テクノ歌謡の美少女アイドル・デュオ『キララとウララ』
先進的で斬新なテクノ歌謡(テクノポップ)。
アグレッシブな戦略で打ち出された美少女アイドル・デュオ『キララとウララ』。
『ピンクレディ2世』と言われながら、ヒット曲に恵まれずブレイクできなかった美少女アイドル・デュオについて紹介。

キララとウララ
『キララとウララ』、異色のネーミング理由
「〇〇と〇〇」みたいなグループ名はアイドルとして非常に珍しい名称である。
中学1年生で同級生になってから、ずっと仲良しだった大谷香奈子と天野なぎさ。
レコードデビュー前は、普通に『香奈子&なぎさ』として活動していた。

『香奈子&なぎさ』時代の写真
『香奈子&なぎさ』として、雑誌・グラビアの活動をしていた二人だが、レコードデビューする際に事務所の社長に芸名はどうするのか聞かれ、自分たちで考えた『キララとウララ』を使いたいと答えたという。
『キララとウララ』のネーミングは仲良く遊んでいた中学時代にすでに決めていた。
学校で歌いながら星を観察する「星を見る会」があり、「ああ、キララって光ってる星がある」と冗談で言ったところ、「その呼び名いいね!」ということになり、「じゃあ、もうひとつの呼び名はウララって感じじゃない」ということで『キララとウララ』というコンビ名が誕生。
そして、大谷の方が「キラキラ」しているイメージだった為、キララが大谷に決定し、天野がウララに決定したという。
当時は芸名の由来を事務所が「こう答えなさい」と指示することも多く、このネーミング理由が真実である確証はないが、中学生二人が考えたネーミングで、一緒にアイドルデビューできたのであれば、とても強い縁と絆が成し得た奇跡ではないだろうか。
『キララとウララ』のコンセプトは、『80年代のピンクレディー』
1982年にデビューした中森明菜、小泉今日子、石川秀美、堀ちえみ、早見優ら『アイドル 花の82年組』の陰に隠れて活躍できなかった『不遇の83年組』を見て、徹底的に差別化を考えて『キララとウララ』はプロデュースされた。
ソロアイドルが全盛の中、二人組のアイドル・デュオとしてデビュー。
そして、派手な衣装と個性的な振付け。
1970年代後半に一世を風靡したデュオのアイドル『ピンクレディー』を強く意識した。
『キララとウララ』のレコード会社も、ピンクレディーと同じビクター音楽産業。
ピンクレディーでの成功体験を持つスタッフの「あのブームをもう一度!」という思いも影響したのではないかと推測したくなる。
歌はシンセサイザーなどの電子楽器を使ったテクノサウンドを取り入れたテクノ歌謡。
榊原郁恵『ROBOT』(1980年)や、イモ欽トリオ『ハイスクール・ララバイ』(1981年)など、それまでもテクノ歌謡はいくつかリリースされていたが、『センチ・メタル・ボーイ』では「未来」と「宇宙」をイメージしテクノ要素を強調した。
ピンクレディーっぽい路線で懐かしさを、テクノ歌謡で新しさを。
相反する二つの要素を融合させたのが『キララとウララ』である。
1984年8月1日、『センチ・メタル・ボーイ』でデビュー
勘違いして覚えている人も多いが、『センチメンタル・ボーイ』ではなく、『センチ・メタル・ボーイ』。
想いが通じない人を歌詞では「鉄のハート」と称しており、センチメンタルになる自分と鉄(メタル)な相手をかけたネーミングになっている。

キララとウララ『センチ・メタル・ボーイ』
安室奈美恵など踊りながら歌うスタイルの歌手が多用するインカム(ヘッドセットマイク)は、1980年代半ばではとても珍しくインカムを使用したアイドルとしては『キララとウララ』が元祖だったと言われている。
まだインカムが高額な頃で、当時の金額にして200万円かかったという。
徹底した差別化戦略でデビューした『キララとウララ』。
しかし、デビュー曲「センチ・メタル・ボーイ」はタイアップもなく、大きな話題とならずにヒットしなかった。
デビュー当初は使っていた『宇宙のララ星から来た二人』という小倉優子『コリン星』の元祖みたいなキャッチコピーはあっさり捨てた…
以降、試行錯誤を繰り返しながら発売した『キララとウララ』の全シングルを紹介。
『キララとウララ』2ndシングル「多感期のフラミンゴ」

キララとウララ『多感期のフラミンゴ』
この『多感期のフラミンゴ』のCMソング起用には謎がある。
商品名は『Kilala(キララ)』。
まさに『キララとウララ』とタイアップする為に生まれた商品のネーミング。
(ウララの立場は微妙だが…)
発売開始も『キララとウララ』と同じ1984年。
なのに、『Kilala(キララ)』が新発売された時のCMは歌も出演も原田知世だったのだ。
当初は『キララとウララ』がCMに起用されるはずだったのが、当時全盛だった角川パワーによって割り込まれてしまったのか。
それとも、偶然に『キララ』の名を含んだアイドルデュオがいたので発売翌年に起用してみたのか。
真相はいまだ明らかにされていない。
『キララとウララ』3rdシングル「ラブ・アドベンチャー」

キララとウララ『ラブ・アドベンチャー』
『キララとウララ』4thシングル「パックンたまご!~空からタマゴが降ってきた~」

キララとウララ『パックンたまご!~空からタマゴが降ってきた~』
子供向け番組のオープニング曲として、全く違和感のない仕上がり。
しかしながら、子供たちが口ずさみたくなるようなキャッチーさは無く、この曲もヒットに至らなかった。
番組『パックンたまご』自体も、シティボーイズ(大竹まこと・きたろう・斉木しげる)などを起用し娯楽性を高めて、従来の幼児向け番組との差別化を図ったが、視聴率不振によりたった半年で打ち切られた…。
『キララとウララ』5thシングル「ブインブインブイン」

キララとウララ『ブインブインブイン』
1987年、『キララとウララ』は約3年間の活動で解散。
5thシングル「ブインブインブイン」もヒットせず、『キララとウララ』は1987年に解散。
中学時代から仲良しだった美少女アイドルデュオは、路線変更を繰り返し必死に居場所を探し続けたが、わずか3年でその活動を終えることになった。
リリースしたシングルは合計5枚。
アルバムは1985年に発売した「ダブル・ファンタジー」の1枚だった。
唯一のアルバム『ダブル・ファンタジー』は2007年に復刻!
1985年4月21日に発表された『キララとウララ』唯一のアルバム『ダブル・ファンタジー』。
作家陣には、細野晴臣、EPO、井上大輔、所ジョージ。
またバック・ミュージシャンにはティン・パン・アレー系の吉川忠英や浜口茂外也など豪華な顔ぶれが参加している。
発売枚数が少なく、中古市場でかなりの額で取り引きされていたが、ファンの強い要望によって2007年3月21日に復刻盤がリリースされている。
『キララとウララ』はなぜ売れなかったのか?
『80年代のピンクレディー』という明確なコンセプトを持ちながら、『キララとウララ』が売れなかったのはデビューした1984年という時代にマッチしていなかったことが最大の原因ではないかと思う。
ヒットチャートは松田聖子・中森明菜・小泉今日子など上の世代が席巻しており、歌をメインにしたアイドルが活躍できるフィールドはあまりに狭すぎた。
事実、『キララとウララ』と同期のアイドル1984年組では少女隊、セイントフォーなどのグループは膨大な宣伝費をかけてもヒットを出せず、売れていったのはドラマや映画へ積極的に出演した岡田有希子、菊池桃子であった。
そして、デビュー翌年の1985年。
秋元康がフジテレビの番組『夕やけニャンニャン』から、素人っぽさを前面に打ち出した女性アイドルグループ『おニャン子クラブ』を誕生させ、『作られたアイドル』の像を木端微塵に破壊。
派手な衣装で個性的な振付けで踊る『キララとウララ』のスタイルは、完全に時代遅れのイロモノにされてしまった。

おニャン子クラブ
タイアップに恵まれていれば売れていたと言う意見もあるが、前述した環境下で大きなタイアップを獲得できなかったのが真実ではないかと思う。
近年、テクノポップのアイドルグループ『Perfume』がオリコン1位を獲得、NHK紅白歌合戦に出場するなど大きな活躍を見せ、80年代の『キララとウララ』を知る人は「20~30年ほど早すぎた。」と感じる人も多い。
現在では『キララとウララ』を「昭和のPerfume」と称することもある。
あまり知られていないが、辻希美と加護亜依による歌手ユニットW(ダブルユー)が、2004年に発売したアルバム『デュオU&U』で「センチ・メタル・ボーイ」をカバーしている。
現在聞いてもまったく古さを感じさせず、アイドルソングとしての完成度が高かったと再評価されている。
見方によって、「遅すぎた」とも「早すぎた」とも言える『キララとウララ』。
こうした時代とのアンマッチ感が、印象深い『B級アイドル』として今も語り継がれている理由なのかもしれない。
解散後のキララ(大谷香菜子)は、小室哲哉と結婚そして離婚。
キララこと、大谷香菜子は解散の翌年に小室哲哉と結婚。
(小室哲哉の1回目の結婚相手)
なお、この結婚が『キララとウララ』解散の理由だったという説もある。
小室哲哉は1986年に渡辺美里に提供した「My Revolution」が大ヒット。
TM NETWORKとしても1987年の「Get Wild」がヒットして、ヒットメーカーとしての位置を確立し始めた時期であった。
交際前から小室哲哉はラジオ番組にて好きなアイドルとして『キララとウララ』を挙げていたという。
大谷香菜子は小室哲哉と共に一時イギリスで生活をしていた。
1990年には小室香奈子としてラジオのパーソナリティーを持つなど芸能活動を再開していたが、多忙を極める小室哲哉とのすれ違いが理由か1992年に離婚し、約4年間の結婚生活にピリオドを打った。
大谷香奈子の実弟・大谷健吾は1994年に小室哲哉プロデュースでCDデビューしている。
その後、大谷香菜子は日本初のドッグスタイリストとなり、犬用の服のデザインなどを経て「デザインエフ」というブランドを立ち上げ、現在も活躍。
犬専用の服のプロデュース・製造・販売では日本ではトップクラスの実績を収めている。
2000年、ニューワールドプロダクションズ社長・後藤貴之と再婚した。

現在の 大谷香菜子(おおたに かなこ)
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解散後のウララ(天野なぎさ)は、シンガーソングライターとして再デビュー
ウララこと、天野なぎさは1990年にシンガーソングライター・天野歩美として再デビュー。
1993年までにシングル3枚とアルバム2枚をリリース。
現在は「天野なぎさ」に名前を戻し、モデル事務所を経営。
多くのモデルやタレントをプロデュースしている。
『キララとウララ』のデビュー曲「センチ・メタル・ボーイ」の作詞をした売野雅勇も所属している。

現在の天野なぎさ(あまの なぎさ)
DIVINE
相変わらずお美しい『キララとウララ』の二人は起業家として成功していた。
最も競争が激しい1980年代にアイドルだった大谷香菜子と天野なぎさは、その苦労と失敗の経験を今は経営者として生かしているのかもしれない。