ゲーリー・ムーアの生い立ちとギタリストとしてのルーツ
ゲイリー・ムーア出生

サッカーではマンチェスター・ユナイテッドの伝説のフォワードだった故ジョージ・ベストと同じく、北アイルランドのベルファストで1952年4月4日に生まれる。
父親は地元で有名なプロモーターでクラブの経営などに携わっていた。
小学生の頃ピアノを習い始めるが教師と合わず挫折。10歳の頃にギターを始める。
当初はシャドウズのコピーに明け暮れるが、やがてジェフ・ベック、エリック・クラプトン、さらにジミ・ヘンドリックスなどの影響を受け始める。
後に、白人系ブルースギタリストのピーター・グリーンから強い衝撃を受け、プロギタリストになる決意を固める。
ゲーリー・ムーア自身は、一つのバンドに長く身を置くことなく様々な場を求めて求道する孤高のギタリスト。
バンド活動早くも弱冠14歳で始動
スキッド・ロウ時代初期
1966年、The Beat Boysというグループで、父親の経営するクラブにレギュラー出演する。当時は弱冠14歳。
1968年、交通事故で演奏ができなくなったギタリストの代役として、ベルファストのアマチュア・グループであるザ・メソッドに加入。当時は弱冠16歳。
ダブリンをツアー中に、キッド・ロウに加入。当時のメンバーはブレンダン・シールズ、ノエル・ブリッヂマン、フィル・ライノット。そこにゲーリー・ムーアが加入した形。
1969年、スキッド・ロウはアイルランドのレコード会社から、フィル・ライノットをボーカルに据えたシングルでメジャー・デビューした。
ムーアが作曲した "Misdemeanour Dream Felicity" が彼のキャリアにおいて最初のシングルとなる。
スキッド・ロウでライノットの解雇後、フリートウッド・マックの前座を務めた際にピーター・グリーンに気に入られ、CBSとの契約を勧められる。
スキッド・ロウ時代後期
1970年スキッド・ロウは、「英国のキング・クリムゾンに対するのアイルランドからの回答」として売り出された、アルバム「SKID」をリリース。
アメリカツアーも2回敢行、2度目のアメリカ・ツアーではフィルモアにも出演。
1971年夏、34時間でレコーディングされたセカンド・アルバム「34 Hours」をリリース。ヨーロッパへのツアー、3作目のアルバムを録音直後、ゲーリー・ムーアはスキッド・ロウを脱退。
1972年、ロンドンでザ・ゲイリー・ムーア・バンドを結成、1973年5月、初のリーダー・アルバム「グライディング・ストーン」をリリースするもセールスには恵まれずグループは自然消滅。
シン・リジィ参加
1974年1月、スキッド・ロウ時代の旧友フィル・ライノットに頼まれ、数ヶ月間ギターリストのエリック・ベルの代役としてシン・リジィの活動を行う。
在籍中のライブでは既にグループの次作で数曲を演奏。4作目のデモ・レコーディングも残した。

コロシアムIIの結成
同年5月、コロシアムのドラマー、ジョン・ハイズマンとともに新たなバンドを結成すべく人選を開始。
ドン・エイリー、ニール・マーレイ、ジョン・モールらとともにジャズ・ロック・バンド:コロシアムIIを結成し、1976年から1977年にかけて3枚のアルバムを残す。
シン・リジィに再び参加
名曲「パリの散歩道」は永遠なり

1977年1月コロシアムⅡ在籍のまま、再びシン・リジィに参加。
1978年8月、シン・リジィに正式加入、コロシアムIIに在籍したまま、ソロ名義でMCAと契約し、9月、初のソロ名義作品「バック・オン・ザ・ストリーツ 」をリリース。
UK・アルバム・チャートで70位を記録する。自作のインストゥルメンタル曲の他、ライノットとの共作曲を収録。
なかでもピーター・グリーンから譲り受けたギブソン・レスポール・スタンダード(1959)による演奏が印象的な「パリの散歩道 」はUKシングル・チャートで8位と最高位を記録する。
冒頭で触れたが、フィギアの羽生結弦がソチ五輪のSPで使った曲が「パリの散歩道」。
この曲の作詞は、フィル・ライノット。
12月、シン・リジィ、「ブラック・ローズ」のレコーディング開始する。
1979年2月、「ブラック・ローズ」リリース。 しかし1979年7月4日、US・ツアー中にマネージメントに嫌気をさしてグループを離脱。
グレッグレイクとの邂逅

元キング・クリムゾンのグレッグ・レイクのソロ・プロジェクトに参加。
レイクの復活ツアー・メンバーにゲーリー・ムーアがバンド・マスターを任されて、ほかにテッド・マッケンナ、レイクやリスタン・マーゲッツが参加。
ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは楽曲を提供することで、レコーディングの報酬を得た。
ソロ活動に軸足を置いて
ヴァージン・レコードと契約してイアン・ペイス(ディープ・パープル)を加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場。
1979年3月録音にとりかかったレコーディングは9月、「コリドーズ・ オブ・パワー」としてリリースして最高位UK30位を記録した。
日本マーケットでは
日本でのブレイク

1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。
来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという豪華な顔ぶれであった。
プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組「ベストヒットUSA」に出演、シンコー・ミュージックから「100% Gary Moore」なる特集/スコア本も発刊された。
1983年、日本公演を収めたライヴ・アルバム「ロッキン・エヴリ・ナイト」が日本のみで発売された。同アルバムはオリコンLPチャートで15位を記録している。
なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、未発表作品を含めて「Live at Marquee」、「Dirty Fingers」として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライブ・アルバム「We Want MOORE!」の日本発売は見送られた。
少し飛ぶが、1986年本田美奈子に楽曲提供した(「the Cross -愛の十字架-」: 原曲「クライング・イン・ザ・シャドウ」は、日本ではムーア本人のレコーディングでもリリースされている)している。
さらに日本マーケットが盛んだったこの1988年には、ヴァージン・レコードの日本配給先(当時)であるビクター・レコード契約の歌手浜田麻里が、ムーア作の「LOVE LOVE LOVE」(ギターは松本孝弘が演奏)を録音。
羨望のギターヒーローに

世界各地の公演でスタンディングオベーションに
それは、1984年初頭、ソング・ライターのニール・カーターとの共同作業で制作された「ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー 」をリリースから始まる。
2月に初の武道館での公演を含む2度目の来日公演をおこなった。
メンバーはカーターにイアン・ペイス、クレイグ・グルーバー(エルフ、レインボー)。
1984年イアン・ペイスはディープ・パープル再結成のためバンドを去り、7月のアメリカ・ツアーはセッション・ドラマーを起用して続行された。
12月、北アイルランドのベルファストのアルスター・ホールにて凱旋コンサート。
アンコールでの盟友:フィル・ライノットとの共演がハイライトとなった。
この演奏の模様はドキュメント・フイルム、「エメラルド・アイルス」に収められてリリースされた。
さらに1985年のマンチェスター公演 は大成功を飾った。
盟友:フィル・ライノットとの再活動

1985年、ライノットとの共演シングル「アウト・イン・ザ・フィールズ」をリリース。
2人の共演は話題を呼び、イギリス国内で最高5位を記録するヒットとなった。
9月には「ラン・フォー・カヴァー」をリリース。
同月からの数公演でライノットがスペシャル・ゲストとして参加。
メンバーはニール・カーター、ボブ・ディズリーにゲイリー・ファーガソン。
10月に3度目の来日公演をおこなっている。
盟友ライノットの死に捧げる
1987年には故郷のアイルランドを主題としたアルバム「ワイルド・フロンティア 」をリリースし、ノルウェーのアルバム・チャートで1位を記録する。
このアルバムは、前年に亡くなった盟友フィリップ・ライノットに捧げられた。
7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組「夜のヒットスタジオ」に出演した。
アフター・ザ・ウォーのリリース
1988年初頭、前作の路線を引き継いだニュー・アルバムのレコーディングを開始。
オジー・オズボーン、サイモン・フィリップス、コージー・パウエルらが参加した。
テーマはアイルランド紛争で、「アフター・ザ・ウォー」は、イギリスとアイルランドの休戦に達したベルファスト合意後の1989年にリリースされた。
ブルース路線への回帰
スティル・ゴット・ザ・ブルースのリリース

1990年3月、ブルース・アルバム「スティル・ゴット・ザ・ブルーズ」をリリース。
親交のあったジョージ・ハリスンの他、アメリカのブルース・ギターの名手アルバート・キング、アルバート・コリンズらがゲスト参加している。
アルバムはムーアにとって、初のアメリカでのトップ200入りするゴールドを記録(全世界で300万枚)。
以後ゲーリー・ムーアは自らの音楽の軸をブルースへと回帰させた。
またジョージ・ハリスンの誘いでトラヴェリング・ウィルベリーズのアルバムにも参加している。
「アフター・アワーズ」をリリース
1992年の同名アルバムには、多額の制作費を注ぎ込んだ。
アルバート・コリンズ、B.B.キングがゲスト参加。
1992年4月、ジョージ・ハリスンのロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール公演のサポートを担当。
ジョー・ウォルシュとともにハリスンのステージにも参加。
ムーアはハリソンの代表曲:「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギター・ソロを弾いている。
ミッドナイト・ブルース・バンドはアメリカ、EUなどでプロモーション・ツアー。
同年6月28日にはハマースミス・オデオンでミック・ジャガーと共演し、この時ライヴ録音された「Everybody Knows About My Good Thing」はジャガーのソロ・シングル「Don't Tear Me Up」に収録された。
1993年 BBM結成
ジャック・ブルースとの共演後、11月にはドイツのケルンで行われたジャック・ブルースのバースデイ・コンサートに参加。
元クリームのメンバーであるブルース、ジンジャー・ベイカーとの共演をきっかけに、1994年、・ベイカー、ブルース、ムーアの3人でBBMを結成。
このバンドは、かの伝説のアート・ロック・バンドである、「クリーム」のクラプトンの替わりにムーアが入った形になる。
アルバム「アラウンド・ネクスト・ドリーム〜白日夢」をリリース。
ブルースへの再回帰
1995年、ピーター・グリーンに捧げた「Blues For Greeny」を発表。
グリーンの活動再開のきっかけともなるアルバムリリース記念ライブをロンドンで行う(この様子は、1996年に"BLUES FOR GREENY LIVE"としてリリース)。
モダン・ミュージックへのアプローチ
「モダン・ロック」登場
997年、ドラム&ベース・サウンドなどを、ゲィリー・ハズバンドやガイ・プラットらテクニシャンとの融合を試みたニュー・アルバム「ダーク・デーズ・パラダイス」を制作、リリース。本作から次作にかけて、自己のギターとモダン・ミュージック(ダンス・ミュージック)の融合を計るアプローチやデジタル録音機材の使用などに取り組み、ブルース・ギタリスト=古典派のイメージを払拭する。
しかしブルースへの再々回帰

2001年3月、「Back To The Blues」リリース。4月から数ヶ月英国、欧州のコンサートを行う。
1999年からのツアーとレコーディングに参加したピート・ルイス(ベース)、ダーレン・ムーニー(ドラムス) 、ヴィク・マーティン(キーボード)が亡くなるまでの彼の主なバンドのメンバーになる。
その後のギタリストとしての活動
ライブ活動を中心に
2005年8月20日、フィル・ライノットの故郷ダブリンにライノットの銅像が立てられることを記念して行われたコンサートに元シン・リジィのメンバーと共に参加。
模様は、ゲイリー・ムーア・アンド・フレンズとして出演し映像作品としてリリースされた。この年はほぼライヴ活動を行っていない。
よりブルース色への傾斜~B.B.キングとともに
2006年4月、B.B.キングのファイナルUKツアーをサポートしたほか、R&Bのソウルフルな作品「オールド・ニュー・バラーズ・ブルース」をリリースし、数年ぶりのコンサート・ツアーをおこなった。
精力的な演奏活動

2007年4月には北アイルランドでコンサートを2回行った。
5月には25作目にあたるアルバム「クローズ・アズ・ユー・ゲット」リリース。
レコーディングにも参加した元シン・リジィのドラマーであるブライアン・ダウニーが参加してヨーロッパ・ツアーを行った。
10月にはダーレン・ムーニーらとともに「Tribute To Jimi Hendrix」でヘンドリックスの楽曲のみを演奏。
元ジミ・ヘンドリックス・バンドのメンバー;ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェルと共演した。
再びモントルー・ジャズ・フェスで
2008年7月7日、モントルー・ジャズ・フェスティバルにてジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのステージにゲスト出演した。
2008年9月最新作「Bad For You Baby」をリリース。

最後の来日公演と海外ツアー
2010年4月、21年振りの来日公演が東京、名古屋、大阪で行われた。
夏のヨーロッパでのフェスティヴァル・ツアーはニール・カーター、ピート・ルイス、ダーレン・ムーニーらによって1980年代の楽曲が演奏され、ロシア東北部のウラジオストクまでのツアーが組み込まれた。
ロシア公演中に、「どうして、イスラエル公演がおこなわれないのですか?」という質問に対して。ムーアは「イスラエルによるパレスチナへの弾圧があるから」と応えて断った。
ムーアの死
ギターヒーロー 旅先スペインで客死

2011年2月6日、休暇先のスペイン(アンダルシア州マラガ県の都市エステポナ)にて心臓発作で急逝。
2月23日15年間暮らしていたブライトンで葬式が行われた。亡骸はミュージシャンである息子のジャック・ムーアが「ダニー・ボーイ」を演奏して葬送された。
ゲーリー・ムーアの演奏スタイル
頑固一徹のブルース・ロック

ブルースをベースに、コロシアムII時代に培われたジャズ、フュージョンのほかクラシカルなフィーリングも加わり、驚異の速さ、正確さを兼ね備えている。
影響を受けたギタリスト達のスタイルをそのまま再現できる腕前から“巧すぎるギタリスト”、またマシンガンのようなピッキングによる速弾きから“ギタークレイジー”と形容されていた。
しかしながら彼の魅力が最も発揮されるのはバラードにおける泣きのギターであろう。
ギターを泣かせることにおいては最高峰のひとりに挙げられ、時代や流行に左右されない頑固一徹ぶりもある。
1990年代にブルースに移行してからは、ハード・ロック時代に聴かせた速弾きを比較的抑えるようになったが、時折マシンガン・ピッキングが出てしまうこともあった。
このマシンガン奏法が、ゲーリー・ムーアを「ヘビーメタル・ギタリスト」と勘違いする説が後を絶たない。
影響を受けたギタリストはジェフ・ベック、ピーター・グリーン、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスなど。ブルース時期以降〜はオーティス・ラッシュの楽曲へのアプローチが顕著に見受けられる。