2代目タイガーマスク、超世代軍の旗手、全日本プロレスのエース、全日本プロレス社長を経てのプロレスリング・ノア立上げ。
常に先頭に立って闘い続けるプロレスラー、そして背中で語る男でした。
エルボーの貴公子、プロレスラー三沢光晴
みっさ~わ!みっさ~わ!!
後楽園ホールで、武道館で、東京ドームで。
私は声を枯らして三沢光晴を応援していました。

エルボーの貴公子、プロレスラー三沢光晴
三沢 光晴(みさわ みつはる、本名は三澤 光晴、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本のプロレスラー。1981年に全日本プロレスにてデビュー。
同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引。
2009年6月13日、試合中リング禍により死去、46歳没。

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三沢が魅せる至高のプロレス
http://blog.livedoor.jp/rastling/archives/27449129.html
数々の死闘の中でも、ともに死を賭して闘っていた「VS小橋建太」が至高のプロレスと呼んでよいと思います。
プロレスはガチか八百長か、とかいった議論はどうでもよく、互いに鍛え上げた心身を技と技の応酬でぶつけ合うものだと、そんな絶大な信頼感を持って三沢のファイトに酔いしれたものです。
【四天王プロレスの極み】「三沢光晴VS小橋建太」闘いを通してお互いの覚悟を確かめ合う、”死して悔いなし”の至高のプロレス!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
「プロレスラーとして男として」三沢の魅力
プロレスだけでなく実業においても多くのレスラー、従業員を抱えて常に重責と向き合う人生だった三沢光晴。
そんな「背負っていた」男の美学があります。

「プロレスラーとして男として」三沢の魅力
圧倒的なリング上での壮絶ファイトの一方、プロレスラーや格闘家に見られる矯激な発言や挑発的な言葉とは一切無縁。黙して語らなかった三沢には男の美学がありました。
三沢光晴bot (@noah_misawa_bot) | Twitter
[三沢光晴&武藤敬司]次元が違う天才プロレスラー。比較まとめ - NAVER まとめ
【三沢光晴をめぐる証言vol.1】小橋健太インタビュー - エキサイトニュース(1/7)
高校時代から三沢を追い続けた男、川田利明
黙して語らず、常に最高のプロレスを魅せた三沢が、唯一感情的な試合をしたとされるのは永遠の後輩、川田利明との試合だったといいます。
【川田利明】「デンジャラスK」三沢を追い続け、選手大量離脱後の全日本プロレスを守った男、川田利明。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
対小川直也、対抗戦においても三沢光晴は己のプロレスを貫きました
ヒクソン・グレイシー、小川直也。
マスコミや世間の注目を浴び、様々な形容で持て囃されたファイターたち。
「もし三沢が本気出したら」など、かつてジャンボ鶴田に抱いた幻想を私たちは三沢に抱き続けました。
でも三沢光晴は常に三沢光晴でした。
私たちは彼が「こんなに面白いものはない」と言い切ったプロレスを、彼のファイトを。
盤石の信頼感を持って応援することが出来たのです。
【三沢と小川/橋本の遭遇】2001年、NOAHと同時期に立上げを迎えたZERO-1はまさにカオスでした!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
普段の顔は下ネタをこよなく愛する人間味ある人(笑
漢気。
でも普段はとっても人間味溢れた、そんな人柄に多くの人が魅せられたのでしょう。
三沢光晴とは (ミサワミツハルとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
プロレスリング・ノアをスポンサードし続ける「ザ・リーヴ」のCMがたまらなく好き!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
三沢光晴の遺伝子を継ぐ男、丸藤正道
あの頃にハマっていたのものはこれだ!!第1回ゲスト『プロレスリング・ノア 丸藤正道選手』vol.1 - Middle Edge(ミドルエッジ)