1987年8月9日、すさまじい記録が打ち立てられた。
この日、中日ドラゴンズの新人、近藤真一投手は巨人相手にプロ初登板をします。
中盤で味方から6点の援護をもらい、快投を続けた近藤投手は、9回ツーアウト、巨人の篠塚選手を三振に仕留め、プロ初登板・ノーヒットノーランという前代未聞の大記録を打ち立てます。
テレビ中継のあった巨人戦でもあり、日本中が度肝を抜かれた試合でした。

ノーヒットノーラン達成を伝えるテロップ。
今回は、こちらの書籍を参考にさせていただきました。
しかし、プロの世界はこのシンデレラボーイに微笑み続けてはくれませんでした。
近藤さんの通算成績
プロ通算8年で、そのうち3年目と最後の年は登板もなく、勝利投手になったのはデビューの1987年と1988年のみ。
通算52試合に登板、12勝17敗。通算防御率3.90がせめてもの意地でしょうか。
近藤さんに、一体何があったのでしょうか。
江夏二世と言われた男。

セ・リーグに革命の予感、という予言が的中した「週刊ベースボール」誌。
E107 週刊ベースボール1986年12/8号 ドラフト総... - ヤフオク!

江夏豊さん。
カルビー 74年 プロ野球カード №97 江夏 豊 - ヤフオク!
優勝請負人・江夏豊さんの再来との声が高かった近藤さん。
同じ左腕で、ダイナミックなフォームであることもさることながら、一種の「ふてぶてしさ」が、江夏さんに似ていることからそういう声があがりました。
この写真からはまだ高校生の爽やかさが見えますが、本に掲載されている、現在の近藤さんはかなり強面の男で、確かにその雰囲気は江夏さんに似ているところがあります。
その後も無傷で3連勝。
2試合目、広島相手に勝ち、3試合目。
近藤さんはこの3試合目の阪神戦が、自分のベストピッチと話しています。
1安打、わずか98球で勝利。その一打も岡田選手のポテンヒットのみ。
周囲も、「また近藤さんならやってくれる」という期待が高まります。
しかし、ここで3勝負けなしということは、結果的にこの後9勝で、近藤さんは引退ということになります。
いったいどうしたのか。
結果的に、大記録が仇に?。
周囲は近藤さんに絶大な期待を寄せます。
その見返りとして、近藤さんは、ヒットを打たれただけで、ノーヒットノーランのシーンを逃した観客からブーイングが飛んできます。
高卒ルーキーに、この過剰な期待がじわじわと仇になってくるのです。
手ごたえなど感じていなかったご本人。
周囲はヒットを打たれるだけでブーイングするほど期待したのですが、当のご本人は、「そりゃ試合で投げればヒットは打たれるに決まっている。」
プロとしての手ごたえなど、感じていなかったそうです。
力任せに投げていただけで、常に「打たれるんじゃないか」という不安はつきまとっていたそうです。
2度目の運命の巨人戦。
2度目の巨人戦。
桑田投手と投げ合います。
しかし、前回ノーヒットノーランを達成した相手の巨人から、手痛いしっぺ返しを食らいます。
投手の桑田さんから先制のホームランを打たれ、山倉選手からはスリーランを打たれ4失点。
わずか3回3分の2、5失点で降板。
プロの怖さをはじめて感じた一戦でした。

実は打撃もうまかった桑田さん。
ホームランも7本打っています。
その中の1本が、近藤さんを狂わすことになったのですね。
自分に迷いが生じる。
思い切り投げてきただけだった近藤さんは、はじめてKOされ、自分に迷いが生じます。
プロは少しでも甘く入ったら打たれてしまう。と、慎重さを自分に求めます。
しかし、近藤さんの持ち味は、がむしゃらで思い切ったピッチング。
慎重さを求めるあまり、その持ち味を見失ってしまい、ここから4連敗します。
その後、3回目の巨人戦では忘れていた感覚が戻ったのか、2-0と、またしても完封します。
数字ではルーキーイヤーは4勝5敗と、普通の数字ですが、その中身は、ノーヒットノーランあり、3連勝の後の4連敗あり、と、かなりジェットコースター的な1年でした。
バブル経済と近藤さんとの関係。
時はバブル経済。
プロ野球各球団とも羽振りがよく、オフシーズンは海外でキャンプをしました。
そこで、球団は、近藤さんに経験を積まそうと、フロリダにあるベロ・ビーチで行われたキャンプで、ちょうど同じ場所でキャンプをしていたドジャース相手のオープン戦にどんどん近藤さんを投げさせます。
しかし、この時のドジャースは、ワールドシリーズを制覇するほど強いチームで、近藤さんはボコボコに打たれてしまいます。
日本とアメリカとの野球の格差がまだ大きいこの時代、高卒2年目の投手が大リーガー相手にかなうわけがありません。
やがて近藤さんは自信を失います。

ドジャース オーレル・ハーシュハイザー投手。
オーレル・ハーシュハイザー - Wikipedia
「2年目のジンクス」という言葉のマジック。
自信を喪失したまま迎えた2年目。
開幕3連敗をした近藤さんは、「これが俗に言う2年目のジンクスか。このまま勝てないかも。」という思いが頭をよぎります。
「自分が研究されているのではないか。」と、フォームのクセを直すことばかりに気を取られ、ピッチングに集中できなくなっていました。
その後、近藤さんの持ち味であるストレートとカーブのコンビネーションを念頭に置いたピッチングを取り戻すと、オールスター前までに7勝を挙げます。
再び復活したように見えました。
大きな故障が見つかる。
オールスター休み明けの練習中、近藤さんに異変が起こります。
投手なのに、キャッチャーミットまでボールが届かないという、非常に不思議な現象。
そして後半戦最初の先発をした後の夜、激痛が近藤さんを襲います。
その後、痛み止めの措置をしながらなんとか投げるも、前半戦に7勝したにもかかわらず、後半戦は1勝しかできませんでした。
この年、中日は星野監督を擁し、後半戦を50勝15敗3分という驚異的なペースで勝ち、2位巨人に9ゲームの大差をつけて優勝します。
シーズン終了後、近藤さんはアメリカに検査のために行き、そこで世界的なスポーツ医学の権威、ジョーブ博士に、「重症だ。手術するしかない」という診断を受けます。
故障箇所は、利き腕の左腕の「関節包」というところが伸び切っているため、テイクバックするときにその膜が破れ、神経に当たり激痛を伴うというものでした。
復活への賭けも実らず。

メスを入れることは、野球人にとっては一生を左右する賭け。
メスのイラスト(刃物) | かわいいフリー素材集 いらすとや
手術をしたことで、可動域が制限され、胸が張れないためスピードが出ない。
上半身の強さだけでピッチングをしていたスタイルの近藤さんは、下半身のトレーニングがまだ十分ではありませんでした。
近藤さんの持ち味である、力いっぱい投げて抑えるというスタイルが出来ない以上、いくら技巧派に転向しようとしても、それは近藤さんの持ち味にはつながらないことでした。
スピードとしては、中日のレジェンド、山本昌さんと同じくらいの数字だったといいますが、技巧派と力投派では全然違うようで、近藤さんは、「技巧派になるくらいだったら辞める」という意識だったと語っています。
高卒1年目から活躍し続けることの難しさ。
おそらくもともと、類まれなる上半身の強さを持って、その才能が一気に開花したのが、ノーヒットノーランだったのでしょう。
そしてその「若さ」の貯金で、2年間で12勝を挙げた。
しかし、野球、特に投手は全身のバランスが非常に重要なアスリートなのだと思います。
高卒1年目で力の限り投げ続け、鍛え上げる時間が少なかったことが、近藤さんにとってウイークポイントになってしまった、結果論ですが、そのように推測されます。
恩師・星野監督のもとでスカウトに。

星野仙一さん(イメージ)。
中日ドラゴンズ★星野仙一監督77★フィギュア人形... - ヤフオク!
野手転向への話も出ましたが、近藤さんは恩師・星野仙一さんに相談します。
星野さんには、「お前は誰にもできないような記録を作ったんだから、ピッチャー近藤として辞めろ」と言われ、引退を決意します。
その後、近藤さんはスカウトを7年務めます。
7年間のスカウト時代で一番凄いと思った選手は誰か、と聞かれ、近藤さんは、「松坂です」と答えています。
近藤さんにとっても衝撃的だった松坂のデビュー戦。
詳しい情報が探せなかったので、yahoo知恵袋から引用します。
近藤さんに次ぐ衝撃的なデビューを飾ったのは誰?という質問です。
もちろん上のコメントは近藤さんのものではないですが、近藤さんは、デビュー戦ノーヒットノーランを自分の次にやる人がいるとしたら松坂かな、松坂がやらなかったら、しばらくは出ないだろうな」と、述べています。
まとめとして。
デビュー戦がノーヒットノーラン、しかも巨人戦というとてつもない記録を作った近藤さん。
現在も中日で仕事をされているようですが、どこに行っても、彼の背中に背負うものは、この記録です。
前人未到の記録を作った人間に、その後も女神が一生ほほ笑み続けるとは限らない、というのは、奇しくも今年(2018年)1月23日に、近藤さんのいる中日の入団が確定的になった松坂大輔投手のここ数年の活躍ぶりとて、同じことだと思います。
近藤さんは、手術したことを、貴重な経験、人生勉強、と述べています。
この記事のまとめに、近藤さんの言葉を引用したいと思います。
近藤さんの今後のご活躍も楽しみですね。
