トム・クルーズに関しては、デビュー作「エンドレス・ラブ」から「アウトサイダー」「レジェンド」「トップガン」「ハスラー」ともぎり続け、観続けたが、その魅力が理解できなかった。
「何がいいかわからなかった。
整った顔にも、白い歯にも、まっすぐなお芝居にも、さっぱり胸がときめかない」
しかし異様なもてはやす周囲とハリウッドのトップへ登り詰めていくトムをみて
「単に好みの問題か?」
「日本人には嗅ぎ取りにくい特殊なフェロモンを放っているのでは?」
と悩み、
「これは観続けなければならない」
と数人の仕事仲間と「トムの会」を結成。
「観れば観るほどわからなくなる」トム・クルーズの魅力について語り合いながら、「レインマン」「7月4日に生まれて」などは、映画館を辞め、もぎりを卒業していたが「トムの会」で鑑賞。
トム・クルーズはコンスントに新作をリリースしたので年に1度は「トムの会」が開催されていたが、1987年にジョン・ウー監督、チョウ・ユンファ主演の「男たちの挽歌」を観ると、あっさり「チョウ・ユンファの会」に変わってしまった。
それから10年後、2017年、「バリー・シール/アメリカをはめた男」を観て、片桐はいりは50歳を超えて初めてトム・クルーズを
「超かっこいい」
と思い、やっと好きになりかけた。
大学に入ってすぐに映画館で働き始めた片桐はいりだが、同時期、
「映画に出演してみたい」
と大学の映画研究会へ。
しかし先輩部員に顔をジックリとみられた後、
「映画でアップで映るよりは、遠目の舞台の方が生きるんじゃないか」
とクールに断られたため、仕方なく演劇部へ。
すると人手不足のために、いきなり出演が決定。
犯人の姉で謎の女性という普通の役なのに、舞台に登場しただけで爆笑が起きた。
実は
「演じることによって別の存在になれるんじゃないか」
という願望を持っていた18歳の片桐はいりは、打ちのめされて号泣した。
(このときは凹んだが、後に
「このエラが笑いをものにする」
「この顔が役に立つ」
などと肯定できるようになった]
その後、片桐はいりの舞台を観た、大学近くの喫茶店の男性店員から、
「週に3日ほど稽古にいくとスズナリの舞台に立てるらしいよ」
と教えてもらい、片桐はいりは、その劇団名も、どんな芝居をしているのかも知らなかったが、前年に開場したばかりの「下北沢ザ・スズナリ」という劇場のことは知っていたので、生田萬(いくたよろず)と銀粉蝶(銀粉蝶)が主宰する「ブリキの自発団」に入った。
こうして
「日本の古典文学を学ぶ学生」
「銀座の映画館のもぎり嬢」
に続いて
「劇団員」
という3つの肩書きが手に入れ、大学のある吉祥寺、劇団の稽古場がある池袋、そして銀座の映画館を周り続けた。
週3日といわれて入った「ブリキの自発団」だったが、週8日あっても足りないほど忙しく、寝る間もなく働かされた。
その内容は、チラシ、ポスターをつくって、刷って、配り歩いて、舞台のセット、衣装、小道具を作成し、そして少しだけ俳優。
「1番苦しかったのは50枚にも及ぶチケットのノルマ。
公園期間中も作業と稽古の合間にぬって通った銀座文化劇場で、もぎりをしながら劇団のチケットを売った。
映画館では入場券をもぎる際に半券と一緒に次週の上映表や割引券などを渡すのだけど、それに時々、劇団のチラシを紛れこませた。
運よく演劇好きの学生などが食いついてくれた日には、言葉巧みに、その場でチケットを売りつける。
おかげさまで600円の映画を観に来た人に、その3倍はする舞台のチケットを随分買ってもらったものだ」
中学時代にエキストラ応募を断念した「あゝ野麦峠」も、演劇ではなくリアルに体験。
「あゝ野麦峠」は、飛騨から野麦峠を越えて信州の製糸工場に過酷な出稼ぎにいった明治時代の貧しい女工の話だったが、先輩に
「夏休みにリゾートで働きながら自主映画を撮ろう」
と
「だまされて」
数人と共に、同じ信州、野麦峠の反対側にある礒氷峠(うすいとうげ)を越えて軽井沢に
「売られていった」
高原リゾートで遊びながらお金をもらえるなど甘い話があるわけがなく、それどころかタイムカードもなく、朝から晩まで起きている間は働かされ、
「8ミリなど回す暇などあるものか!」
住み込みなので逃げる場所も帰る場もなく、まかないつきとはいうものの、朝は白飯と中身のない味噌汁、そしてざるに山盛りになった生卵。
数日で先輩の女子がダウンしたため、陽も差さないタコ部屋に、おかゆを運び、毎夜、さめざめと泣きながら峠を越えて帰る日を待ちわびた。
給料は、日給2000円。
2週間働いてもらった3万円足らずは、帰りのドライブで使い果たした。
「つまるところ東京生まれで食う寝るに困らない学生のひと夏のイベントになってしまった」
片桐はいりは、劇団に入って1年後、19歳のときに下北沢ザ・スズナリでプロ初舞台を踏んだ。
「下北沢ザ・スズナリ」は、茶沢通りに面した風呂なしアパート、すずなり荘の2階部分を改装した小劇場で、階下には年季の入った商店街「鈴なり横丁」が、屋根裏ではネズミが走っていた。
楽屋は4畳半と6畳の和室で水しか出ない流しと押入れつき。
客席は全席座敷で、客は靴を袋に入れて上がり、満席のために舞台に上げられ、体育座りしていると自分を俳優がまたぎながら劇が進行した。
そんな「下北沢ザ・スズナリ」だったが、片桐はいりは劇場と映画館と似ていると思った。
「がらんどうで妖しくて薄暗い場所。
そういう空間にいると、なぜか血が沸くみたいに興奮して、でも妙に安らぐ」
この後、劇場だけでなく、野外劇、テント公演、デパートの屋上、古い日本家屋の大広間など、様々な場所でお芝居を行った片桐はいり。
「舞台の床に寝転ぶのも好き。
幸せな気分になる」
といい、公演時は誰よりも早く現場入りし、誰もいない客席にボンヤリと座ったり、舞台の上で大の字に寝転んで天井を見上げた。
おかっぱ頭の個性際立つ風貌と飄々とした演技で、小劇場演劇の世界で大きな注目を浴び、「ブリキの自発団」の主力になったが、演劇や俳優はあくまで趣味でメインは映画館。
大学卒業後も、できれば
「映画会社に就職」
できなければ
「映画館のもぎりとして一生過ごせばいいや」
と思っていた。
「女優さんになりたいと思ったことはないですね
ないですっていうのも変だけど、俳優になったのは、ほぼ偶然ですよ。
だってもともと映画が好きだから、大学時代にもぎりをやってたんで、そのままでいいし、就職できるんだったら映画館に就職するし、まあちょっとそれじゃあなんだっていうんだったら、まあ大学も出たんで、映画会社の宣伝部に入って邦題考えたり、ハリウッドからスターがいらっしゃったら「こちらにどうぞ」みたいな。
それが私の理想の職業ですね」
就職活動の時期になり、
「映画の配給会社を受けてみようか」
などと思っていたとき、自分の舞台を観た電通の社員からスカウトを受け、
「いいことあるっぞ〜!ミスタードーナツ 」
で有名なミスタードーナツのCMに出演した。
明石家さんまと2人で歌いながら店を訪れ、
「期待してきたんですけど」
と店員に迫る内容は話題を呼び、一躍有名になった。
そしてもぎりの何十倍というギャラをもらい
「これで1年働かなくてもいいじゃん」
と
「気が大きくなって」
大学を卒業しても就職しなかった。
そして舞台だけでなく、CM、ドラマ、映画と活躍の場を広げていきながらも、あくまで女優は
「仮にやっているだけ」
本職はもぎりで、映画館でもぎり続た。
24歳のとき、ミスタードーナツのCMで23歳のダウンタウンと初共演。
このときのダウンタウンは、東京に進出して間もない頃。
片桐はいりは、2人の楽屋にあいさつに行ったとき、これが東京でのほぼ初仕事と聞いていたので、きっと
「よろしくお願いします」
と謙虚にいわれると思っていたが、浜田雅功は、
「なんや」
といわんばかりにふんぞり返ったまま、松本人志はうつむいたままでなにもいわず、あまりの偉そブリに
「こっちがスミマセンみたいな感じになった」
しかしその後、ダウンタウンが上方漫才大賞を獲ったとき、プレゼンテーターとして花を贈呈し、ずっと
「彼らにとってわたしが東京で1番最初のお友達」
と思っていたが、松本人志の監督作品「R100」(2013年10月5日公開)に出演したとき、
「初めまして」
といわれた。
そして与えられた役は「丸呑みの女王様」で、最後はカップラーメンを食べようとしたときに主人公に射殺された。
同じく24歳のときに映画「自由な女神たち」に出演。
東京の場末のキャバレーの歌手、山野辺徳子が男のために整形手術を受けて美女となるというストーリー。
片桐はいりは整形前の山野辺徳子を演じたが、整形後の山野辺徳子は松坂慶子だった。
銀座文化劇場で「自由な女神たち」が公開されると自分が出ている映画のチケットをもぎり、劇場から出てきた客に顔を二度見された。
その後も映画への出演が続き、もぎりとして受付に立つことが難しくなり、離れがたかったが25歳で映画館を辞めた。
「私は映画に出たことで映画館を去ることになった」
18歳から7年間、大学のあった吉祥寺より、劇団の稽古場があった池袋より、はるかに多くの濃い時間をすごした銀座の映画館で過ごした。
それは宝物のような7年間だった。