「赤ヘル機動力野球の申し子」として3度の盗塁王を獲得した高橋慶彦
高橋慶彦(たかはし よしひこ)
高橋慶彦の獲得タイトル・主な表彰と記録
盗塁王:3回 (1979年、1980年、1985年)
ベストナイン:5回 (1978年 - 1980年、1983年、1986年)
月間MVP:1回 (1979年7月)
日本シリーズMVP:1回 (1979年)
日本シリーズ打撃賞:1回 (1979年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1984年)
日本シリーズ3試合連続盗塁(1984年) ※シリーズ記録
33試合連続安打(1979年6月6日 - 7月31日) ※日本記録
通算初回先頭打者本塁打34本(表13本、裏21本) ※歴代3位
セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打32本(表12本、裏20本) ※歴代2位
オールスターゲーム出場:6回 (1979年、1980年、1983年 - 1986年)
高橋慶彦のプレースタイル
俊足・好打の『理想の一番打者』
積極的に次の塁を狙うため盗塁死も多く、通算477盗塁は歴代5位の記録だが通算206盗塁死は福本豊の299に次いで歴代2位であり、広島・阪神時代に記録した通算202盗塁死はセ・リーグ記録である。
また、1983年には70盗塁を記録するものの、28盗塁死を喫しており、これがシーズン盗塁死のセ・リーグ記録となっている。
また、この年は読売ジャイアンツの松本匡史が76盗塁を記録して盗塁王を獲得しており、70盗塁は盗塁王を逃した記録としては、現在に至るまで最多記録である。
広島に臨時コーチで来た山内一弘のレベルスイングを1983年に取り入れ本塁打を20本台へと増加させるが、一方で打率が下降し三振も増加した。
これに関してはフォーム改造・本塁打増との因果関係も囁かれ(高橋本人は否定)、チームメイトの衣笠祥雄は安打だけを狙っていたら3000本安打を達成していたかもしれないと後年語っている。
高橋慶彦の生い立ちとプロ入りまで
高橋慶彦 - Wikipedia
広島カープでプロ入り後、猛特訓でスイッチヒッターに
高校時代はエースで4番の高橋だったが入団後間もなく打者に転向、ジョー・ルーツ監督の指令でスイッチヒッターとなるべく山本一義打撃コーチと共に猛特訓を開始。
朝から晩までバットを振り続け、食事時や寝る時もバットを手離さず、これで体を壊さないのが不思議なほどだと言われていた。
身長176cmとプロ野球選手としては決して恵まれた体格ではなかったが、この並外れた練習量とウエイトトレーニングで実力をつけ、1978年からレギュラーに定着。
1970年代後半から1980年代の赤ヘル黄金時代に、1番打者として活躍した。
ジョー・ルーツの後を継いだ古葉竹識監督の下、「赤ヘル機動力野球の申し子」として3度の盗塁王を獲得。
1979年には33試合連続安打の日本記録を打ち立てると、同年の日本シリーズでは全7試合で安打し、打率.444を記録、MVPに輝いた。
甘いマスクで元祖カープ女子をメロメロにした高橋慶彦
広島カープにおいて数少ない全国区の知名度を持った選手で小説家・村上龍が高橋をモデルに書いた『走れ!タカハシ』はベストセラーとなっている。
甘いマスクで女性人気も高く、歌手としてシングルレコードを4枚も出している。
君の声が聞こえる/青春の1ページ(1980年発売)
うわさのセクシークイーン/ハッピーナイスデイ(1981年発売)
僕の世界へ/君の声がきこえる(1982年発売)
鏡の中のメモリー/想い出は風のように(1982年発売)
ビクトリー(1984年4月1日発売。メインボーカルは細川たかし、高橋は原辰徳・岡田彰布・宇野勝・遠藤一彦・荒木大輔と共にコーラス参加。
高橋慶彦/鏡の中のメモリー
高橋慶彦の人柄について
人なつっこく明るい性格で、交友範囲が広かった。
ビートたけしや浜田省吾など、仕事で広島に訪れる有名人を「今日飲みましょう」と誘い、広島の歓楽街・流川で飲み歩く姿が度々目撃されていた。
昼は真っ赤なポルシェを乗り回し、遊び人としても有名で、叶和貴子など芸能人との噂も多かった。
そのため「夜も盗塁王」などと揶揄されたこともある。
その一方で、スイッチヒッター転向のエピソードにもうかがえるように「練習の虫」と名づけられるほどの努力家でもあり、足を故障したときもバッターボックスに椅子を置きそれに座ってフリーバッティングをしていたり、付き合っている女性のマンションにバットを持ち込んで夜中に素振りを繰り返していたとの伝説がある。
若手の頃から首脳陣や先輩にも臆することしなく堂々と意見をぶつけていた。
後年現役時代を振り返り、「自分は減らず口ばかり叩いてきたから、ベテランになれば出されるのは覚悟していた」と語っている。
江夏から若い時の自分に性格が似ていると言われたことがあり、「生意気で目上の人にも臆さずものを言うから(トレードに)出されたけど、なんでもハイハイ言うてる性格ならお互いプロでここまで活躍できてないのじゃないか」と言われたときはなるほどと納得したという。
従兄弟として、俳優で歌手の高橋良明と歌手・高橋知秀の兄弟がいる。
しかしながら、高橋良明はバイク事故のために16歳で死亡、また高橋知秀も後年の交通事故によって芸能活動から退いている。
1987年、球団フロントと対立し出場停止に。
1989年、ロッテへ電撃トレード
1989年、高橋は打率が2割6分7厘に落ち、自慢の足も衰え盗塁は13個止まりで終わった。
さらに入団した同ポジションの野村謙二郎の台頭もあって、1899年のオフ、高沢秀昭・水上善雄との大型トレードで、白武佳久・杉本征使と共にロッテ・オリオンズへ移籍した。
トレード会見時の高橋慶彦
ロッテ~阪神では大きな活躍をできず現役生活を終えた。
ロッテでは金田正一監督の下、遊撃手より外野手として期待されマイク・ディアズらと中軸を組んでいた。
しかし、既に全盛を過ぎており思うような成績を挙げることができなかった。
1990年オフに遠山奬志とのトレードで阪神タイガースへ移籍。
しかし成績は前年よりも悪化し、1992年には久慈照嘉の入団により出場の機会が激減、その年限りで現役引退した。
現役引退後の高橋慶彦
引退後はアール・エフ・ラジオ日本解説者を経て、1995年から1996年まで福岡ダイエーホークスの一軍打撃・走塁コーチ、1997年は二軍守備・走塁兼打撃コーチを務めた。
選手の起用法を巡ってバッテリーコーチの達川光男と対立、広島時代から折り合いがよくなかったが選手が目を丸くするほどの揉み合いし、達川は体調不良を理由に1年で退任した。
村松有人や浜名千広ら、後のホークスを支える若手を育成した。
ダイエー退団後は、1999年から2001年までは九州朝日放送(KBC)[5]・2002年から2003年頃まではCS系テレビの解説者を務める傍ら、2000年から2003年までスポーツニッポン(福岡)野球評論家を務めた。その一方、フジテレビの番組『奇跡体験!アンビリバボー』にて、ガーナでの野球の普及活動に力を注いだ。
2004年、シーズン途中に千葉ロッテマリーンズの一・二軍巡回コーチへ招聘された。
2005年より正式に一軍走塁コーチとなり、自身と同じスイッチヒッターの遊撃手である西岡剛を一人前に育てるなど、チームの日本一に貢献した。
一軍打撃コーチ(2008年 - 2009年)を経て、2010年より二軍監督を務め、同年にイースタン・リーグ優勝(4年ぶり8度目)及びファーム選手権優勝(二軍日本一)に導く。
2012年は一軍ヘッドコーチを務めたが、10月15日付で球団から退団を通知される。
2012年、福島県郡山市の宅建業者、ウェルズホームに入社し、広報部長を務める。
2013年1月7日から3月7日まで東京スポーツ紙上で『赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』(月曜日 - 木曜日発売分)を連載していた。
2013年には映画『ダイヤモンド(製作:オールインエンタテインメント、監督:本間利幸)に主演した。
同年9月22日に日本テレビで放送された番組『有吉反省会』に出演した際「映画の主役に抜擢されたが、その演技がひどすぎる」と反省した。
また、2014年からテレビ新広島(TSS)・中国放送(RCC)などで野球解説者としての活動を再開したが(本数契約)、社業などのスケジュールの都合からTSSでの初回出演予定は金石昭人に変更となった。また、その他では広島ホームテレビ(HOME)等在広局の番組にも時々出演していた。
2015年10月15日に2016年からオリックス・バファローズの一軍打撃コーチに就任することが発表された。
高橋慶彦が経営している『Dining慶彦』
Dining慶彦
Dining慶彦 (ヨシヒコ) - 胡町/洋食 [食べログ]
独特な表現のTwitterで注目されている
この愛らしいツイートに反響が続々…
そんな指摘に対して、高橋慶彦さんは
気さくで楽しい高橋慶彦さんのTwitter
これからも注目です!