宮本和知ってどんな人?
意外にも少年時代はサッカー小僧だった!
宮本和知は1964年2月13日生まれで、山口県は下関市出身です。1984年のドラフト会議で3位指名を受け、1985年から1997年まで読売ジャイアンツの左投手として活躍しました。引退後は司会やタレント、スポーツコメンテーターなどとして芸能界を中心に活動していましたが、2019年からは読売ジャイアンツの投手総合コーチを務めています。
そんな経歴を持っていますが、小学校3年のころから始めたのは意外にも野球ではなくサッカー。中学校でもサッカー部に入りますが、ほどなくして退部し、野球を始めます。
高校2年のときに投手に転向しますが、1980年の秋季中国大会準々決勝で敗退、翌年夏の山口大会でも準決勝止まりで、甲子園出場はかないませんでした。
ロス五輪で金メダリストに!
宮本和知は高校を卒業後、社会人野球の川崎製鉄水島製鉄所野球部へ入団します。
1984年の都市対抗予選での好投が注目されると、同年に開催されたロサンゼルスオリンピックで野球日本代表に選ばれ、金メダル獲得に大きく貢献しました。
ドラフト3位指名を受けるもサッカーで怪我をしまさかの入団発表欠席!
宮本和知はこの年のプロ野球ドラフト会議で、見事、読売ジャイアンツから3位指名を受けますが、前日にやっていたサッカーで足首に怪我をし、入団発表を欠席するという前代未聞の大失態をやらかしています。
現役時代は王・藤田・長嶋監督のもとで活躍
ミスター命名「レフティーズ」の一人として優勝に貢献
宮本和知は王貞治監督のもと、背番号13をつけてルーキーイヤーから中継ぎを中心に起用されます。
1989年に藤田元司が監督に就任すると、先発ローテーションの一角を担うようになり、同年の日本シリーズ第7戦では胴上げ投手にもなっています。
長嶋茂雄が就任した1993年から1994年にかけては先発だけでなくリリーフでの起用も多くなり、1995年にはローテの谷間で投げることもありましたが、桑田真澄や槙原寛己といった主軸が故障で離脱した時期には先発に返り咲き、長嶋監督命名の「レフティーズ」の一人として優勝に大きく貢献します。
2020年BBM発売の球団別カード『読売ジャイアンツヒストリー 1934-2020』より
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実はバツイチ!両親を東京に呼び寄せ娘を育てる
宮本和知はこの年、8年間連れ添った妻と離婚しています。これについてはあまり公に語られていませんが、当時、山口のご両親を東京に呼び、娘さんを育てている様子がテレビで紹介されていたのを覚えています。
現在はこの娘さんも結婚しており、宮本自身、もうおじいちゃんだそうです。
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事故の後遺症により惜しまれつつ現役引退
宮本和知は1997年の開幕2日目に追突事故に遭い、頚椎を痛めます。この後遺症のため、同年で現役を引退しました。