自民党の様々な要職を歴任した金丸信

金丸信(かねまる しん)
80年代初頭、中曽根嫌いを公言していた金丸!
ロッキード事件で自民党を離党した田中角栄。しかし、最大派閥の田中派を率いて、実質的な影響力は保持し続けていた。
田中派に支えられた鈴木善幸首相の後継に、田中は中曽根康弘が支持される。
一方、当時の金丸は「中曽根嫌い」を平然と公言していた。
金丸によると三木内閣の国土庁長官時代に八ツ場ダム治水計画を立てた際、幹事長の中曽根が文句をつけたからだという。

「保利元衆院議長をしのぶ会」で田中角栄と金丸信

中曽根内閣時代
中曽根首相(自民党総裁)と金丸信幹事長
1987年、盟友・竹下登と「経世会」を設立!
平成研究会 - フレッシュアイペディア

金丸信、小沢一郎、竹下登
竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、竹下派(経世会)支配と呼ばれた。
リーダーの鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。
高級官僚や米国高官が首相官邸よりもまず先に、竹下派の有力幹部が事務所を構える永田町のTBRビルを訪問していた。その様子は首相の権威の低下と竹下派(経世会)支配の象徴とされた。
元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における事実上の影の最高権力者として君臨、このため実権を奪われた竹下との関係が悪化する。
派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。

竹下登と金丸信
≪経世界・金丸への評価≫
1990年、北朝鮮を訪問。謎の対談
金丸信 - フレッシュアイペディア

1990年9月 金丸訪朝団
1992年、ヤミ献金が発覚し、失脚!
3/4 自民党の歴史(9)経世会支配とその崩壊 [社会ニュース] All About
政界入りする前の金丸!実家は造り酒屋!
実家は山梨県(旧白根町、現南アルプス市)で酒造業(造り酒屋)を営み、多くの使用人を抱えていた裕福な家柄だった。
叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。
旧制甲府中学校では素行不良により退学となった。その後、父の友人が校長をしていた旧制身延中学校(現・山梨県立身延高等学校)に入学した。
1933年に東京農業大学農学部へ入学する。卒業論文は「桜桃栽培の進化」。
農大卒業後は、地元山梨に帰り、旧制韮崎中学校(現・山梨県立韮崎高等学校)で博物(生物学)の教諭となった。また、学業以外には柔道を教えたり野球部の監督もした。

幼少時代の金丸信(後中央)と姉弟

東京農大柔道部の金丸信(左)
ちなみに、政界入り後に盟友となる竹下登の実家も酒造業(造り酒屋)を営んでいる。
他にも、二人には柔道の有段者である点や学校の教員を経験している(金丸は旧制中学の「博物」、竹下は新制中学の「英語」)点などの共通点が多かった。
また、漫画「美味しんぼ」には、金丸をモデルにしたとおぼしい「学生時代柔道三昧だった」角丸豊介(肩書は、幹事長や副総理)が度々登場する。

美味しんぼに登場した「角丸豊介」

ふてぶてしい表情から一転、涙を流して辛子蓮根を味わう角丸
総理大臣の座を断った男・金丸信

金丸信
80年代から90年代にかけて、日本政治のドンまたはフィクサーとして君臨した金丸信。
顔は穏やかで、たまに見せる笑顔が好きだった。
こういうアクの強い人が居なければ居ないで寂しいものである。