Marianne Faithfull

マリアンヌ・フェイスフル
スウィンギン・ロンドン時代のアイドル・シンガーとして可憐な歌声を聞かせたマリアンヌ・フェイスフルは、1946年に大学教授の父親とマゾッホの血筋を引くオーストリアの名門貴族の家系の母親との間に生まれています。そうなんです。マリアンヌ・フェイスフルは上流階級の出身なんです。気品が備わっているはずですね。
後に結婚することになる当時ケンブリッジ大学の学生だったジョン・ダンパーと知り合ったのがはマリアンヌ・フェイスフルが16歳の時でした。
そして1964年3月、ジョン・ダンパーとともに運命のパーティに参加することに。そこには、ザ・ローリング・ストーンズのマネージャー兼プロデューサーのアンドルー・ルーグ・オールダムとミック・ジャガーが居たのです。
アンドルー・ルーグ・オールダムは、清楚なマリアンヌ・フェイスフルのアイドルとしての可能性を見抜き歌手としてデビューすることをすすめます。
因みに、当時のマリアンヌ・フェイスフルは、ロックやポップスよりもマイルス・デイヴィスをはじめとしてジャズが好きだったとか。
結局、ジョン・ダンパーが説得したことでマリアンヌ・フェイスフルはシンガーとしてデビューすることになります。
Come My Way
マリアンヌ・フェイスフルのためにアンドルー・ルーグ・オールダムが用意した曲は、当時まだ未発表だったザ・ローリング・ストーンズの「As Tears Go By(邦題:涙あふれて)」でした。
この曲は、1964年5月28日に録音され、6月26日にリリースされ、全英9位、全米22位とヒットしました。
特別歌が上手いといったわけではありませんが、可憐な歌声が曲とマッチしたのでしょう。そういった意味では、アンドルー・ルーグ・オールダムの思惑どおりだったといえますね。
デビュー曲「涙あふれて」の後に2枚のシングルをリリース(共にヒット)し、1965年4月15日にファースト・アルバムをリリースします。
ファースト・アルバムといっても、同じ日に「カム・マイ・ウェイ」と「マリアンヌ・フェイスフル」という2枚のアルバムを同時発売しています。当時としても異例のことですが、期待の大きさとアンドルー・ルーグ・オールダムのしたたかさがみてとれます。
この2枚のアルバムは性格分けが明確にされており「カム・マイ・ウェイ」はフォークシンガーとしてのマリアンヌ・フェイスフルにスポットを当てたもの、一方「マリアンヌ・フェイスフル」の方はポップ・アイドルとしてのマリアンヌ・フェイスフルとなっています。
これまたアンドルー・ルーグ・オールダムの思惑どおり、アルバムは2枚ともヒットしています。流石ですね。

カム・マイ・ウェイ

マリアンヌ・フェイスフル
「涙あふれて」と共にアルバム「マリアンヌ・フェイスフル」に収められている3枚目のシングル「カム・アンド・ステイ・ウィズ・ミー」が結果的にはマリアンヌ・フェイスフル最大のヒット曲となります。
大きな渦に巻き込まれるようにショウ・ビジネスの世界に引きずり込まれたマリアンヌ・フェイスフルは、ツアーにもでるようになり多忙を極めます。
そんな中、売り出し中の可憐なアイドルが1965年に18歳でジョン・ダンパーと結婚、その時には既に妊娠していました。
当時のイギリス、しかも厳格な英国貴族の血を引いていたマリアンヌ・フェイスフルは、マスコミの格好の餌食となり、世間からの風当たりも強くなります。
Broken English
1966年になると、ザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーと一児の母親という身でありながら不倫に走ってしまいます。二人の関係はスウィンギン・ロンドンを象徴するカップルとして連日のようにマスコミを賑わせましたが、アイドルとしてのマリアンヌ・フェイスフルには赤信号が灯り始めることになります。
そんな中、リリースされた3枚目となるアルバム「妖精の歌~マリアンヌ・フェイスフル フォーク・ソングを歌う」は内容としてはファースト・アルバムよりも良い出来だったにも関わらずヒットしませんでした。

マリアンヌ&ミック・ジャガー
峰不二子という女・マリアンヌ・フェイスフルとミック・ジャガー - NAVER まとめ
1967年2月にはザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャードの自宅で行われていたパーティに参加していたところを警察に家宅捜査され、麻薬不法所持の容疑で逮捕されてしまいます。この事件は泥沼の裁判となり、マリアンヌ・フェイスフルの精神を蝕んでいくことになります。
同年リリースされた4枚目のアルバム「ラヴ・イン・ア・ミスト」もヒットしませんでした。当時はシングル・ヒットが出なくなっていたマリアンヌ・フェイスフルの売り方の見直しが行われており、ミック・ジャガーとの関係をプロモーションと考え、メディアへの露出を図り、シンガーとしてよりも女優として売り出そうとします。

ラヴ・イン・ア・ミスト
アルバム「ラヴ・イン・ア・ミスト」は、ヒットしなかったことで逆に希少価値が出て、今日ではこの時代でマリアンヌ・フェイスフルのもっとも人気の高いアルバムとなっています。
なんといっても当時の雰囲気いっぱいのジャケットが人気の秘密ですね。
女優としては、ゴダールの「 メイド・イン・U.S.A 」、アンナ・カリーナとセルジュ・ゲンズブールのW主演の「アンナ」などにちょこちょこと出演するようになっていますが、何と言ってもこの時期の代表作といえばアラン・ドロンと共演した「あの胸にもういちど」でしょう。全裸に黒皮のライダースーツ着こんでバイクを乗り回すというヒロイン役ですが、これがルパン三世の峰不二子のモデルと言われています。

あの胸にもういちど
そして有名なマーズ・バー スキャンダルが起こります。これは全裸でオーバードースになって倒れていたマリアンヌ・フェイスフルが警察に見つかり、全裸写真が新聞にまで掲載されてしまったという大スキャンダルのことです。堕ちた天使とマスコミは騒ぎ立て、マリアンヌ・フェイスフルのアイドル生命はここで終わります。
精神的に追い詰められ、ミック・ジャガーとの子供を流産し、更に精神が不安定となり自殺未遂を繰り返し、ドラッグの量は増えていきます。そして麻薬で何度も逮捕されています。
一時期は理想のカップルと言われたミック・ジャガーとは1970年に破局し、このことで男性不信に陥り、アルコール中毒にもなってしまいます。
そして、この状態が70年代半ばまで続きます。
転機が訪れるのは1977年にリリースした10年ぶりのアルバム「ドリーミン・マイ・ドリームス」です。イギリスではファンからもマスコミからも見向きもされませんでしたが、アイルランドではシングル・カットされた「ドリーミン・マイ・ドリームス」がなんと7週連続1位となるビッグヒットを記録したのです。
そしてマリアンヌ・フェイスフルの最高傑作「ブロークン・イングリッシュ」が1979年にリリースされます。

ブロークン・イングリッシュ
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ここにはデビュー当時の可憐でいかにもアイドルといったマリアンヌ・フェイスフルはいません。酒と煙草そしてドラッグによりハスキーでドスのきいた声に変わっていることに先ず驚きますが、更に政治や赤裸々な性描写で歌われる楽曲には鬼気迫るものがあります。
シンガーとして新たな表現力、ソングライターとしての圧倒的な魅力を手に入れたマリアンヌ・フェイスフル。それまでのファンに衝撃を与えるとともに、新たなファンを獲得しアルバムはヒットしました。
いつ亡くなってもおかしくない状態からの奇跡のカムバック!しかも、それまでとは全く異なる魅力を身にまとって!つらい経験があったからこそ言葉のひとつひとつにリアリティを感じることが出来ます。素晴らしいです。
マリアンヌ・フェイスフルは、ミュージシャンとしても女優としてもコンスタントに今日まで質の高い作品をリリースし続けています。