【1983年阪急ドラフト1位】野中徹博さん【不屈の精神】

【1983年阪急ドラフト1位】野中徹博さん【不屈の精神】

1983年の阪急ブレーブスのドラフト1位、野中徹博投手。日本のプロ野球では数字こそ残せなかったものの、波乱万丈、転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がりの人生は人の心を打つものがあります。どんな選手だったのか、記事にしてみました。


野中 徹博さんプロフィール。

野中徹博さんは、昭和40年に愛知県一宮市で生まれました。一宮は名古屋にほど近く、野中さんは自然と中日ドラゴンズのファンになり、特に谷沢健一選手に憧れました。早くからその才能を見いだされ、高校では中京高校に入学、激戦区の愛知県で甲子園出場を果たします。そして阪急ブレーブスにドラフト1位で入団。ここまでは、順調な道のりでした。

(wikipediaでは)

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意中の球団ではなかった阪急ブレーブス。

野中さんは、愛知県出身の中日ファンであり、セ・リーグへの入団を希望していました。意中の球団はもちろん中日。しかし、中日は、こちらも愛知県・享栄高校の大型新人の藤王康晴さんを1位に指名。野中さんは阪急ブレーブスに1位で指名されます。
彼は落胆しますが、阪急は、野中投手にエースナンバー18番を提供するなど、最高の待遇で迎えました。
そして、「とにかくどの球団ででも、名を残すことが必要だ。」と、入団を決めます。

フォーム改造を命じられる。

しかし、当時の阪急ブレーブスは、黄金期からの世代交代の時期に当たっていて、コーチ陣の育成力もあまり育ってはいない、コーチになりたての人が就任していました。
二軍スタートだった野中投手は、そこで、「フォーム改造」を命じられます。
これが、彼の野球人生を大きく狂わせてしまいます。

レギュラーを獲るために必要なこと。

もちろんコーチも、将来の大器を育てようという一心でフォームを改造したのですが、それにより野中さんの持ち味を消してしまうことになります。新しいフォームに慣れることはできず、無理をして肩を壊してしまいます。
この時、野中さんは、「実力だけではなく、人との出会い、運が作用しなければ一軍で抜擢されることは難しい」ということを思い知ります。
高校のエース時代は、「俺の球を打てるなら打ってみろ!」という強気の投球ができていたのに、肩を壊して強い球が投げられなくなったこともあわせて、「何とか打たれないようにかわそう」と、精神面が弱くなっていることに気づきます。

不運の中、一度目の引退。

彼はわずかな望みをかけて肩の手術をしますが、肩の回復は果たせず、1988年の秋、球団が阪急からオリックスへと名前が変わる時に、野手への転向を命ぜられます。
しかし二軍では活躍したものの、戦力外通告を受け、わずか24歳で現役を引退します。

オリックスと言えば思い浮かぶのは、なんといってもイチロー選手です。彼を育てたのは仰木彬監督です。仰木監督は近鉄の野茂英雄投手も育てましたが、仰木監督のすごいところは、その選手の持ち味を生かし、フォーム改造をしなかった点にあります。野茂投手のフォームも、イチロー選手のフォームも、非常に独特の形をしています。それをそのまま生かした結果、2人とも海を越えて大活躍しました。

歴史にもしもはありませんが、もし野中さんがあと10年遅かったら、仰木監督のもとで育成されたら、違った結果になっていたのでしょう。歴史のいたずらのようなものを感じます。

温存した肩が、奇跡の復活を果たす。

引退後の野中さんは、東京に出て多くの職を経験しました。ラーメン店、訪問販売員、広告代理店、ロケバスの運転手。
サラリーマン生活も3年目を迎えるとき、「ドカベン」の水島新司さんの誘いを受け、草野球を始めます。
そうした中、たまたま関西地区のテレビ局の企画で、吉本興業の芸人さんと試合をやることになりました。
9回、野中さんはマウンドに上がります。不思議に肩も痛くなく、投げた速球が138キロを記録。その球を受けた元大洋の若菜嘉晴さんが、「お前、まだ現役行けるぞ!」と叫びます。

野中さんは、この出来事を、フィジカルとしての肩が回復したのもあるが、メンタル的な弱さ、迷っていたもの、悩んでいたものが野球をやめたことで吹っ切れたのだ、と言っています。

台湾のプロ野球で活躍。

トレーニングをし、野中さんは台湾の球団に入団します。28歳の時でした。
そして1993年4月、ロングリリーフをした試合でチームが逆転勝ちをし、勝利投手となります。
これが野中さんのプロ初勝利でした。
そして15勝4敗1セーブの成績を残し、日本の球界でも注目されます。

すんなりと日本復帰とはいかなかった。

しかし、勝ち頭の選手を、台湾の球団もおいそれとは日本に譲ろうとはしません。
在京の球団への入団も決まりかけていた時、台湾の球団が「自分のチームに保有権があるから、日本には行かせない」と言い張ります。
入団予定の球団は台湾に子会社を持っていたことから、台湾での会社の立場を考え、野中さん獲得を見送ります。
そして、新たに野中さんを獲得することになったのは、彼が幼いときから憧れていた、中日ドラゴンズだったのです。
ものすごい回り道をして、彼は意中の球団に入団します。

10.8決戦へ。

この年、野中さんはリリーフで活躍し、シーズンで一時10.5ゲーム差をつけられていた巨人に追いつく大きな原動力になりました。
そして10.8決戦。
6-3で試合には敗れましたが、ここまで逆転できた中日は、当然最後まであきらめず、逆転を信じて、1点の追加点も与えられません。
この試合の8回と9回の締めの場面に、過去の実績面では郭源治投手や鹿島忠投手などのほうが数段上であるにもかかわらず、高木監督は野中さんを指名します。
そして見事にこの2回を抑えます。
伝説のあの試合の、負け試合とはいえ締めくくりをしたのが野中さんだったとは、知りませんでした。

しかし、中継ぎは数字が出にくいポジションであり、今でこそ「ホールド」という数字が注目されていますが、当時は「0勝1敗1S」という3つの数字しか見られない時代で、1996年オフには再び戦力外通告を受けます。
2度目の解雇です。

野村再生工場で、見事初勝利。

野中さんは1997年、ヤクルトに入団します。監督は「再生工場」と言われた野村監督。
ここでこの年、監督の期待に応える活躍を見せ、5月27日の横浜戦で、中継ぎで登板し、チームが逆転し、勝利投手になります。
プロ在籍10年目の初勝利です。プロ入りしてから14年目、32歳。
この年44試合に登板、2勝3敗、防御率2.28、投球回数55回3分の1。チームの優勝に大きく貢献しました。

結局はビジネスは、人との出会いが大きなファクターになる。

野中さんは確かに類まれなる才能を持ち、甲子園でも活躍。
ドラフト1位で阪急に指名され、エースナンバーを背負う。
しかし、たまたま入団した阪急では、経験の浅いコーチにより才能をつぶされます。
そして、水島新司さんに出会い、若菜捕手に力を発見される。
中日では高木監督に抜擢される。
そして、再生工場、野村監督に出会い、また、野村監督の一番弟子、古田捕手に出会い、才能が開花。チームの優勝にも貢献する。

出会いは、たまたま、偶然が多いのですね。
しかし、それをモノにするかどうかは、野中さんが野球をあきらめなかったことにあるのではないでしょうか。
野中さんから学ぶことは、出会いがないのを嘆いていても仕方がない。これは運でしかない。
しかし、人生を変える出会いは必ずある。そこまでどれだけチャンスをものにする「気持ち」があるかどうか。
つまり、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という、どこかの漫画のセリフは、真実なのだということを体現してくれるのが、野中さんの生き様ではないかと思います。

あきらめたらそこで試合終了ですよ:スラムダンクの名言

野中さんは、現在は看板屋さんの会社で、上司として、部下を指導する立場のお仕事をしていらっしゃるそうです。
野中さんの記事を書いていて思うのは、「常に立ち止まっていない人だな」という感嘆です。
プロ野球をクビになったらすぐにラーメン屋からはじまりいろいろなサラリーマンをやる。そして野球のチャンスがあれば野球をやる。クビになったら次、そこで栄光をつかみまたそこをクビになったら次の仕事を、どれだけ畑違いのことでもやる。
数字では2勝のプロ野球選手ですが、その内容は、10.8決戦のクローザー(敗戦とはいえ、歴史的な投手でしょう。)でもあり、ヤクルト優勝の立役者でもある。
非常に内容の濃い人生だなあと思います。

チャンスがないからしょうがねえ、引きこもろう、という行動をとるのも自分、チャンスが「今」ないから次にチャンスが来るまで他のことをやろう、という行動をとるのも自分です。

今後も、野球以外のことになるのかもしれませんし、もしかしたら野球の監督になったりするのかも?しれませんが、野中さんのご活躍に期待したいと思います。

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