女優・島田陽子の生い立ち
島田陽子は、1953年(昭和28年)5月17日に熊本県熊本市で3姉妹の長女として生まれた。3歳の頃からクラシックバレエを習う。8歳の時に東京に転居、中学から劇団若草に入団した。1972年(昭和47年)に東京都世田谷の駒沢学園女子高等学校を卒業。高校時代はスポーツが得意な優等生で学級委員を務めていたという。
1970年にテレビドラマ『おさな妻』芸能界デビュー。1971年の『続・氷点』ではオーディションで1万2740人からヒロインに選ばれ辻口陽子役を演じた。1974年の『われら青春!』でヒロインの英語教師「陽子先生」を演じた。
島田は『続・氷点』と『われら青春!』で偶然に本名と同じ「陽子」という役名を演じている。
あまり知られていない島田陽子が出演したドラマ
島田陽子は、1973年4月4日から1974年3月27日にNHKで放映されたテレビドラマ『銀座わが町』の出演で広くお茶の間で知られるようになった。銀座を舞台に長崎から上京して和菓子屋に務める銀子(島田陽子)をめぐり、対立する天ぷら屋「江戸春」とレストラン「ぎんざ亭」。コミカルなタッチで人間模様を描いた名作だ。ぎんざ亭当主の長男(原田大二郎)で新聞記者が後に銀子の恋人になる。和菓子屋のユニフォームを着た島田陽子はチャーミングで、銀座のイメージにマッチしていた。島田の右頬の大きなエクボも印象的だった。
『銀座わが町』に登場する銀座で四代続く天ぷら屋「江戸春」のモデルは銀座・天国(てんくに)、銀座で100年続く「ぎんざ亭」のモデルは煉瓦亭である。1970年代の銀座の風景が懐かしい。
銀座で初めての歩行者天国(1970年8月2日) - YouTube
そしてもう一つのあまり知られていないドラマを紹介したい。1973年11月23日から1974年4月5日に日本テレビ系列で放送された『くるくるくるり』だ。東京の花街を舞台に柳坂の人力車屋大仙の主人仙吉(伴淳三郎)と娘の光子(島田陽子)。そして恋人役の萩原健一が光子と結婚するために人力車引きを目指す。青春に人情が交差するホームコメディーだ。当時22歳で主役を演じたショーケン(萩原健一)と島田陽子はビジュアル的に素晴らしいカップリングだった。
若かりし頃の島田陽子の魅力がいっぱいに詰まった、グリコ カレーSOFTのCMをおばえている方はいるだろうか。最後に右頬の大きなエクボを指先でツンと指される。
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島田陽子の人生を変えたドラマ「将軍 SHOGUN」
島田陽子が国際派女優と呼ばれるきっかけとなったのは、1980年のアメリカのテレビドラマ『将軍 SHOGUN』(米NBC)だ。当初、ヒロインまり子役はジュディ・オングに決まっていた。「魅せられて」のヒットにより歌手活動を優先したジュディは辞退、代役で島田陽子が抜擢された。ジュディ・オングの身長153センチに対して島田の身長は171センチ。決め手は島田の英語力だったのだろうか。
「将軍 SHOGUN」島田陽子
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島田陽子・国際女優の迷走
「将軍 SHOGUN」の全米視聴率は平均32.6%、最高36.9%。1980年11月には、日本で125分に編集された映画版が、東宝系劇場で公開された。
島田は『将軍 SHŌGUN』がヒットした翌年に、自伝『走れ!ミキ』を映画化した『リトルチャンピオン』で主演に起用された。アメリカ人スタッフによるアメリカ・ロケをこなし、日系アメリカ人女性マラソン選手・ゴーマン美智子を演じた。
そして、国際派女優と呼ばれる様になったことで優等生だった島田陽子は変化していく。
1988年の主演映画『花園の迷宮』でロック歌手・内田裕也と共演した。撮影でオールヌードになることをためらっていた島田に内田がメモを渡したことがきっかけで交際し発展する。