青江三奈

12月29日は、シャンソン喫茶「銀巴里」閉店の日です。(1990年)
かつて銀座のバーでクラブ歌手を務めていた井原静子(本名)は、作詞家・川内康範の当時『週刊新潮』の連載小説「恍惚」のヒロイン歌手だった「青江三奈」の芸名を貰い、この曲でメジャーデビューしました。
1966年、『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げるヒットとなります。

1968年にはあの有名な『伊勢佐木町ブルース』が100万枚のセールス。


初代看板
曲中にある吐息部分がリリース時には「“吐息”は子供向きではない」「お色気だ」と指摘され、『第19回NHK紅白歌合戦』に2年ぶり2回目の紅白出場を果たした時はNHKの意向により、カズーの音と差し替えられたこともありました。白組司会の坂本九は「ダチョウのため息」と表現しました。

二代目看板

三代目看板

四代目看板

六代目看板

限定公開(平成26年)ゆず「夜霧の伊勢佐木町~愛の真世界編~」
1970年から1979年まで、青江はマスプロ電工(マスプロアンテナ)のテレビCMへ出演
1991年にはものまねタレント・清水アキラの青江の物真似が話題となりました。
これを機に二人で「ラーメンブルース」のデュエット曲を発表しました。1993年には、初のジャズアルバムも発表しニューヨークでもライブを開催します。さらに1995年には歌手生活30周年リサイタルをNHKホールで開催するなど、1999年1月までコンスタントに活動的に歌手活動を行っていました。
2000年7月2日、膵臓癌により死去、59歳没。


青江三菜の死と遺産相続
若き日の青江三菜と同棲し、長年に渡って付き合い、歌唱指導を行ったのが作曲家・花礼二さんです。
青江三奈さんは、自身が亡くなる約2か月前に病床で婚姻届にサインをし、突然花礼二と結婚しました。

癌の転移が分かり、死を意識したタイミングで青江は花礼二へ直接連絡をしたようです。これをきっかけにおよそ19年ぶりにふたりは再会を果たしたといいます。

後にこれが花礼二さんと青江三菜さんの兄弟との間で激しい遺産争奪戦を勃発させることとなります。
その後、なんと青江兄弟の間でも遺産争奪戦が起こり、泥沼の訴訟沙汰になりました。

花礼二との生活
「花 礼二」(本名:鈴木礼二)と結婚した青江三奈さんは戸籍上は「鈴木静子」となります。
青江三奈さんがクラブ歌手時代の芸名は「鈴原志真」でした。つまり鈴木の「鈴」と青江の本名「井原静子」からとったのです。静岡の実家を飛び出し花礼二のもとで同棲を始め、その生活は約20年間続いたそうです。


現在、花礼二さんは熱海に在住。亡き青江三奈の遺品を展示して忍んでいます。