思われていませんでした。
その後、一般向けの「若さでアタック」という午後の番組で、トラブルがあり予定された曲がかけられず、仕方なくこの「帰ってきたヨッパライ」を代理でオンエアしました。
深夜番組と違い、午後の番組は聴取者が主婦、OL、一般の大人という、フォークをあまり聴かない人たちが聴いていたので、歌の回転数を変えるというその奇抜な発想の曲に面白さを感じ、大反響を呼びます。
ラジオ関西で放送されたので、最初は関西で大ヒットしたのですが、徐々に東京にもその噂は伝わり、東京のレコード屋には、「レコードがないのか」という問い合わせが増えます。
そして、ニッポン放送「オールナイトニッポン」で取り上げられ、さらなる人気を呼びます。
そして、レコード会社間で前代未聞のすさまじい発売元争奪戦が展開され、東芝レコードから1967年12月25日に発売されます。
フォークを知らない人に、奇抜なかたちでフォークを伝えたこの「帰ってきたヨッパライ」は、社会現象にまで発展し、「アングラ(アンダーグラウンド)・フォーク」という言葉まで生み、フォークを知らない人にまでフォークの輪が広がっていきました。

トンデモ曲として売られた証拠に、このジャケットには、「これが話題のアングラ・レコード!」というあおり文句が付けられています。
本当に奇抜な曲を作ったものです。
「和製ビートルズ」と呼ばれる。
世界的ブームを起こした本家・ビートルズに触発されて音楽をやり始めた人が多いように、この「帰ってきたヨッパライ」の成功によってミュージシャンを志向した人が多く現れました。
そのため、フォーク・クルセダーズ(このジャケットでは、「クルセイダーズ」と記載されている。)は、「和製ビートルズ」と呼ばれています。
南こうせつにも影響を及ぼす。
当時高校生だった南こうせつは、フォーク・クルセダーズをとても身近に感じ、「彼らにできるんだったら、よし俺も!」と、オリジナル曲を作り、やがてかぐや姫を結成するようになります。

この曲「神田川」も、団塊世代が夢を見て上京した時代の、三畳一間の暮らしそのままの想い出を歌にして共感を受けたのでしょう。
(ちなみに、この歌の作詞は南こうせつさんではなく、ラジオの台本を書いていた無名の若者に過ぎなかった喜多條忠さんという方です。)
【70年代】かぐや姫の神田川の歌詞「三畳一間の小さな下宿」って今でもあるの?調べてみた! - Middle Edge(ミドルエッジ)