90年代に脚光を浴びた『山田かまち』
1992年に筑摩書房から出版された『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』により広く世間に知られるようになった山田かまち。
同書には生前に制作された山田かまちの詩や絵画が収められていた。鋭い感性を持った若き画家がこの世にいた事を多くの人々が知り、また、その人が15年も前にこの世を去っていた事を知ったのである。
山田かまちは荒々しくも純粋な絵を描き、没後に評価を受けるなかで天才と呼ばれた。

山田かまち
『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』のレビュー
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 悩みはイバラのようにふりそそぐ―山田かまち詩画集

『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』
かまちは若くして夭逝しましたが、 彼の完全燃焼し、悩みぬいて生きた人生は、純粋で心に届きます。 彼の飾り気のない絵や詩を素直に感じませう。
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山田かまち、17年間の人生
1960年7月21日生まれ、群馬県高崎市出身の山田かまち。
幼い頃から絵の才能を発揮していた。
小学校3年生の時に、東京芸術大学出身の竹内俊雄(後に新島学園高校の美術科非常勤講師)がクラスの担任になった。冬休みの宿題である動物の絵(約30枚)を1時間あまりで書き上げたという。
16歳の1年を浪人し、前橋市の英数学館に通った(当時の群馬県では、高崎高校や前橋高校といった難関県立高校を目指して中学浪人をする者がいた)。
1977年、群馬県立高崎高等学校に入学。友人数人と、学園祭で映画を制作し出演するなどしていた。

筑摩書房「山田かまちのノート〈上〉」
同高校1年生の17歳の8月、自室で父親からもらった誕生日プレゼントのエレキギターを練習している最中に死亡した。昼食の呼びかけに息子が答えなかったため、母親が部屋を訪れると息子が倒れているのを発見した。
改造したギターのコードが身体に触れたのが原因の感電死だった。猛暑のなか、上半身裸のまま倒れていたという。
17歳になったばかりで亡くなった山田かまちだが、作品数は膨大で、スケッチブックやノートに約1000点程のデッサンや水彩画、詩を残している。

筑摩書房「山田かまちのノート〈下〉」
「かまち」の名前の由来

筑摩書房「文庫 山田かまちのノート 上・下セット」
死後に全国的な知名度を獲得した山田かまち
1981年の4回忌と1989年の13回忌に小さな展覧会が開かれた。それは知人らに向けられたものだったが、13回忌の展覧会で彼の作品に衝撃を受けた広瀬毅朗画廊によって、1992年に高崎市片岡町に「山田かまち水彩デッサン美術館」が設立された。
その後、同年12月に前述の『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』が発売され、山田かまちの名前が全国に知れ渡る事になった。

集英社「17歳のポケット」
知名度を獲得すると、テレビ番組も取り扱うようになり、スーパータイム(1992年9月1日放送)、午後は○○おもいッきりテレビ(1993年8月10日放送)、知ってるつもり(1996年4月21日放送)、3時間感動スペシャル帰らざるスターの栄光と挫折!最後の瞬間!!(1997年10月2日放送)などで紹介されている。
山田かまちが死後に人気を獲得した事について精神科医のなだいなだは、「暗闇の中に浮かぶ小舟のように孤独な一七歳の心に、かまちの作品はメッセージを投げかけるのだ。強烈な閃光を」と述べている。
BOØWYの氷室京介とは幼馴染。名曲「MORAL」は山田かまちの事を歌っているとされている
BOØWYの氷室京介(かつては氷室狂介)は、山田かまちとは幼稚園から中学校までが同じという幼馴染だった。
お互いの家に行き会う仲で、怪獣ごっこなどをして遊んでいたそう。
中学生になってからは、BOØWYのメンバーとなる松井常松も含め、よく音楽の練習を行っていたという。ギターの弾ける山田かまちは電話で呼び出されては参加していた。
1977年8月10日、山田かまちが亡くなった日。
氷室はBOØWYの前身バンドの合宿で志賀高原にいたが、朝山田かまちの訃報を知り、すぐに高崎へと戻った。氷室はすぐに山田かまちの実家を訪れ、祭壇の前に座り込んだ。
そして、山田かまちの母親に「おばちゃん、かまちはハードロックでした……」と言った。それからは俯いたままだったと、母親がメディアの取材で述べている。

氷室京介が山田かまちに向けて書いた手紙
山田かまちの死後、氷室は80年代を席巻するロックバンド・BOØWYのボーカルとして、1982年3月にファーストアルバム「MORAL」(モラル)を発売する。
このアルバムの10曲目に収録されたアルバム名と同じ「MORAL」は、人間の二面性をテーマにした2分20秒の曲であった。一般に同曲は山田かまちの事故死を元に歌詞が作られたと言われている。
”人の不幸は大好きサ ””あいつが自殺したって時も俺はニヤッと笑っちまった”など、一見友人の死に対して不謹慎と思われる歌詞であるが、氷室流の親しい友人を偲ぶ、ロックでモラル(道徳的)な方法なのかもしれない。
宮沢賢治やゴッホのように死後、名声を得た山田かまちであるが、彼らと異なる点はまだ大人になっていない思春期ど真ん中で亡くなっている点である。
彼の絵を観ると、その将来の可能性をどうしても期待せざるを得ない。その若くして未完で終わってしまった背景がより、私たちを山田かまちへと惹きつけてしまうのだろう。
2004年には映画「かまち」が制作され、公開された。また、2014年には山田かまち水彩デッサン美術館が高崎市の市営施設となり、「高崎市山田かまち美術館」に改称されるなど、没後約40年が経ってもその人気ぶりは今なお健在だ。

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追記
群馬県高崎市の老舗楽器店「赤羽楽器」が2016年2月に閉店した。
同店には氷室京介、布袋寅泰、松井恒松といったBOØWYの面々も通っていたという。
また、山田かまちの最後のギターも同店で購入されたという。
さらに山田かまちの作品を起用した「ドローイングンマ」の企画が2019年3月末から開始された。“ドローイング”と”群馬”を組み合わせた造語で、「自画像」を通して「自分らしく生きることとは何か」を考えるというもの。
「ドローイングンマ 〜激しく美しく生きろ〜」特設サイト
https://www.jomo-news.co.jp/drawingunma/