ファン・セバスチャン・ベロン
アルゼンチン代表として3大会に出場した名選手。
ポジションはMFで、屈強なフィジカルと正確無比なパスでセリエA、プレミアリーグと強豪リーグを渡り歩いた。
状況に応じて長短織り交ぜたパスを供給し、強烈なシュート、柔らかなアシストなど自在なキックを駆使したゲームメイカー。長年に渡って活躍した。

フアン・セバスティアン・ベロン

左がベロン(VERON)!真ん中がメッシ!!
父親は「ブルッハ」( 魔法使い)の愛称で親しまれたファン・ラモン・ベロン。アルゼンチンの名左ウイングだった。
息子のベロンは「ブルヒータ」(小さな魔法使いの意味)と呼ばれ、父譲りのテクニックで世界にインパクトを与えた。
また、アルゼンチンでファンが彼に対して送る応援歌も父のそれと同じく、魔法使いの魔法を期待するものであった。
ちなみにウルトラマンタロウに登場する「ベロン」とは一切、関係ない。

ベロンベロンに酔っぱらったベロン

タロウが水をぶっかけた!
サッカーのベロンと言えば、スキンヘッドがトレードマーク。
若い頃は不良少年であり、自転車泥棒を行うなど荒んだ時期もあったが、サッカー選手として成功を収めてからは故郷に学校を設立するなどの慈愛に溢れた側面も見せている。
また、南米の英雄チェ・ゲバラを敬愛し、右肩にチェのタトゥーを入れている。

右がボール、左がスキンヘッド
1998年フランスワールドカップで日本と対戦!
日本が悲願のワールドカップ出場を果たした1998年のフランスワールドカップ。
「グループH」で日本と同じ組に入ったのが、優勝2回を誇るアルゼンチン代表だった。
両チームは初戦で対戦。NHK中継でのキックオフ時、「世界と初めて戦うことを許された日本代表」の名フレーズも生まれた歴史的一戦だった。

前列一番右で吠えてるのがベロン!
試合はゴール前の混戦から名波のクリアミスをストライカー・バティストゥータが冷静に決め、1-0でアルゼンチンが勝利した。
ベロンはこの試合、攻撃的MFで出場。やや下がり気味の位置でボールをさばき、チームに落ち着きを与えていた。また、積極的にロングシュートを放つなど初戦ということもあってか、やや攻撃力に欠けるチームを活気づける役割も担っていたように思う。

対する日本代表
セリエAで活躍したベロン!!
ベロンは、1993年に父も所属したエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタでプロ選手としてのキャリアをスタートさせた。
そして1996年にかつてマラドーナも所属したアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズに入団。
それから僅か17試合の出場で、当時最強リーグであったセリエAのサンプドリアへの移籍が実現した。当時弱冠21歳の若き才能を世界が認めたのである。
移籍したサンプドリアでも継続して良いプレイを見せ続け、フランスワールドカップ後に当時強豪になりつつあったパルマへと移籍した。

エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ時代

パルマ時代
パルマでは1998-99シーズンにコッパ・イタリアとUEFAカップの2冠を達成するなど、チームの成功に大きく貢献した。
また、同じアルゼンチン代表でもあったエルナン・クレスポが在籍しており、二人は同い年ということもあってか公私ともに仲が良く、親友として知られていた。
その翌シーズンは、セリエA「ビッグ6」の一角ラツィオに移籍し、スクデット(リーグ優勝)、コッパ・イタリア、スーペルコッパ・イタリアーナの3冠を飾った。2000年にはクレスポが移籍してきて、再度同僚となっている。
ベロン自身、ラツィオ時代を振り返ると、サッカー選手として最も重要なステップであり、ラツィオのユニフォームを着たことを誇りに思っているそう。また、チームを自分の”家”と表するほどに愛着を持っている。

ラツィオ時代

「ベロンとクレスポDVD ~98/99パルマ、99/00ラツィオ他」
プレミアリーグにイングランド史上最高額で移籍!!
2001年7月、イングランド・プレミアリーグの世界的なビッグクラブ、マンチェスター・ユナイテッドへ移籍。移籍金はイングランド史上最高の2810万ポンド(約50億円)であったと言われている。
しかし、この移籍は必ずしも成功とは言い難く、怪我や異国でのプレースタイルの違いもあったのか、セリエAでのような活躍ができなかった。
2002-03シーズン、プレミアリーグで優勝したが、本来の実力は発揮できなかった。
ベロンは「私はフットボールの面での順応に手を焼いたし、1シーズンにおける試合数の多さにも苦しんだ。試合中は常に激しくて、戦術的で守備的なイタリアとは大違いだったよ。イングランドはオープンで、ボールを奪って縦に仕掛ける。よりフィジカル的だったね」と述べている。

マンチェスター・ユナイテッド時代
2003年には同リーグで大型補強も当時大きな話題となったチェルシーに移籍。ここで三度クレスポとチームメイトとなった。
ここでも怪我に悩まされるが、2004年にはペレが選ぶFIFA 100(偉大なサッカー選手100人)に選出されている。
以降は、2006年6月、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートしたエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタに復帰。
33歳ながら、2008年に南米年間最優秀選手賞を獲得する活躍を見せた。また、FIFAクラブワールドカップ2009にも出場し、決勝で欧州代表のFCバルセロナに敗れて準優勝だったが、この年には2年連続の南米年間最優秀選手賞に輝いている。
この大会後に世界各国からオファーが舞い込み、破格のオファーもあったが、ベロンは全て断り、チームへの愛情を示した。
2011年10月7日に引退。しかし、その後、復帰を繰り返し、2016年末には3度目の現役復帰との報道もなされた。チームはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタで、正式に選手契約を結んだという。
ちなみに2014年からチームの会長に就任している。

近年のベロン。若い頃から髪型が変わっていない!
ベロンのキックの精度の高さが分かる動画
ベロンはピッチに”君臨する”という雰囲気を常に漂わせていた選手だった。
彼に集められたボールが緩急織り交ぜながら、ピッチ上を縦横無尽に展開された。
また、マラドーナがアルゼンチン代表を去った後の、次世代のスター選手でもあった。
アルゼンチン代表のサッカー選手に関する特集記事
【サッカー列伝】エルナン・クレスポ 浮き沈みが多かったですが、得点感覚に優れた非常に良い選手でした。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
【サッカー列伝】獅子王ガブリエル・バティストゥータは、引退後にプレーの代償と戦っていました - Middle Edge(ミドルエッジ)
フランスW杯で日本と対戦したアルゼンチン代表の問題児・オルテガ! - Middle Edge(ミドルエッジ)