1990年、東京ドームで行われた日米レスリングサミット!新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現:WWE)の合同興行に当代きっての人気レスラーが大集結!!

1990年、東京ドームで行われた日米レスリングサミット!新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現:WWE)の合同興行に当代きっての人気レスラーが大集結!!

日本におけるプロレス団体が新日本プロレス、全日本プロレスの2強だった1990年。海の向こうの超人気プロレス団体WWFと3団体が合同で開催した日米レスリングサミットを憶えていますか?東京ドームで開催されたこの大会に筆者は足を運び、当代きっての人気レスラーが集った大会に大興奮したことを憶えています。そんな後にも先にもこのときだけだったレスリングサミットに登場したレスラーたちを振り返っていきましょう。※試合内容そのものには触れていません


1990年に開催された「日米レスリングサミット」

当時のプロレス団体ビッグ3が共催した「日米レスリングサミット」。
総勢36名の人気レスラーたちが東京ドームのリングに上がりました。
メインの「ハルク・ホーガンVSスタン・ハンセン」では、アックスボンバーVSウェスタンラリアットの構図がありましたし、プロレスファンにとってワクワクするイベントだったことを憶えています。

新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現:WWE)の合同興行。
計12試合が行われ、なかにはIWGPタッグ選手権試合、WWF世界ヘビー級選手権試合も含まれていました。
※いずれもファイナル、セミファイナルより前の試合

1990年4月13日、東京ドームにて開催された「日米レスリングサミット」(観衆53,742人)

この日、実際に東京ドームに足を運んだ筆者ですが、「日米レスリングサミット」で行われた12試合に登場していたレスラー達から主だったレスラーを振り返っていきます。

各レスラーについて、90年以前のキャリアをWikipediaより抜粋して引用させていただいています。

第1試合 6人タッグマッチ20分1本勝負

ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット、ジョー・マレンコ vs 川田利明、サムソン冬木、北原辰巳

1988年10月、全日本プロレスの「ジャイアント・シリーズ」で両者のタッグが実現(当時、ダグ・ファーナスは初来日、ダニー・クロファットは全日本初参戦)。
翌1989年より本格的なタッグチームとして始動し、カナディアン(クロファット)とアメリカン(ファーナス)のデュオであることから、リック・マーテルとトム・ジンクのカンナム・コネクションにあやかり、カンナム・エクスプレスのチーム名が冠せられた。
1989年6月5日、サムソン冬木と川田利明のフットルースを破りアジアタッグ王座を獲得。以降、1990年3月2日にフットルース、1991年4月20日にニュー・ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス)、同年7月26日にジョー・ディートン&ビリー・ブラック、1993年9月9日にパトリオット&ジ・イーグルを破り、同王座には通算5回に渡って戴冠した。
アジアタッグ史に残る名コンビ。

ダグ・ファーナス(右)とダニー・クロファット(左)の名コンビ「カンナム・エクスプレス」

チーム結成は1985年末、川田利明と冬木弘道のアメリカ修行時代にさかのぼる。当時、テキサス州サンアントニオのテキサス・オールスター・レスリングにて、両者はジャパニーズ・フォースなるタッグチームを組んでおり、若手時代のショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドのアメリカン・フォースと抗争を展開していた。
帰国後、両者は一時的に反目していたものの、1987年に揃って天龍同盟に参加。その後は本格的なタッグチームとして活動し、1988年3月9日にマイティ井上&石川隆士からアジアタッグ王座を奪取。以降、同年9月9日に仲野信市&高野俊二、1989年6月5日にカンナム・エクスプレス(ダニー・クロファット&ダグ・ファーナス)にタイトルを奪われるも、ロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)、ジェリー・オーツ&ジョニー・スミス、ジャイアント馬場&小橋健太、ダニー・クロファット&トム・ジンク、ザ・ファンタスティックス(ボビー・フルトン&トミー・ロジャース)などのチームを相手に防衛戦を行い、1990年3月2日にカンナム・エクスプレスに敗れるまで、通算3回にわたって同王座を獲得した。

川田利明とサムソン冬木によるタッグ「フットルース」

【試合結果】 ○クロファット(11分26秒・エビ固め)×北原

第2試合 シングルマッチ20分1本勝負

獣神サンダー・ライガー vs 野上彰

正体とされるのは、新日本プロレスに所属していたプロレスラー・山田恵一で、当時の週刊プロレスでも山田→ライガーの特集記事が組まれたこともあった。しかしギミック上はあくまで正体不明であり、ライガー自身も「山田は死んだ。リヴァプールの風になった」と発言している。
一方でTV中継では、デビューの対小林邦明戦の実況の辻よしなりが「あの山田恵一が獣神ライガーの中に入っているのではないかという」「(浴びせ蹴りを出した後に)骨法炸裂、やはり山田か!」などと隠さない姿勢の実況をしていた。

獣神サンダー・ライガー

1984年、新日本プロレスに入門。同期には、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝らがいた。
福岡県立久留米体育館における武藤敬司戦でデビュー。船木誠勝と組み、タッグでU.W.F.の安生洋二・中野龍雄組と好試合を連発し、前座を沸かせる。その後欧州武者修行を経て、凱旋帰国と同時に第16代IWGPジュニアヘビー級王座を奪取。
この頃、東京ドーム大会で、隈取を施しAKIRAとして試合を行ったこともある。その後、体重を上げてヘビー級に転向、飯塚高史と「J・J・JACKS」を結成。1996年にコンビを解消し、平成維震軍の一員となった。

野上彰

【試合結果】 ○ライガー(8分37秒・片エビ固め)×野上

第3試合 タッグマッチ20分1本勝負

ジミー・スヌーカ、ティト・サンタナ vs 渕正信、小橋健太

日本では1981年5月より全日本プロレスを主戦場とするようになり、リッキー・スティムボートとの抗争も日本マットで再現。同年6月11日にはジャンボ鶴田のUNヘビー級王座に、10月6日にはブルーザー・ブロディと組んでジャイアント馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦ではブロディとのタッグチームでザ・ファンクスを破り優勝を果たした。
しかし、最終戦(12月13日、蔵前国技館)でセコンドを務め、試合に介入して優勝を援護したスタン・ハンセンがブロディと組むようになると、翌1982年4月にブロディと仲間割れ。10月にブロディ対スヌーカの遺恨試合が行われたが、スヌーカがWWFに定着し全日本プロレスを離脱したため両者の抗争アングルは立ち消えになった。
WWF(現・WWE)には1982年3月より登場。当初はNWA時代と同様にヒールであったが(マネージャーはキャプテン・ルー・アルバーノ)、当時のWWF王者ボブ・バックランドとの抗争を通し、一連のハイフライ・ムーヴにより観衆の喝采を集めベビーフェイスに転向。その後はバディ・ロジャースがマネージャー役に就くなど、一時はバックランドをも凌ぐ人気者となり、次期WWF王者の有力候補と噂された。
1983年10月17日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて行われたドン・ムラコとの金網マッチでは、金網最上段からのスーパーフライを敢行。この試合をリングサイド3列目で見ていたプロレスラー志望の大学生ミック・フォーリーは、これがきっかけで本気でレスラーになることを決めたという。以降もWWFに定着し、1984年にビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻にもベビーフェイスの主力として参加。ロディ・パイパーのインタビューコーナー『パイパーズ・ピット』への出演に端を発するパイパーとの抗争は、歴史的イベント『レッスルマニア』第1回大会への伏線ともなった。
1985年5月には当時WWFと提携関係にあった新日本プロレスに来日、IWGPリーグ戦へ出場した。同年11月のIWGPタッグ王座の初代王者チームを決めるタッグリーグ戦では、当時新日本へ参戦していたブロディとコンビを再結成し出場したが、外国人レスラーに王座を与えない新日本側の方針に反発してリーグ戦後の決勝戦を急遽キャンセルして帰国している。

ジミー・スヌーカ

1981年から1982年にかけてはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦。スティーブ・オルソノスキーやレイ・スティーブンスをパートナーに、ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦している。同時期にWWFからAWA入りし、人気が急上昇していたハルク・ホーガンともタッグを組んで活躍した。
1983年4月、WWFと再契約。1984年2月11日にはドン・ムラコからWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取。以降、アイアン・シーク、ポール・オーンドーフ、マスクド・スーパースター、アレックス・スミルノフ、タイガー・チャン・リー、デビッド・シュルツ、マイク・シャープなどの挑戦を退けた。同年9月24日にグレッグ・バレンタインに敗れて一旦王座を失うが、1985年7月6日に奪還。ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートン、ジェシー・ベンチュラ、ミッシング・リンク、テリー・ファンクらを相手に防衛を続け、1986年2月8日にランディ・サベージに王座を明け渡すまでIC王者として活躍した。
その後もWWFに定着し、1987年にはリック・マーテルとの二枚目タッグチーム、ストライク・フォース(Strike Force)を結成。同年10月27日、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)を破りWWFタッグ王座への2度目の戴冠を果たす。1988年3月27日のレッスルマニアIVでデモリッション(アックス&スマッシュ)に王座を奪われてからもコンビを継続させるが、翌1989年4月2日のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(アーン・アンダーソン&タリー・ブランチャード)戦の同士討ちでマーテルがヒールターン。チームは自然消滅し、以降マーテルとの元パートナー同士の抗争を展開する。同年10月14日のキング・オブ・ザ・リングでは決勝戦をマーテルと争い、優勝を飾った。
1990年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットに出場。10年振りの来日を果たし、ジミー・スヌーカと組んで渕正信&小橋健太から勝利を収めた。

ティト・サンタナ

1980年に海外武者修行に出発、プエルトリコにて大仁田と合流し、1981年3月よりマサ・フチ(Masa Fuchi)のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、大仁田とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争い、同タイトルを通算3回獲得した。
全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月にはチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。その後は、ジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。

渕正信

後に「健」⇒「建」に改名。
1989年3月27日、ジャイアント馬場と組んで、フットルース(川田利明、サムソン冬木)の持つアジアタッグ王座に挑戦。デビューから1年でのタイトル初挑戦、またそのパートナーがジャイアント馬場であることが話題となった。
1990年4月9日、二代目タイガーマスクと組んで初のベルトであるアジアタッグ王座を獲得。

小橋健太

【試合結果】 ○スヌーカ(8分28秒・片エビ固め)×渕

第4試合 シングルマッチ20分1本勝負

タイガーマスク vs ブレット・ハート

虎の仮面を脱ぐ前の三沢光晴VS「ヒットマン」ブレット・ハート

タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。これでは、三沢が本来目指すプロレスを前面に出せない(渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった)ことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会参戦。

2代目タイガーマスク

1984年、WWFがスタンピード・レスリングを買収したことに伴い、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ジム・ナイドハートらと共にWWFと契約。同年8月よりWWFマット登場を果たした。
1985年に義兄のジム・ナイドハートとヒールのタッグチーム、ハート・ファウンデーションを結成。マネージャーには同姓のジミー・ハートを迎え、ルックスもファイトスタイルも対照的なコンビとして売り出される(ナイドハートは「ブレットはポルシェ、俺はタンク」と自分たちを表現した)。
1987年1月26日にはダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスを破り、WWF世界タッグ王座を獲得。以降、ピンクとブラックをテーマカラーに用いるようになる。タイトルは同年10月26日にストライク・フォース(ティト・サンタナ&リック・マーテル)に奪われるが、その後もヒールのタッグチームとして観客のブーイングを浴び続けた。
1988年3月27日、レッスルマニアIVの第1試合で行われたインビテーショナル・バトルロイヤルにおいて、ヒール仲間のバッドニュース・ブラウンに裏切られて優勝を逸したことを機に、ナイドハートと共にベビーフェイスに転向。以降は人気コンビとして活躍し、ヒットマン・シェードをリングサイドの子供ファンに渡すルーティンも確立。1990年8月27日のサマースラム1990ではデモリッションを下し、2度目のタッグ王座戴冠を果たした。
しかし、1991年3月24日のレッスルマニアVIIにおけるナスティ・ボーイズ戦で王座を流出、それを機にチームを解散し、ブレットはシングルプレーヤーとして活動を開始した。

ブレット・ハート

【試合結果】 タイガー(20分時間切れ引き分け)ブレット

第5試合 シングルマッチ20分1本勝負

ザ・グレート・カブキ vs グレッグ・バレンタイン

ペイントレスラーの元祖とされているが、カブキ以前にもペイントを施して試合を行うレスラーはいた。しかし、コンスタントにペイントレスラーとして活動し、流行のきっかけを作ったのはカブキであり、かつてのパートナーであるマサ斎藤はワールドプロレスリング解説時に「僕も昔、顔に塗ってこういうスタイルでファイトしてました。外人には受けるんですよね。カブキ以前にもいたことはいるんですけどね。でもやっぱり彼が元祖ですよ」と語っている。
般若の面を付けた連獅子姿や鎖帷子に日本刀を携えた忍者スタイルなどをコスチュームに、ヌンチャクを操り毒霧を吹く東洋の怪奇派ヒールとして異色の悪党人気を博した。

ザ・グレート・カブキ

日本には、1970年代半ばから新日本プロレスに参戦し、常連外国人の一人であった。1975年12月4日にはイワン・コロフと組んでアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦。同王座には1979年11月16日にも、マサ斎藤とのコンビで新王者チームの坂口&長州力に挑戦している。同年12月4日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が保持していたWWFジュニアヘビー級王座に体重を減らして挑戦し、好勝負を展開した。
1990年代は日米レスリングサミットやSWS、バトラーツなどにも来日しており、日米レスリングサミットではザ・グレート・カブキとシングルマッチで対戦した。

グレッグ・バレンタイン

【試合結果】 ○カブキ(7分16秒・エビ固め)×バレンタイン

第6試合 シングルマッチ20分1本勝負

ジェイク・ロバーツ vs ビッグ・ボスマン

1982年8月、ヒールに転向してフロリダ地区に参戦し、ケビン・サリバンやジム・ガービンと結託してバリー・ウインダムとの抗争を展開。このヒールターンを機に、その独特の滑るような動きと細身の体型、そして無表情で陰湿なキャラクターから、「ザ・スネーク」の異名を付けられるようになる。
以降、冷血系のヒールとして頭角を現し、ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは1983年11月6日にロニー・ガービンからNWAナショナルTV王座を奪取。ポール・エラリング率いる悪の軍団リージョン・オブ・ドゥームに加入してロード・ウォリアーズとも共闘した。
テキサス州ダラスのWCCWではプレイボーイ・ゲーリー・ハートをマネージャーに迎え、1984年10月27日にはクリス・アダムス&ジノ・ヘルナンデスのダイナミック・デュオとのトリオで世界6人タッグ王座を獲得[15]、ケビン、ケリー、マイクのフォン・エリック兄弟と抗争を繰り広げた。古巣のMSWAでは一時的にベビーフェイスに戻り、1986年1月から2月にかけて、ディック・スレーターと北米ヘビー級王座やTV王座を争っている。
1986年3月、WWFに移籍[2]。再びヒールとなって、リッキー "ザ・ドラゴン" スティムボートとの「龍対蛇」の抗争を開始する。ビンス・マクマホンによって「ザ・スネーク」のキャラクターには更に肉付けがなされ、蛇のデザインが施されたロングタイツや蛇皮のブーツを着用し、ペットのニシキヘビ「ダミアン(Damien)」を麻袋に入れてリングに持ち込むサイコパス系の怪奇派ヒールとなった。また、スネーク・ピット(The Snake Pit)なるインタビューコーナーのホストも担当した。
WWFにおいてもトップ選手の一人として、スティムボートとの抗争終了後はベビーフェイスに転向。異色の人気スターとなり、ホンキー・トンク・マン、リック・ルード、アンドレ・ザ・ジャイアント、テッド・デビアス、リック・マーテルらと抗争を展開した(アンドレには「蛇嫌い」という設定がなされた)。

ジェイク・ロバーツ

刑務所の看守を経て、1985年にプロレスラーとしてデビュー。1986年夏、ジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区に、ビッグ・ババ・ロジャース(Big Bubba Rogers)のリングネームで登場。黒スーツにソフト帽、サングラスという出で立ちで、悪徳マネージャーのジム・コルネットのボディーガードを務める。服を着たまま試合を行うスタイルが注目を集め、1987年にはミッドサウス・エリアでワンマン・ギャングやスティーブ・ウィリアムスと抗争。1988年3月には全日本プロレスにビッグ・ブーバーの表記で初来日し、ブルーザー・ブロディのパートナーにも起用された。
帰国後、WWFと契約。服を着て戦うギミックはそのままに、元刑務官というキャリアのもと、制服姿の「暴力看守 ビッグ・ボスマン」に変身する。スリックをマネージャーに、警棒と手錠を凶器に用いる巨漢ヒールとしてハルク・ホーガンやダスティ・ローデスと抗争を展開した。また、ワンマン・ギャング改めアキームとツイン・タワーズ(The Twin Towers)なる超巨漢コンビを結成してタッグ戦線でも活躍。メガ・パワーズ(ホーガン&ランディ・サベージ)、デモリッション(アックス&スマッシュ)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)などのチームと激闘を繰り広げた。

ビッグ・ボスマン

【試合結果】 ○ロバーツ(10分25秒・体固め)×ボスマン

第7試合 IWGPタッグ選手権試合60分1本勝負

マサ斎藤、橋本真也(チャンピオンチーム) vs 長州力、蝶野正洋(チャレンジャーチーム)

1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。
斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。
1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。
1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

マサ斎藤

海外修行の後、帰国し闘魂三銃士として、武藤敬司、蝶野正洋と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名を貰っている。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという。
ビッグバン・ベイダーやスコット・ノートン、トニー・ホームといった巨漢外人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開した。橋本自身は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットやパワーボムをほとんど使用せず、あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

橋本真也

1986年ごろからインタビューやマイクで藤波の名を口にし、古巣へのカムバックが次第に色味を帯びてきた1987年、長州の師であり維新軍でも頭目格であったマサ斎藤と猪木との抗争が始まる。これに伴い、調印式などに長州も姿を見せるようになりいよいよ復帰が秒読みと思われつつあった中、4月27日両国国技館での猪木vs斉藤戦に際し、セコンドとして幾人かの元ジャパンプロ盟友らとついに新日会場に姿を見せる。
ついに長州の新日復帰が加速するかに見えたが、新日側は長州軍の参戦カードを中々組まず、痺れを切らせた長州側は5月30日、鹿児島県立体育館大会にてカードジャックを強行、第8試合にて長州は斉藤とのタッグで出陣の運びとなったが、この入場時に藤原が3年前を髣髴とさせるテロ行為に出る。鉄パイプ奇襲で負傷した長州はこの日はマシンに試合を譲ることになった。中一日をおいての6月1日、愛知県体育館にてマシンとのタッグで2年8か月ぶりの新日マットでのファイトに勝利を飾った。
長州側の陣容は、ジャパンプロレス時代に1986年8月全日マットで謀反を起こしたカーン、そして当時引退状態にあったアニマル浜口、全日本にそのまま残った谷津嘉章、寺西勇らを除き、マサ斎藤、小林邦昭、カルガリーハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、またマシンとともに常に行動を共にしていたヒロ斎藤、更に専修大学の後輩でジャパンプロ出身の馳浩、そしてジャパンプロ生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。正式な軍団名は無かったが全員リキプロに所属し、テレビやマスコミからは『ニュー維新軍』と呼ばれていた。
この合流に際し、一足先に新日本に合流していた前田日明率いるUWFとのからみがファンに期待されたが、目立った直接対決の機会のないまま新世代として長州、藤波、前田らは共闘し、猪木世代を相手に世代闘争を繰り広げることとなる。しかし長州の一存でほどなくこのアングルも瓦解、新日本隊対長州軍という流れへと移行していく。次第にUWFの存在を希薄化され解体吸収されることを危惧しナーバスになった前田が長州の姿勢を「言うだけ番長」と揶揄するなど、徐々に確執が顕著になっていく中、11月19日後楽園ホールの長州軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田による長州への顔面蹴撃事件が勃発。これにより長州は眼窩底骨折で長期欠場、前田は新日本を解雇され独立の道を歩み、第二次UWFの旗揚げへと繋がる。
これは同時に、新日本内部において反対勢力を排し長州の影響力を強める契機となった。長州・新日本とUWFという後のプロレス界を席巻、牽引していく二大潮流の源流であり、また両者両団体の因縁の発端と言う意味でも、プロレス界における昭和から平成へのひとつのエポックとなった事件といえる。
長州は1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、名実共に新日本マットの中心となった。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争を主導。

長州力

1984年4月に新日本プロレスへ入門し、同年10月に埼玉県で行われた興行でプロデビューした(初戦の相手は同じくデビュー戦の武藤敬司)。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝した。優勝後、海外遠征を行い、まずドイツのオットー・ワンツのキャッチ・レスリング・アソシエーション(CWA)に出場した。ドイツでは現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会った。
しばらくして、蝶野は北米に遠征し、アメリカ合衆国カンザスシティやアラバマのNWAテリトリーで活動を始めた。また後に、カナダ沿海州やプエルトリコでも活動した。アメリカではテーズ道場に短期滞在し、STFを伝授された。
蝶野は1988年7月に新日本プロレスに短期帰国した。遠征からの帰国後は武藤敬司、橋本真也とともに「闘魂三銃士」として活躍するものの、人気は武藤と橋本の後塵を拝した。1989年4月、新日本プロレス初の東京ドームでの興行であるIWGP王座決定トーナメントに出場し、ビッグバン・ベイダーに準々決勝で破れた。この間には、アメリカ合衆国に戻ったり、短期間オーストラリアに遠征などした。
1989年10月に新日本に戻ってからは、1990年2月10日に新日本プロレス2度目の東京ドーム興行のメインイベントにおいて、橋本真也とのタッグでアントニオ猪木・坂口征二組と対戦し、4月27日に武藤敬司とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得、12月26日に師匠であるルー・テーズを破った。

蝶野正洋

【試合結果】 ○橋本(13分0秒・片エビ固め)×蝶野

第8試合 タッグマッチ60分1本勝負

ジャンボ鶴田、キング・ハク vs リック・マーテル、カート・ヘニング

当初ジャンボ鶴田のパートナーは当初は谷津嘉章でしたが、負傷欠場となったため、急遽全日本プロレス出身でもあるキング・ハクが務めることとなりました。

思い出作りのバックドロップin東京ドーム~!

鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。
1980年代後半以降は、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。
1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に龍原砲(天龍と阿修羅・原のコンビ)に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。
1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。

ジャンボ鶴田

1986年、ハク(Haku)のリングネームでWWFと契約。当初はベビーフェイスとして、トンガ・キッドことタマとのタッグチーム、ジ・アイランダーズ(The Islanders)で売り出された。やがてヒールターンし、ボビー・ヒーナンのファミリーに加入してブリティッシュ・ブルドッグスらと抗争。タマの離脱後はシングルプレイヤーとなり、1988年6月にはハーリー・レイスの負傷欠場で空位となっていた「キング」の称号をバトルロイヤルに勝ち抜いて獲得した。以降、キング・ハク(King Haku)を名乗り、同年の8月から10月にかけてはハルク・ホーガンとの連戦も行われている。
翌1989年1月のロイヤルランブル1989でレイスを破り正式に「王位」を継承するが、その後ジム・ドゥガンに敗れキングの座から陥落。同年下期からはヒールに転向していたアンドレ・ザ・ジャイアントとのタッグチーム、コロッサル・コネクション(The Colossal Connection)で活躍。アックスとスマッシュのデモリッションを相手に、WWF世界タッグ王座を巡る抗争を展開した。
1990年4月には日米レスリングサミットへの参戦で久々に日本に登場。ジャンボ鶴田と組んでカート・ヘニング&リック・マーテルから勝利を収めた。

キング・ハク

1987年、カンナム・コネクション(The Can-Am Connection)のチーム名でジンクと共に再びWWFに参戦、3月29日のレッスルマニアIIIではカウボーイ・ボブ・オートン&マグニフィセント・ムラコから勝利を収めた。ジンクのWWF離脱後は、ティト・サンタナを新パートナーにイケメン系タッグチームのストライク・フォース(Strike Force)を結成し、10月27日にハート・ファウンデーションからWWF世界タッグ王座を奪取、翌1988年3月27日のレッスルマニアIVでアックスとスマッシュのデモリッションに敗れるまで保持した。
王座陥落後もサンタナとのコンビで活動したが、1989年4月2日のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)戦でサンタナと仲間割れ。以降はスリックをマネージャーに迎え、ザ・モデル(The Model)というキザなキャラクターのヒールに転向、1989年10月14日のキング・オブ・ザ・リングではサンタナと決勝戦を争った(結果は準優勝)。1990年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットにもヒールのポジションで来日、カート・ヘニングと組んで因縁のジャンボ鶴田&キング・ハクと対戦した。

リック・マーテル

WWFでは「何をやっても完璧な男」というギミックが与えられ、ミスター・パーフェクトを名乗るエゴイスト系のヒールとして登場。初期はザ・ジニアス、後にボビー・ヒーナンをマネージャーにヒール陣営の主力選手に迎えられ、1990年4月23日には、前王者アルティメット・ウォリアーの返上で空位になっていたインターコンチネンタル・ヘビー級王座の新王者決定トーナメントにおいて、決勝でティト・サンタナを下し第16代IC王者となる。
以降、8月27日のサマースラム1990でテキサス・トルネードに一時タイトルを奪われるも、11月19日のTVテーピングにて奪還し、翌1991年8月26日のサマースラム1991においてブレット・ハートに敗れるまで長期政権を築いた。

カート・へニング

【試合結果】 ○鶴田(10分53秒・体固め)×マーテル

第9試合 シングルマッチ60分1本勝負

天龍源一郎 vs ランディ・サベージ(w / センセーショナル・シェリー・マーテル)

レスリングサミットでもっとも評価が高かった試合

1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾る。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。

天龍源一郎

1985年6月8日、ジェリー・ローラーとの敗者追放マッチに敗れてCWAを去り、妻のエリザベスをマネージャーにWWFに登場。若手時代にデトロイトで邂逅したパンピロ・フィルポを模した "Oooh Yeah!!" を決め台詞にトップ・ヒールとして頭角を現し、翌1986年2月8日にはティト・サンタナからインターコンチネンタル・ヘビー級王座(以下IC王座)を奪取した。
1987年3月29日にミシガン州で開催されたレッスルマニアIIIでは、リッキー・スティムボートと歴史に残るIC王座戦を展開。この試合でIC王座から転落するとベビーフェイスに転向し、エリザベスとの二人三脚で人気をさらに高める。
1988年3月27日にニュージャージー州アトランティックシティで開催されたレッスルマニアIVのWWF世界王者決定トーナメントでは、俳優活動も始めたハルク・ホーガンを抑えメインイベントに抜擢された。ホーガンとエリザベスのサポートもあり、決勝でテッド・デビアスを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得、名実共にWWFのトップスターまで登りつめた。
1988年にハルク・ホーガンとのタッグチーム「メガ・パワーズ(The Mega-Powers)」を結成。8月29日のサマースラム第1回大会のメインイベントではアンドレ・ザ・ジャイアント&デビアスの「メガ・バックス」と対戦した。しかしながら、エリザベスを巡る三角関係のアングルでコンビは解散し、ホーガンとの抗争に発展していく。
1989年4月2日のレッスルマニアVでホーガンに敗れ、WWE世界王座とエリザベスを同時に失う。その後はエリザベスに代わる新しい女性マネージャーとしてセンセーショナル・シェリーを帯同し、再びヒールに戻ってホーガンとの抗争を継続させる。キングを名乗っていたジム・ドゥガンを破ったことでリングネームもマッチョマンから「マッチョ・キング」に変更し、1990年代からはダスティ・ローデスやアルティメット・ウォリアーとの抗争に入った。

ランディ・サベージ

【試合結果】 ○天龍(10分49秒・エビ固め)×サベージ

第10試合 WWF世界ヘビー級選手権試合60分1本勝負

アルティメット・ウォリアー(チャンピオン) vs テッド・デビアス(チャレンジャー)

この肉体こそ超人!アルティメット・ウォリアー!!

1987年6月、WWFと契約を交わし入団。10月7日収録のWWFスーパースターズにてリングネームをアルティメット・ウォリアー(The Ultimate Warrior)と改名し、テリー・ギッブスに勝利。以降、TVテーピング番組の前座試合でホセ・エストラーダやマイク・シャープなどベテランのジョバーと対戦して経験を積む。
1988年8月29日、サマースラム1988にてホンキー・トンク・マンからインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取。1989年4月2日、レッスルマニアVにてリック・ルードに王座を奪われるが8月29日のサマースラム1989で奪還。
1990年4月1日、レッスルマニアVIではハルク・ホーガンとのWWF世界王座&インターコンチネンタル王座のダブルタイトルマッチに勝利し、2冠王者となる。同月13日には日本の東京ドームにて行われたWWF、新日本プロレス、全日本プロレスが合同して行った日米レスリングサミットに参戦すると共に初来日を果たす。WWF世界王者としてテッド・デビアスの挑戦を受けて防衛。

アルティメット・ウォリアー

1987年6月より、WWFに再登場。「急逝した父親の莫大な財産を受け継ぎ、一生遊んで暮らすこともできるが、暇を持て余しているので暇潰しにプロレスをやることにした」という、嫌味な金満ギミックのミリオンダラー・マンとしてヒールで活躍。出身地も、春はフロリダ州パームビーチ、夏はマサチューセッツ州ハイアニス・ポート、秋はカリフォルニア州ベル・エア、冬はオランダ領アンティルと、各地のリゾートに豪邸を持っているという設定でシーズン毎に変更していた。
その金満キャラクターゆえ、設定上「配管工の息子から成り上がった」 "アメリカン・ドリーム" ダスティ・ローデスを嫌悪していた。なお、黒人ボディーガードとして従えていたマイク・ジョーンズのリングネーム "バージル" は、ダスティの本名でもある。
WWF世界ヘビー級王座こそ獲得できなかった(アンドレ・ザ・ジャイアントから金で買ったというストーリーがあったが、当然公認はされていない)ものの、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージ、ジェイク・ロバーツらトップスターと長期間に渡って抗争。タッグでは、IRSことマイク・ロトンドとのマネー・インコーポレーテッドでWWF世界タッグ王座を3度奪取した。

テッド・デビアス

【試合結果】 ○ウォリアー(6分12秒・体固め)×デビアス

セミファイナル タッグマッチ60分1本勝負

ジャイアント馬場、アンドレ・ザ・ジャイアント vs デモリッション(アックス&スマッシュ)

ジャイアント馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントはこの日が初のタッグ結成で、このコンビはこれ以降1992年まで「大巨人コンビ」として全日本プロレスを舞台に活躍することになりました。

ジャイアント馬場&アンドレ・ザ・ジャイアントが花道を歩くだけでボルテージは最高潮!!

1980年代中盤になると、新たにWWFの総帥になったビンス・マクマホンが全米侵攻作戦を行ってそれまで馬場が友好関係を結んでいたNWA・AWAのプロモーターをなぎ倒し、その一方WWFと新日本プロレスとの提携を解消したことから全日本とWWFにも接点が出来るようになった(もともと、馬場は1960年代にニューヨークで活躍した実績があり、ビンス・マクマホンおよびその父ビンス・マクマホン・シニアとは旧知の関係ではあった)。
1990年4月13日、全日本・新日本・WWF三団体共催という形で「日米レスリングサミット」が東京ドームで開催された。馬場とアンドレの絡みは大きな目玉の一つであり、2月に馬場が訪米してWWF幹部と会談した際には、アンドレとのツーショットでテレビに登場する場面も用意された。当日はセミファイナルでWWF世界タッグ王者のデモリッション(アックス&スマッシュ)と対戦、馬場の十六文キックからアンドレのエルボー・ドロップというコンビネーションで勝利をおさめた。

大巨人コンビ

ジョニー・Vをマネージャーに、ヒールの大型タッグチームとして1987年3月14日のサタデー・ナイト・メイン・イベントにて本格的なデビューを果たす。以降、ジョニー・Vに代わってミスター・フジが専属マネージャーとなり、ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)、キラー・ビーズ(ジム・ブランゼル&ブライアン・ブレアー)、ルージョー・ブラザーズ(レイモンド・ルージョー&ジャック・ルージョー)、ヤング・スタリオンズ(ポール・ローマ&ジム・パワーズ)らを下し、1988年3月27日のレッスルマニアIVでストライク・フォース(リック・マーテル&ティト・サンタナ)からWWF世界タッグ王座を奪取。その後、11月24日のサバイバー・シリーズ1988でマネージャーのフジと仲間割れし、ベビーフェイスに転向[7]。同年6月にNWAからWWFに移籍してきた、ロード・ウォリアーズの完全なフェイク版であるパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)と抗争を展開した。
1989年7月18日、ブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)に敗れ1年4か月間に渡って保持していた王座を奪われるが、10月2日のサタデー・ナイト・メイン・イベントで奪回。しかし、12月13日にコロッサル・コネクション(アンドレ・ザ・ジャイアント&ハク)に敗れて再び陥落。以降、王座を巡るコロッサル・コネクションとの抗争がスタートし、1990年4月1日のレッスルマニアVIで奪還に成功、3度目の戴冠を果たした。直後の4月13日には東京ドームで行われた『日米レスリングサミット』に来日し、ジャイアント馬場&アンドレの大巨人コンビと対戦している。

デモリッション

【試合結果】 ○アンドレ(6分39秒・体固め)×スマッシュ

メインイベント シングルマッチ60分1本勝負

ハルク・ホーガン vs スタン・ハンセン

当初メインイベントはハルク・ホーガンvsテリー・ゴディのWWF世界ヘビー級王座選手権試合が予定されていたものの、直前のレッスルマニア6でハルク・ホーガンがアルティメット・ウォリアーに敗れ王座から陥落したためにノンタイトル戦として行われることに。ところがこれを不服としたテリー・ゴディが出場をキャンセル。
そこで全日本プロレスの関係者はスタン・ハンセンに出場を要請し、スタン・ハンセンがこれを了承してメインイベントの対戦カードが決定した、とされていますが実際は前売りチケットの売り行きが芳しくないため、主催者が急遽対戦カードを変更したというのが真相とされているようです。

これは盛り上がった!やっぱりホーガンは千両役者だった!!

1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWA社長のバーン・ガニアはこの突然の引き抜き事件に激怒したという)。翌1984年1月23日、MSGにおいてアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座初戴冠。2月10日にはNWAの総本山だったセントルイスのキール・オーディトリアムにて、マスクド・スーパースターを相手に初防衛に成功。以降、同年より開始された全米侵攻サーキットにおいて、ポール・オーンドーフ、ビッグ・ジョン・スタッド、デビッド・シュルツ、ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートンら強豪との防衛戦が各地で行われた。
シンディ・ローパーらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発していった。1985年にレッスルマニアが開始されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア(Hulkamania)」を足したホーガンのための大会だった。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決(1987年3月29日、レッスルマニアIII)では9万3173人という観客動員数を記録している。その後もWWF世界王者として活躍し、フェイスターンした旧敵のロディ・パイパー、ポール・オーンドーフ、ドン・ムラコらとタッグを組むこともあった。
1988年2月5日の "WWF The Main Event" におけるアンドレ・ザ・ジャイアントとの防衛戦において、3カウント前に肩を上げたもののフォール負けを取られてタイトルを失うが、その後もホーガンの人気は衰えず、同年3月27日のレッスルマニアIVでの新WWF世界王者決定戦では、前年にフェイスターンしていたランディ・サベージの王座戴冠をアシストした。以後、サベージと「メガ・パワーズ(The Mega-Powers)」なるタッグチームを結成し、アンドレ&テッド・デビアスのメガ・バックスやビッグ・ボスマン&アキームのツイン・タワーズなどと抗争するが仲間割れ。1989年4月2日のレッスルマニアVにおいて、再びヒールとなったサベージを破り、WWF世界王者に返り咲いた。
その後、さまざまな低予算映画に主演し俳優としても活躍した。
1990年には日米レスリングサミットへの出場で久々に来日し、スタン・ハンセンと大勝負を行う。

「超人」ハルク・ホーガン

1981年6月にテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約、同年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した。ただしハンセンの移籍は秘密裏に行われており、当時の関係者やファンを非常に驚かせた(全日本と新日本は有名選手の引き抜き合戦の最中にあり、ハンセンの参戦は最大の事件として記憶されている。12月初旬の段階で馬場夫妻とファンクス以外にはごく限られた関係者しか知らされておらず、盟友ブロディに対してもハンセン本人が直接状況説明をした。そのためブロディは、長くファンクスに対し不信感を持つこととなった)。
全日本プロレスへの公式移籍後は馬場や鶴田、天龍源一郎と闘うが、鶴田との試合は旧知の間柄であることもあって、噛み合わない試合が多かった。また、ブロディと組んだ「ミラクルパワーコンビ」は圧倒的な強さを誇った。ミラクルパワーコンビと並行してロン・バスとのカウボーイ・タッグチーム「ラリアット・ライダーズ」を結成し、1983年4月12日にインターナショナル・タッグ王座も獲得している。ブロディとのコンビ解消後はテッド・デビアス、テリー・ゴディらを新パートナーに、PWF世界タッグ王座、世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグでも優勝を果たした。また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。
本国では1985年12月29日、ニュージャージー州イーストラザフォードでリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取[11]。以後、サージェント・スローター、レオン・ホワイト、カート・ヘニング、デビッド・サンマルチノ、ジェリー・ブラックウェル、ニック・ボックウィンクル、リック・マーテル、長州力、ジャンボ鶴田らを相手に防衛を果たし[12]、米国での地位も確かなものとした。またAWA王座在位中の1986年3月29日には、自身の保持するAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座と、インターナショナル・ヘビー級王座を保持する鶴田との間で、日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。
1990年2月10日の新日本プロレス主催・東京ドーム大会では、目玉の一つとなった「新日本vs全日本」の一環として、当時IWGPヘビー級チャンピオンであったベイダーに挑戦。両者リングアウトとなるも、ド迫力の戦いは語り草となった。4月13日の日米レスリングサミットでは、メインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。

「浮沈艦」スタン・ハンセン

【試合結果】 ○ホーガン(12分30秒・片エビ固め)×ハンセン

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