隆の里 俊英(たかのさと としひで)とは
横綱隆の里の不知火型土俵入り
二子山親方(初代若乃花)に見出され二子山部屋に入門!!
”病魔”との戦い
若い頃からとにかく酒が好きで稽古の途中で抜け出しビールを一気飲みするなど日常茶飯事、稽古が終わればビールを3本飲み、ちゃんこと一緒にウィスキーを飲むという食生活であったという。
未成年力士の飲酒は黙認されていた時代だっとは言え、当然体に良いわけはなく72年秋の健康診断で糖尿病が発覚してしまう。
この時、既に幕下の地位にあった。幕下ながら稽古場では兄弟子の大関・貴ノ花をも互角に稽古する地力をつけていたが、よく食べてよく稽古するのが力士の強くなる条件だが、それが困難になってしまった。当時の隆の里は「稽古場大関(横綱)」と呼ばれ、関係者の間では実力者であることは認識されていた。
「エレベーター力士」と揶揄される!!
隆の里は,糖尿病が治まると好成績を収めて番付を一気に上げてくるが,ひとたび,病いに襲われると,またまた,番付を駆け落ちていく。そんなことを長い間,くり返した。だから,「エレベーター力士」とも言われた。糖尿病さえなんとか克服できれば,とかれは必死だった。だから,かれにとっては,糖尿病の治療薬・インスリンという注射はなくてはならない必需品であった。医者の指導のもとに,薬と注射器を持ち歩き,自分で体調とにらめっこしながら,注射を打ちつづけてきた。
一念発起し、病との闘いを開始する!!
若い頃の隆の里
隆の里 俊英 力士情報
力士にとって致命傷とも言える糖尿病。発覚しても隠す力士も少なくないが、隆の里は師匠に申告し、73年夏入院。一時は自暴自棄にもなったが、担当医から「高谷さん、先日、二子山親方から電話がありました。『先生、どうか隆の里を助けてやってください。隆の里は糖尿病さえ治れば、横綱、大関を目指せる力士なんです・なんとか隆の里を治してやってください』。そうおっしゃっていました。ですから、決してあきらめず、頑張りましょう」。
見捨てられたものと思っていた隆の里は一念発起し病との闘いを開始。そのため,かれは,医学書を読み漁ったという。そして,自分の病気がなにが原因で,どういう理由で,どういう構造で発症したり,治まったりするのかを徹底的に勉強し,担当の医者に,ほとんど玄人はだしの質問をぶっつけたという。力士生命をかけた勉強なのだ。ただの読書とはまったくレベルが違う。人間,必死になると,ふだんとはまるで違う,驚くべき能力を発揮するものだ。こうして,隆の里は「糖尿病博士」となった。食事療法にも熱心に取組み,栄養学にも通暁していたという。
入幕から大関まで
念願の『おしん』横綱へ
1968年の7月場所で初土俵。以来何年も番付を上下しながら,少しずつ地位を上げ,1983年の7月場所後に第59代横綱に昇進。じつに,15年の歳月を要して,最高位にだどりついた。病気との闘いに耐えて,鍛えぬかれた,筋肉もりもりのからだを揺さぶりながら土俵の上を歩く姿から「ポパイ」の愛称ももらっている。
ウルフ”千代の富士”の天敵になる!!
横綱としての2年半
親方として
ありし日の鳴戸親方(隆の里)
59歳の若さで急死する!!
逆境にもめげない心・技・体に脱帽!!!
隆の里は,相撲人生に不満はないが,じつは,大学に進学したかった,と引退後に述懐している。読書好きで,手当たり次第に本を読んだという。そのうちに,経済学に興味をもち,膨大な経済学に関する専門書を買い集め,せっせと勉強していたという。経済学部を卒業したという駆け出しの新聞記者に出会うと,経済学についての教えを乞うたという。しかし,みんな隆の里の知識の量に圧倒された,という話も有名である。仲良くなった記者は,隆の里の部屋まで連れていかれ,その蔵書をみて唖然とした,という。
糖尿病という病魔と闘いながら,まじめに人生を考え,相撲しか知らない「相撲バカ」になることを恥じた。だから,時間を惜しむようにして,さまざまな分野の本を読んだ。そして,とにかく人間として生きる道を求めたのだ。さらには,絵画の才能にもめぐまれ,しばしば絵筆もとった。なかなか風情のある横綱だったのである。土俵上で,ときおり,ちらりとみせる,どこか恥じらいにも似た挙措が,ポパイのような筋肉もりもりの肉体とは裏腹に,とても繊細なものに感じたからである。