【ミスタープロレス】天龍源一郎
【ミスタープロレス】天龍源一郎
天龍、引退試合で王者オカダに玉砕「腹一杯のプロレス人生でした。」 - Middle Edge(ミドルエッジ)
角界時代
「天龍」の四股名で西前頭筆頭まで昇進
1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題に巻き込まれる。
自身は押尾川親方(大麒麟)の興した押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈したとされる。1976年秋場所に勝ち越したものの(東前頭13枚目、8勝7敗)、同場所を最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。
全日本プロレス
全日第3の男「風雲昇り龍」としてブレイク
1981年7月、ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦。
天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイク。
鶴田とのタッグ「鶴龍コンビ」で長州・谷津嘉章組と抗争を繰り広げた天龍
また、ライバル団体だった新日本プロレスの総帥アントニオ猪木に遠慮して全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、天龍カラーを確立していくことに。
1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという天龍スタイルに変更。
鶴田と次期ダブルエースの座を確立し、1984年2月リッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。
さらに長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグ「鶴龍コンビ」で長州・谷津嘉章組と抗争を繰り広げ、人気も得た。
スタン・ハンセンとのタッグながら、ジャイアント馬場から日本人で初めてのピンフォール奪取
阿修羅原さん 追悼企画 昔、ラガーマンだったプロレスラーたち - Middle Edge(ミドルエッジ)
1986年10月、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。
更には天龍同盟を結成(原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。
特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。
1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。
ジャンボ鶴田との「鶴龍対決」は全日本プロレスのドル箱カードに
【ジャンボ鶴田VS天龍源一郎】「鶴龍対決」と称された1980年代後半の全日本プロレス看板カード!恵まれた体躯を誇った二人のド迫力対決にファンは酔いしれました!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
SWS~WAR
アントニオ猪木からピンフォール勝ちを収めた天龍