近年は柔和な表情で若かりし頃を回想するシーンが増えた志村けん。
デビューから50年近くもの間、コント王の名にふさわしくお笑い・バラエティ畑一筋だったからか、下積みなど若き日の話題が新鮮に映ります。
2019年7月31日放送の「あいつ今何してる?」では、志村けんのドリフ付き人時代から芸能界デビューまでが紹介されました。当時の同志である井山淳さんも登場したこの番組では、志村けんがデビューした当時のコンビ「マックボンボン」も紹介されていました。
ザ・ドリフターズの付き人として
1968年2月。当時高校3年の志村が新宿区若松町にあったいかりや長介の自宅に行き、雪の降る中で12時間、いかりやの帰宅を待って弟子入り志願したというのは有名な話。
「バンドボーイに欠員が出たら呼ぶ」と言われた一週間後に呼ばれ、そこからは加藤茶の付き人となるも一年で脱走。しかし再び弟子入り志願し、過酷な下積みに耐える日々でした。
そんな生活をともにした同志が井山淳さん。
志村より一年早く、やはりいかりや長介の自宅に飛び込んで弟子入り志願した井山さんと志村は、同じアパートで生活し同じ銭湯に通う生活を送りました。
食べるのもままならないような当時の下積み生活を笑って振り返る志村けん。
銭湯の女将さん、喫茶店のマスターなど人の親切さにも支えられて当時を過ごしていたようです。
マックボンボン
一年先輩だった井山さんですが、志村けんとは「同志」と振り返ります。
約4年間の付き人生活をともにした二人は1972年、お笑いコンビ「マックボンボン」を結成します。
このコンビのことについては、付き人時代に閉館後の銭湯にかけこんでは掃除を手伝いながら風呂を拝借していた二人が、脱衣場でコントの練習に明け暮れていたと女将さんが振り返っていました。
なんだか仮面ライダーのような出で立ちの二人。
井山さんの「おフロ屋さんで修業しました!」のコメントが。
なんと初めは「チャーミングコンビ」という、ちょっと笑ってしまいそうなコンビ名。
井山さんも述懐していましたが柔道あがりのいい体格で、見るからにチャーミングではなさそうです。
初めての仕事は「小松みどりショー」の前座。その後は小柳ルミ子、天地真理、いしだあゆみ、森進一、沢田研二、鶴田浩二、三波春夫などの前座を務め、身体を張ったネタが評判になっていきます。
↑とあるのですが、残念ながらマックボンボンの動画はYoutubeには見つからないです。。。
志村けんの容赦ないツッコミはマックボンボン時代から顕在だったみたいですね。
この当時、師匠であるいかりや長介からは「同じネタをやるな」とアドバイスをもらっていたそうです。
いきなりの冠番組「ぎんぎら!ボンボン!」
1972年10月には、コンビ名が冠となった番組「ぎんぎら!ボンボン!」で初レギュラー&初司会。
しかし残念ながら人気は出ず、1クールで打ち切りに。
いかりや長介は二人の知名度の低さとワンパターンなネタを危惧し、ネタのストックも無いままテレビに出演することには難色を示していたようです。
この番組の不振が影響してか井山淳さんは芸能界を去ることとなり、志村けんは再びドリフの付き人に。
当時のことを仲本工事は
と語っています。
この一年後、志村けんはメンバー見習いというポジションでドリフターズのメンバーに加入。
※「志村けん」はココから、それまでは「志村健」で活動
3か月後、荒井注の脱退と共に正式にメンバーへ。メンバー最初の2年はあまり人気も出ずにスランプだったとされているものの、76年3月「東村山音頭」で大ブレイク。一躍お笑い界のスターダムへと駆け上がっていくこととなります。
80年前後「8時だよ!全員集合」が毎週楽しみだった筆者は、当時の志村けんといえばドリフ一の人気者で「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」でしたが、付き人時代~マックボンボン~見習い~東村山音頭まで、志村けんの大ブレイクまでは平たんな道のりでなかったことを改めて知りました。
志村けん!ザ・ドリフターズの枠からさらに羽ばたいた稀代のコント王!! - Middle Edge(ミドルエッジ)