1980年の入試で発覚した「早稲田大学入試問題漏洩事件」
皆さんは「早稲田大学商学部入試問題漏洩事件」をご存じでしょうか?大学受験バブル期の直前である1980年に、早稲田大学商学部で行われた入試において試験問題が事前に漏洩していたことが発覚した事件であり、受験戦争へと突入していた当時の日本社会に大きな影響を与えました。この記事では、同事件の経緯及びその後の展開について書いてみたいと思います。
当時の新聞報道。

事の発端となった、2月24日の商学部入試。
事の発端となったのは、1980年2月24日に行われた早稲田大学商学部の入学試験。当時、早稲田の商学部は定員1100人に対し23000人の受験生が集まる非常に狭き門として、私大最難関の一角として受験生の憧れの的でした。そんな商学部の入学試験に、試験監督として現役の早大生が立ち会っていたのですが、その際チラっと目に入った試験問題にその早大生が違和感を覚えました。

なぜ違和感を覚えたのかと言うと、その早大生が入学試験から一週間以上前の2月12日に、とある予備校で「どこかの入試問題の解答速報」として、当日の試験問題と全く同じ問題の模範解答を作っていたためです。
解答速報を作った問題と一字一句同じ問題に、これは問題が漏洩したに違いないと早大生は大学教員に報告、すぐに商学部長にまでその話は伝わったものの、この時点で既に試験時間はほぼ終了していたため、とりあえず試験自体は最後まで行い、その後に極秘調査をすることとなりました。

試験終了後、早稲田大学の関係者は模範解答の作成を依頼した予備校に出向き、どういうことなんだと問い詰めました。そして依頼した予備校講師に詰め寄ったものの「何も言えない」と、はぐらかされるばかり。埒が明かないと判断した大学側は「そもそも問題の出所はどこなのか?」の調査を開始しました。そこで浮上したのが「印刷所」です。

商学部の入学試験問題は、1948年に開設された「早稲田大学印刷所」で例年印刷されており、試験問題の印刷が完了し、印刷所の倉庫に保管されたのが2月7日、早大生が模範解答を作成したのが2月12日、印刷所から試験問題が商学部の金庫に持ち込まれたのが2月18日だったため、印刷所で保管されていた間か、印刷中に問題が漏れた可能性が浮上しました。
しかし、印刷所は印刷所で厳重なチェック体制を敷いており、印刷に携わる職員は印刷期間中は大学の敷地を出られないなど、不審な動きが無いか常にチェックをしていました。そのため印刷所の所長は試験問題の管理に自信を持っており、「全く心当たりがない」と印刷所からの漏洩を否定しました。

毎日新聞にタレコミが入り、新聞記者が捜査を開始!
大学側の捜査が難航する中、マスコミ側に動きがありました。毎日新聞社の社会部にタレコミがあり、商学部の試験問題が漏洩したことをマスコミがキャッチしたのです。そして記者は例の模範解答を作らせた予備校にたどり着き、根強い説得を行い「問題を持ち込んだのは知り合いの会社員」との言質を取りました。

そして今度はその会社員のところに出向き、事件の真相を聞き出そうとしたのですが「勘弁してくれ」の一点張りで埒があきません。しかし、記者の10時間に及ぶ説得の結果、会社員は折れ「その問題をもって依頼してきたのは、私の高校時代の恩師だ」と告白したのです。その人物は2年前に教師を退職し、当時運輸会社で働く人物でした。すぐに記者はその人物を当たったのですが、その元教師は「知らぬ存ぜぬ」と白を切り続けました。ここで一旦調査がストップしてしまったと思った矢先、事態は大きく動き始めます。
3月6日、合格発表前日に「問題漏洩」が新聞一面で報道される!!
元教師の調査に当たる記者がいた一方で、早稲田大学の理事宅を張っていた記者もおり、その記者が理事からこの時点ではまだ公表していなかった「問題漏洩の事実」の言質を取ったのです。そのため、商学部の合格発表前日である3月6日の毎日新聞の一面には「早大で入試問題漏れる」の文字が踊り、翌日の合格発表への影響は必至となりました。そのため、商学部長は合格発表とともに記者会見を開き、真相究明に全力を挙げるとコメントしました。

こうしてマスコミの報道により一気に社会問題と化した試験問題の漏洩。ここで改めて記者が元教師を問い詰めると、ついに折れ「大学の人間から問題を受け取った」と暴露したのです。その結果、元教師に問題を渡した早稲田大学の50代の職員が、共犯2名とともに警察に出頭。警視庁は窃盗の疑いで3人の取り調べを開始することとなりました。
大学職員が「不正入学請負グループ」を形成していた!!
そしてこの警察の本格的な捜査により、事件の全貌が明らかとなっていきます。この元教師に問題を渡した大学職員は、他の職員と共謀して「不正入学請負グループ」を作っており、長年にわたり裏口入学のあっせんを行っていました。その手口は大胆で、入試が終了し金庫に保管されている答案用紙の中から、裏口を希望する受験生が入試で提出した答案用紙を合格ラインを超えている答案用紙とすり替えるという手口で合格させるというもの。この手口により、10年近くにわたり裏口入学のあっせんを繰り返していました。

しかし1979年になって、答案のすり替えをしていた職員が人事異動によりすり替えが不可能となったため、1980年の入試については「試験問題を盗む」という方針に転換。印刷所の監視役の職員を500万円で買収し、彼に問題を盗ませることで試験問題の入手に成功しました。そこまでは上手くいったものの、ここでトラブルが発生しました。模範解答の作成を依頼する予定だった東京大学の学生が多忙のため作成が困難となり、その代わりとして早稲田大学の学生が模範解答の作成をすることになったのです。そしてたまたまその早大生が試験監督をやったため、今回の漏洩が発覚することとなりました。
過去にさかのぼって大量の学生・卒業生が処分される!!
こうして不正入試・裏口入学の闇が明らかとなり、1980年の入試の合格者のうち試験問題を不正に入手したことが確認された9人が合格取り消しとなり、不正にかかわった大学職員に加え、元教師、印刷所職員も逮捕、実刑判決が下ることとなりました。しかし話はここで終わりませんでした。それは、過去に不正入学した者たちへの処分です。

早稲田大学は今回の裏口入学について、過去にさかのぼって徹底的に調査しました。その結果、42人の卒業生、13人の在校生が不正入学請負グループにより裏口入学をしていたことが発覚。計55人の入学と学籍を取り消したのです。そして今回の事件の責任を取る形で商学部長も引責辞任となりました。
非常に厳しい処分が下されることとなった、1980年の「早稲田大学入試問題漏洩事件」。しかしながらこの厳しい対応により、早稲田大学はそのブランドイメージの向上に成功しました。そして80年代後半からの大学受験バブル期から現在に至るまで、最難関校の一角として君臨することとなったのです。

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