ドリー・ファンク・ジュニア 輝かしい戦績
NWA王者ドリーの時代
ドリー・ファンク・ジュニア | プロレス桃源郷へのいざない
NWAのタイトルは、その後ハリー・レイス→リック・フレアーと受け継がれて行きますが、受け一辺倒のスタイルで反則、リングアウト絡みで防衛を重ねる「ダーティチャンプ」のイメージが強く、また度々王座から陥落していたので、4年以上防衛を続けていたドリーに比べ、はっきり言って印象が良くないです。
NWA王座が「強さの象徴」だったのは、ドリーの時代が最後だったのかも知れませんね。
幻の名勝負、対猪木戦
ドリーの名を最初に知らしめたのは、やはりこの試合でしょう!日本でも人気のあった「荒法師」ジン・キニスキーを破って世界最高峰のNWA王座に就いた若干27歳のチャンピオン、ドリーの実力を日本のファンに見せつけた試合でした。
若き猪木とのスピーディーなテクニックの応酬は見ごたえ充分です。
ファンクス その名勝負
そしてドリーは1973年にハリー・レイスに敗れるまで実に4年3か月もの間、NWA王座に君臨して実力世界一の名を欲しいままにして来ました。
また日本マットにおいては、日本プロレス崩壊後、弟のテリーと共に「ザ・ファンクス」としてジャイアント馬場率いる全日本プロレスにレギュラー参戦。
1977年のオープンタッグ決勝戦をはじめとしたアブドラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組と血の抗争を展開、「テリーを助ける頼もしい兄貴」として第2の人気のピークを迎えます。
その後もハンセン、ブロディとの抗争など全日本マットのエース外国人として息の長い活躍を見せますが、弟テリーの引退とカムバックに呼応するように全日本マットからフェードアウト。
一時期WWFに上がったりもしていたのですが、2001年には、なんと!新日本マットに初参戦。
ファンクスとして東京ドームのリングに上がりました。
現在は第四代PWF会長として全日本マットでウイットネスとして元気な姿を見せる一方、時折現役レスラーとして参戦。
若いレスラー達に「生きる教科書」として身をもってプロレスを教えています!
必殺技 スピニング・トー・ホールド
得意技は何といってもスピニング・トー・ホールド!
父親のドリー・ファンク・シニアから伝授された必殺技で、ドリー並びにテリー、ディック・スレーター、若手時代のテッド・デビアスといった「ファンク一家」のレスラーの代名詞となった技です。
スピニング・トー・ホールドは何処が痛いのでしょうか? - つま... - Yahoo!知恵袋