『ブルース・リー』の伝説:『燃えよドラゴン』(日本では1973年公開)から始まる「ドラゴンシリーズ」と後世への影響
ブルース・リー、リンダ・エメリー、息子のブランドン・リー、娘のシャノン・リー。
ブルース・リーの驚異的な能力
ブルース・リーはTART OPTICAL サングラスを愛用
『燃えよドラゴン』 1973年に公開され、世界各国で大ヒットとなった。ブルース・リーとカンフーが世界的なブームとなり、多くのフォロワーが生まれた作品である。
ブルース・リーの死後に、『燃えよドラゴン』が公開され、世界的に知名度が上昇
『燃えよドラゴン』(英題:Enter the Dragon・1973年8月17日に米国で公開)
リーの死後(1973年7月20日死去)、彼が待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開され、ヒットした。
『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていた。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。
『燃えよドラゴン』( 1973年12月22日に初めて日本公開)は日本でも大ヒット
『燃えよドラゴン』( 1973年12月22日に初めて日本公開)は日本でも大ヒット
1973年12月に初めて日本公開された時点で、ブルース・リー本人は既に故人となっていた(1973年7月20日死去)。
1970年前半は、カンフーは日本に普及していない頃だった。真樹日佐夫によると、当初ワーナーは本作品をメインとせず、他と抱き合わせて採算づけるために極真会館へ鑑賞を依頼した。真樹、兄の梶原一騎、大山倍達の3人がワーナー試写室に出向いて鑑賞し、大山は良く評価しなかったが(ただし公開時のパンフレットで好評と書いている)、梶原は「敵味方に関わらず銃を使えなくなる設定が良く、荒唐無稽さがなくて面白い」と絶賛している。結果として日本でも大ヒットに至った。
ブルース・リーの強いイメージと言えば「アチョー」と「ヌンチャク」
この写真がやはり「燃えよドラゴン」の象徴的な一枚。
リーの妹スー・リンの仇のオハラをコテンパンに負かし処刑する。敵討ちをした最後の憂いのあるリーの表情が最高。
リーが地下に侵入する際にコブラを捕まえるシーンで、コブラを掴むタイミングを誤り腕を噛まれた。幸いにも、コブラから毒は抜かれていたので傷だけで済んだ。
後のスーパースターであるジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウも『燃えよドラゴン』にやられ役で出演している
ジャッキー・チェン(やられ役)がリーに地下基地で首を折られ、別カットでは長棍で顔を攻撃される衛兵役、最後にヌンチャクで殴られ、プールに落ちる役として出演
ユン・ピョウも出ています・・・若い・・・