タイの国民栄誉賞を4度受賞!タイの英雄『ウィラポン』
本名はティーラポン・サーラーングラーン。
1968年11月16日生まれ。タイのムエタイ選手、プロボクサー。
タイの国民栄誉賞を4度も受賞しており、カオサイ・ギャラクシーと並ぶタイの英雄。
【個人データ】
身長:160cm
体重:169cm
階級:バンタム級
スタイル:オーソドックス

ムエタイ時代のウィラポン
「デスマスク(死者の顔)」との異名を持つ(表情を全く変えずに強打を放つ所からそう呼ばれる)。また、試合に勝った後も「敗者への冒涜になる」として笑顔を見せることはほとんどない。
他には「鉄仮面」とも呼ばれる。
タイで普通に使われるニックネームはポンである。

ウィラポン
【プロボクシング戦績】
総試合数:72
勝ち:66
KO勝ち:47
負け:4
引き分け:2
向かうところ敵無し!ムエタイ出身の『ウィラポン』
タイで国技に指定されているムエタイで3階級制覇を達成。その後、国際式ボクシングへ転向。
1995年9月、僅か4戦目でWBA世界バンタム級王座を獲得。これは同じくタイの英雄的ボクサー、センサク・ムアンスリンのボクシング史上最短となる3戦目での世界王座奪取記録に次ぐ、4戦目での達成だった。
1996年1月、初防衛戦で元WBC世界スーパーフライ級王者ナナ・コナドゥ(ガーナ)と対戦。
初回に左フックでダウンを奪い、好スタートを切るも、2回に逆襲に遭い、最後はカウンターを喰らい、キャンバスに崩れ落ちた。懸命に立ち上がるも、足がふらつき、ロープに体をあずけるなどし、それを見たレフリーが試合を止めて2回TKO負けとなった。4か月での王座陥落だった。

センサク・ムアンスリン
1998年、浪速のジョー・辰吉丈一郎と1度目の対戦!
王座陥落後はタイトル戦などはなかったものの16連勝(11KO)を果たし、勢いそのまま2度目の世界戦を行うこととなる。その対戦相手が当時、WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎であった。
1998年12月、辰吉にとっては3度目の防衛戦。
序盤こそ互角の展開だったが、回が進むにつれ次第にウィラポンがペースアップ。そして、6回、ウィラポンの左が辰吉をとらえ、辰吉にとってプロ2戦目以来のダウンを奪った。
以降もウィラポンは攻撃の手を緩めず、最後は右ストレートを辰吉の左こめかみに炸裂させた。
辰吉は仰向けに崩れ落ち、ノーカウントで試合がストップ。失神KOだった。

当時、大人気だった辰吉を失神KOに追い込んだウィラポン
1999年、辰吉丈一郎と2度目の対戦!
1999年5月に初防衛に成功したウィラポンは、同年8月に大阪ドームで辰吉と再戦。
前回の対戦の翌月、最愛の父を亡くした辰吉。並々ならぬ闘志を抱えての挑戦と予想され、日本国内は異様なまでの盛り上がりをみせていた。
しかし、試合は王者ウィラポンの独壇場となった。
ウィラポンは序盤から一方的に試合を支配していき、最後は7回、レフリーストップ(同時に辰吉陣営からも「棄権」を示すタオルが投げ入れられた)でTKO勝ちした。
試合後、辰吉は「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。

試合後、勝者ウィラポンを讃える辰吉
その後、絶対王者として君臨!!西岡利晃を4度退けた!
その後、2000年6月に当時"日本プロボクシング界最大のホープ"と称され、「モンスターレフト」と呼ばれる強力な左を持つ西岡利晃と対戦。しかし、ウィラポンは12回の判定勝ちを収めた。
西岡からは合計4度も挑戦を受けるが、いずれも退けている(内、引き分け2回)。このことからウィラポンは「日本人キラー」という印象を持つボクシングファンは多いのではないだろうか。

2000年の西岡利晃との一戦を知らせるポスター
2005年、15度目の防衛戦で長谷川穂積に敗北!
14度もの防衛に成功し、バンタム級最多防衛記録を誇るオルランド・カニザレスに次ぐ2位タイの記録をマークしたウィラポン。しかし、盛者必衰が世の常である。30代後半のベテランとなったウィラポンにもその時が訪れた。
2005年4月16日、日本武道館で行われた15度目の防衛戦で長谷川穂積と対戦。
序盤、長谷川の的確なパンチに苦しむも、中盤は王者らしさをみせる戦いとなったが、終盤スタミナ切れを起こし始めた。ウィラポンは10回にグラつく場面もあり、最終12回が終わって0-3の判定負けを喫した。
これにより6年3か月以上保持してきた王座から陥落し、ついに長期政権に終止符が打たれた。

長谷川 穂積

リングに上がり、パフォーマンスをする辰吉
2006年3月、長谷川穂積と再戦!
2006年3月25日、ウィラポンは前回の長谷川戦後、5試合を戦い全勝(4KO)。ランキング1位の指名挑戦者として日本のリングに戻ってきた。
11か月前の雪辱と王座奪回を懸け、長谷川穂積と兵庫県神戸市中央区にあるワールド記念ホールで再戦。
序盤から長谷川のスピードについていけず劣勢に立たされるウィラポン。7、8回はウィラポンが反撃に出て、徹底的なボディーブロー攻めで流れをつかもうとする。しかし、9回開始直後、長谷川の右フックがカウンターでクリーンヒットし、ウィラポンが前のめりにダウンした。
ウィラポンは立ち上がろうと試みるも、ダメージが大きく立ち上がることができず。レフリーストップにより自身2度目のKO負けを喫した。
2010年まで現役を続けた!
長谷川戦後は、年齢もあり限界説が囁かれた。しかし、以降も長谷川への再挑戦を目指して連勝を続けABCOバンタム級王座も獲得し、切れ味鋭い左ストレートと右フックで高いKO率を誇った藤原康二を含む5人の日本人選手とも対戦。全てで勝利を収めた。
最終的に世界ランキングが上昇しついにはWBCバンタム級1位にまで辿りついた。
2008年6月12日、母国でWBC世界バンタム級2位ヴィシー・マリンガ(南アフリカ)との挑戦者決定戦に臨んだ。しかし、年齢から来る衰えは隠せず、3回にマリンガにダウンを奪われた末、4回マリンガのアッパーがまとまり、レフリーストップ。TKOに敗れ挑戦権を逃した。試合の翌々日に現役引退を表明。
この後、2009年3月に引退を撤回。現役に復帰し、2010年の試合で2回TKO勝ちした時点で再度引退した。
将来的には自分のジムを持ちたいと話していて、今はレストランを経営し好評を博している。

ウィラポンのパンチで、後方へダウンする辰吉
90年代、日本のボクシング界を盛り上げた辰吉丈一郎の前に立ちはだかったウィラポン。
以降も日本人選手の前に強敵として君臨し続けた。
全盛期のウィラポンは本当に強いボクサーだった。